ep.69 白い帆と慈悲の代価
川崎のコンビナートを後にした一郎が、横浜の「みなとみらい」エリアに足を踏み入れたのは翌朝のことだった。
「……なるほど。かつての観光地(オシャレな街)も、管理者がいなくなればただの『廃墟』か」
一郎の視界に広がるのは、潮風と異界の植物に完全に侵食された緑の廃墟だった。
ランドマークタワーは巨大な蔦が螺旋状に巻き付き、まるで天を目指すバベルの塔のようであり、インターコンチネンタルホテルの白い外壁は、発光する青い苔に覆われて不気味な燐光を放っている。
そんな「緑の迷宮」と化した街の中心で、ひときわ異彩を放つ建物があった。
パシフィコ横浜――かつて数多の国際会議やビジネス展示会が行われた、あの「白い帆」を模した巨大な建築物だ。
一郎がその建物に近づいた瞬間、胸ポケットに収めた「Nessa's Prayer(ネッサの祈り)」が、心臓の鼓動を上回る激しさで脈動し始めた。
「……チッ、また私になにか強制させたいのか?」
視界の隅に、ノイズ混じりのシステムウィンドウが強制展開される。
【クエスト発生:Mercy Mission(慈悲の任務)】
【目標:パシフィコ横浜内に残された『Medicine Chest(薬品箱)』の回収】
【報酬:クイックシルバーフラスコ(Quicksilver Flask)】
「『慈悲』、だと? 冗談じゃない。俺に無償のボランティアをしろと言うのか?」
一郎は吐き捨てるように言った。
投資家にとって、リターンの約束されない労働は市場を歪める悪徳でしかない。
無視して立ち去ろうとした一郎だったが、報酬欄のテキストを読み取った瞬間、その足が止まった。
「……クイックシルバーフラスコ。効果は、一定時間の『移動速度40%上昇』か」
(使い捨てのポーションしかないと思っていたが、フラスコは存在するのか……これで戦略の幅が増える)
この世界における回復アイテムは、通常は使い切りのポーション。
だが、この『Flask』という代物は、敵を倒してその「魂」を吸い取ることで、中身が自動的に再充填されるという極めてゲーム的でそして合理的な仕様を持っている。
つまり、リソースを枯渇させることなく半永久的に「加速」という恩恵を享受し続けられるということだ。
一郎は手元の端末を操作し、湘南までの残りの走破までのシミュレーションを再計算する。
瓦礫の山となった横浜から、起伏の激しい戸塚を抜け、湘南へ至るルート。
通常であれば、この「緑の廃墟」での行軍は大幅なタイムロスが避けられない。
「移動速度の40%バフ。全行程50kmの道程において、このリターンはもはや単なる便利アイテムの枠を超えている。攻略時間を劇的に圧縮する『壊れアセット』だ。……リスクを取るだけの期待値は十分にあるな」
パシフィコ横浜の巨大な入り口は、異界の蔦が複雑に絡み合い、まるで獲物を待つ怪物の口のように開いている。
かつて最新技術や未来のビジネスを誇っていた展示ホールは、今や未知のモンスターが跋扈する高難易度ダンジョンへとパッチされていた。
「行くぞ。……これは慈善事業じゃない。未来の時間を買い叩くための、れっきとした『先行投資』だ」
一郎は守護者を先頭に立たせ、蔦を力任せに引き千切りながら、パシフィコ横浜の暗いエントランスへと足を踏み入れた。




