ep.71 青い亡霊とバブルの憑依
パシフィコ横浜の深部、かつてのイベントホールB。
その中央で、一郎は再び「それ」と対峙した。
青白く揺らめく、実体のない人型の影。
『Tormented Spirit(苦悶する亡霊)』。
「……逃げ回るだけが能か? 手間をかけさせやがって」
一郎がゾンビたちに突撃の合図を送ろうとした、その時だ。
亡霊は戦う素振りも見せず、あざ笑うかのようにすり抜けた。
ターゲットは一郎ではない。
ホールの隅で蠢いていた、変異した巨大なクモの群れだ。
「……逃げているわけではないな、あれは」
視界の先、青白く揺らめく亡霊――『Tormented Spirit 《トーメンティッド・スピリット》』が、蔦の隙間を縫うように移動している。
驚くべきは、その挙動だ。
亡霊は足元に群がる小型の変異ネズミには目もくれず、ホールの柱の影に潜んでいた巨大な多脚モンスター、いわゆる「エリート個体」に向かって一直線にダイブした。
亡霊がその体を通り抜けた瞬間、多脚モンスターの体表に青い雷光が走りシステムログが狂ったように警告を吐き出す。
【警告:Tormented Spirit 《トーメンティッド・スピリット》の接触により、対象の攻撃速度+50%、移動速度+50%】
【対象に『火属性ダメージ追加』のバフが付与されました】
「……なっ!?」
クモたちの外殻が不気味な青白い燐光を放ち、その節くれだった脚が、まるで過剰な栄養を注ぎ込まれたかのように太く、長く膨れ上がる。
「……なるほど。あいつの目的が分かったぞ。所構わずエリートモンスターへバフを仕掛けて逃げ回るとはこざかしい奴め……」
動きの鈍かった雑魚共が、青い残像を引き連れて加速する。
物理法則を無視した跳躍で壁を駆け、一郎の包囲網を頭上から突き破ってきた。
「チッ、移動速度と攻撃速度への重複バフか。嫌なMODだ……。だが、際限なく追加されるバフモンスターを急いで食い破らなければ、こちらが逆に食い殺されかねないな」
一郎は襲い来るクモの牙を守護者の盾で弾かせ、背後に下がった。
「守護者、前線を維持しろ! ゾンビ共、外側から削れ! 実力以上のバフで膨れ上がった敵には必ず『隙』ができる。そこを突け!」
亡霊はさらに奥、他のモンスターを「強化」するためにホールの闇へと消えていく。
後を追う一郎は、網膜に表示されるログを冷徹に分析する。
この亡霊、ゲーム的な仕様で言えば「触れた敵を強化し、同時にドロップ品を豪華にする」という特殊なバフ・ユニットだ。
特に、亡霊がモンスターの体内に完全に入り込む『Possessed(憑依)』状態になれば、その個体はもはや別次元の強さ――そして別次元の宝箱へと変貌する。
「リスクを取った分だけリターンが増える、典型的な梃子の原理だ。実力に見合わない急激な成長……外部からの資金注入だけで膨れ上がったベンチャー企業そのものだな」
強化された多脚モンスターが、重戦車のような速度でこちらへ突っ込んでくる。
床のタイルを粉砕し、青白い電光を撒き散らすその姿は、先ほどまでの「ただの雑魚」とは一線を画していた。
「くはは! 一体倒すごとに時給が跳ね上がっている……。だが、あいつの狙いはこの程度の小銭じゃないな」
守護者の盾が火花を散らし、ゾンビたちの爪が強化された外殻を削り取る。
通常なら一撃で沈むはずの雑魚が粘りを見せるが、それは同時に、一郎の中に「強欲」という名の火をつけた。
亡霊は複数Packを強化して満足することなく、さらに奥の闇へ。
次なる的を探して、広大なホールの深部へと消えていく。
その先にあるのは、このエリアのボスが鎮座する医務室方面だ。
「……チッ、逃げ足の速い亡霊め。あのボスモンスターに『完全憑依』されたら、リターンも最大だが、こちらの損害のリスクも跳ね上がるぞ」
一郎の瞳に、投資家特有の「冷たい熱」が宿る。
リスクを管理し、暴騰する市場を制圧する。
かつて画面の中の数字でやっていたことを、今は暴力でやるだけだ。
「面白い。……このバブル、弾けるまで付き合ってやろうじゃないか」




