ep.67 サイレント・ガイド
人魚が静かに唇を震わせ、歌い始めた。
その旋律は、電子ノイズが混じった高周波のようでもあり遠い記憶の底で鳴り響く聖歌のようでもあった。
「…………っ」
多摩川の濁流が激しく泡立ち、水底から巨大な「何か」が浮上する。
泥を跳ね飛ばして姿を現したのは、家屋ほどもある巨大な二枚貝の殻だった。
それは異界から無理やり召喚されたものであり、この世界の物理法則を無視してプカプカと水面に浮かんでいる。
「……まさか、貝殻のタクシーに乗る羽目になるとはな。不可思議な現象だが、もはや驚かなくなってきたな。」
一郎は呆れながらも、迷うことなくその「足場」に飛び乗った。
4体のゾンビと守護者も、一郎の指示に従い無機質な動作で貝殻の凹凸に足をかける。
人魚は一郎たちの準備を確認した後、水面を優雅に泳ぎ出す。
すると、巨大な貝殻は彼女の軌跡をなぞるように滑るような速度で対岸へと進み始めた。
数分後、貝殻が川崎側の泥土に鈍い音を立てて接岸した。
役目を終えた召喚物が泥の中へ沈みゆく中、一郎は上陸し、水面に留まる人魚を振り返った。
「待て」
一郎は収納袋から、闇市で仕入れた希少な「Silver Coin」を取り出し、彼女へ向けた。
「タダより高いものはない。……お前……名はもしやネッサといわないか? それとも、彼女の皮を被った『何か』か?。なぜ俺を助けた。俺が持っている『男爵』の兜がフラグか? それとも、俺自身のパラメーターに何らかの報酬を期待したのか?」
投資家として、目的不明の「善意」は最も警戒すべきだ。
一郎は彼女の正体を突き止めようと問いかける。
人魚は小首をかしげ、一郎の瞳をじっと見つめ返した。
彼女は差し出された対価には目もくれず、ただ、慈愛に満ちた微笑を浮かべる。
その唇がかすかに動き、何かを伝えようとした。
だが、声は届かない。
代わりに、一郎の脳内に「砂嵐のようなノイズ」と、一瞬だけ「潮騒のような安らぎ」が混ざり合った言語化不能な感覚が走り抜ける。
「……エラーか? ノイズで何を伝えたいのかわからないのだが?」
一郎がさらに踏み込もうとした瞬間、人魚の姿が陽炎のように揺れた。
彼女の体は水面に溶けるように透けていき、一郎の手が届くよりも早く一粒の泡となって消えてしまった。
(ログに履歴が残らない……。彼女自体が、このマップの一時的な幻影だったというのか……?)
誰もいない川崎の廃墟に、湿った空気と潮の残り香だけが漂う。
一郎は差し出した手を戻し、誰もいなくなった水面を少しだけ長く見つめてから、吐き捨てるように言った。
「……結局、ノーコメントか。『意図の見えないフリーランチ(無償の供与)』ほど、後で高くつくものはないんだがな」
そう独りごちながらも、一郎は人魚が消えた波紋の跡を鋭い眼光で見据える。
そこには、彼女の幻影が残した唯一の「実体」が浮いていた。
一郎は泥に足を入れ、それを拾い上げる。
それは、淡い真珠光沢を放つ「青い貝殻のペンダント」だった。
一郎がそれを手にした瞬間、視界の隅にシステムログが走る。
【アイテム確認:ネッサの祈り(Nessa's Prayer)】
【種別:クエスト・ユニーク(譲渡不可)】
【効果:水棲モンスターのアグロ(敵対)を抑制し、特定の渡河ポイントで『道』を拓く】
「……やはり無料ではなかったか。これは報酬ではなく、最初から湘南まで来いという『強制招待状』だな」
多摩川を越えても、この先には鶴見川や横浜の入り組んだ運河が立ち塞がっている。
橋がすべて落ちているこの世界において、このペンダントは「最短ルート」を維持するための必須装備だ。
「他者に行動を強制されるのは好みじゃないが、コストゼロでショートカットが買えるなら悪くない」
一郎はそれを無造作にポケットへ放り込む。
人魚が去り際に浮かべたあの寂しげな微笑み。
それは、これから彼が進む道の険しさを案じたものだったのか、それとも……。
川を越えた。
ここからは、人類の勢力圏を完全に離脱した「真の地獄」が始まる。
「行くぞ。……時間は有限だ」
ゾンビたちを引き連れ、一郎は灰色の川崎の街へと足を踏み出した。




