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ep.68 鉄の墓標と深夜の配当

川崎・浮島町。

多摩川を越えた先に広がるのは、月光に照らされて巨大な機械の死体のように横たわるコンビナート地帯だった。

その時だった。

上陸したばかりの一郎を「獲物」と定めたのか、岸壁の影、ヘドロの溜まった排水溝からぬらぬらと光る複数の影が這い出してきた。

それはゲームの序盤でプレイヤーを苦しめる水棲怪人――『Mermanマーマン』の群れだ。

槍を手にした彼らは、三つの目で一郎を捉え、喉を鳴らして距離を詰めてくる。


「チッ、接岸早々これか。ミニオン共、迎撃体制――」


一郎が指示を出そうとした瞬間、胸元のペンダントが心臓の鼓動に合わせるように青白く明滅した。

すると、どうだ。


一郎の足元から、薄く冷たい霧が波紋のように広がり、地面を這い出したMermanマーマンたちの足を包み込んだ。

先ほどまで殺気立っていた彼らの動きが、ピタリと止まる。

彼らは困惑したように顔を見合わせ、一郎を見る目が「獲物」から「不可侵の何か」を見るものへと変わった。


やがて、Mermanマーマンたちは深々と頭を下げるような動作を見せると、まるでモーゼが海を割るように左右へ分かれ、一郎のためにコンビナートへ続く道を開けたのだ。


「……なるほど。単なる敵対抑制アグロ・カットじゃないな。これは『認識タグ』の書き換えだ。今の俺は、あいつらの目には『上位の存在』と同格に映っているというわけか」


一郎は冷徹にその現象を分析する。

多摩川を越えても、この先には鶴見川や横浜の入り組んだ運河が立ち塞がっている。

橋がすべて落ちているこの世界において、このペンダントは単なる護符ではなく、地形そのものを支配するための「管理者権限マスターキー」だ。


一郎はペンダントを無造作にポケットへ押し込み、Mermanマーマンたちが跪く中を悠然と通り過ぎる。

コンビナート跡地まで到着し、疲労も隠せないためここで一泊することを決める。


「……さて、1日目の宿泊地ホテルとしては上出来だ。サービスもアメニティもないが、少なくとも、新宿のように話の通じない生存者バカに寝首をかかれる心配はない」


一郎は、目の前にそびえ立つ「鉄の密林」を見上げた。

ここは住居が皆無な分、避難民の成れの果てであるゾンビや亡者の類が極端に少ない。

彼は守護者アニメイトガーディアンを従え、プラントの中でも最も高い蒸留塔のキャットウォークへと登った。

まずは、これから進むルートの調査が必要だ。


双眼鏡のレンズ越しに、今渡ってきたばかりの多摩川の対岸――羽田空港を覗き見る。

そこでは今、深夜の「捕食」が始まっていた。


「…………っ」


滑走路に蹲る、ビルほどもある巨大な影。

闇の中から別の巨影が現れると、放置されていた旅客機――ボーイング777の残骸を「殻付きの海老」でも剥くようにバリバリと咀嚼し、その中から溢れ出した「別の怪獣の肉」を貪り食い始めた。

凄まじい金属の軋み音が対岸まで響く中、捕食側の怪獣が、遠くで瓦礫が崩れたわずかな音に反応し、その巨躯を俊敏に翻すのを目撃する。


「……なるほど。あいつらの感知範囲ディテクション・レンジは視覚より音か。あの爆音の中でも微細なノイズを拾い分けるとはな」


一郎は双眼鏡を下ろし、周囲の配管を見回した。

海風が複雑に入り組んだパイプラインを抜け、低く不気味な「笛の音」を奏でている。


「なら、この工場の不協和音は、俺の移動音を消す最高のノイズ・キャンセラーになる。不快な環境音さえ、使い道次第で資産アセットに変わるというわけだ」


塔を下りた一郎は、さらに南へと足を進めた。

このエリアはもともと人が少ない「工業・倉庫エリア」だ。

ダンジョン化の浸食こそ激しいが、それゆえに一般の略奪者たちのターゲットからは外れている。


一軒の巨大な物流倉庫へ入り込むと、そこには「名もなき警備員」のゾンビたちが徘徊していた。

ヘルメットと防弾ベストで多少の防御力はあったが、ゾンビの怪力の前にはただの肉塊に過ぎない。


「邪魔だ。退け」


鈍い破砕音と共に警備員を粉砕し、奥のシャッターをこじ開ける。

そこに眠っていたのは、パレットに積まれた山のような非常食のストックだった。


「……くくく、やったぞ。賞味期限など、この世界じゃただの数字パラメーターだ。保存の利く現物資産アセットをこれだけ確保できれば、湘南までの兵站ロジスティクスは完全に解決したな」


手近な缶詰を収納袋イベントリに放り込み、守護者アニメイトガーディアンに背負えるだけ持たせる。

次回も略奪(おっと正当な報酬だったな・・・)のため扉の鍵を閉め、一郎はさらに南下を続け居住性の高そうなオフィス併設の倉庫を発見した。


二階のオフィスには、社員用の小さな仮眠室が残っていた。

壁には「今月の生産目標」という色褪せたスローガンが貼られ、デスクには飲み干された栄養ドリンクの瓶が散乱している。


「……仮眠室に、大量のカフェイン。ここも労働者をこき使うブラック企業だったか。結局、怪獣バグ程度で破綻する程度の脆いビジネスモデルだったというわけだ。滅んで当然だな」


一郎は吐き捨てるように毒づくと、守護者アニメイトガーディアンをドアの前に立たせ、安物のパイプベッドに横たわった。

カビ臭い寝床だが、野宿よりは数倍マシだ。


「明日は横浜。可能な限り距離を稼ぎたいところだ……」


多摩川を越え、人類の勢力圏を離脱して最初の夜。

一郎は鉄の錆びた臭いに包まれながら、深い泥のような眠りに落ちていった。

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