ep.66 絶たれた境界線(デッドライン)
一郎は新宿を離れ、まずは東へと向かった。
荒廃した国道20号を進み、山手線の内側――「新日本」の暫定的な支配領域を抜ける。
「……やはり、管理されているエリアは歩きやすいな。移動コストが大幅に抑えられる」
ゾンビたちを引き連れての移動は目立つが、ここではカレンシーを使った袖の下があれば無駄な検問で時間を取られることもない。
一郎の狙いは、東京湾だ。
迷路のような市街地戦を避け、湾岸沿いの開けたルートを南下し、そこから湘南方面へ一気に舵を切る。
「羽田付近まで出れば、そこからは直線的な『マップ』になる。遮蔽物がないのはデメリットだが、こちらにはゾンビという『肉の盾』がある。視界の広さは、そのまま索敵の優位性に繋がる」
一郎は、不味いスティックを噛み砕きながら、脳内の地図を更新する。
(多摩川の渡河も、湾岸の巨大な橋なら、最悪『守護者』の怪力でバリケードを排除して進めるはずだ)
だが、安全なはずの「新日本」の境界線が近づくにつれ、一郎の鼻を突く臭いが変わってきた。
湾岸エリアの入り口、かつての有名ホテルが並ぶ一角。
潮の香りと、腐敗した魚の臭い――そして、「何か巨大なものが動いた後の粘液」の臭いだ。
「……安全マージンも、ここまでのようだな」
品川を過ぎたあたりで、空気が一変した。
「新日本」の統治が及ぶ安全マージンは、道路に散らばる放置車両の山と共に途絶えた。
そこから先は、かつての大怪獣大行進によって徹底的に「均された」廃墟の原野だ。
「……なるほど。これは酷いな」
多摩川の袂に辿り着いた一郎は、不味い合成酒を一口煽り目の前の光景に毒づいた。
かつて数万の車両を飲み込んでいた六郷橋も、多摩川大橋も、そのすべてが飴細工のようにへし折られ、濁流の中にその巨躯を横たえている。
一郎は双眼鏡を東京湾の方角へ向けた。
水平線の彼方、海面を割ってそびえ立つ山のような「背びれ」が、ゆっくりと波を立てて移動している。座礁し中身をぶちまけてバラバラになった巨大タンカーの残骸が、そこがもはや人類の通れる道ではないことを雄弁に物語っていた。
「船も、橋もダメか。人類の勢力圏は、文字通り『徒歩で移動できる範囲』に限定されたわけだ」
海は巨大な怪獣たちの庭となり、陸路は物理的な断絶によって封鎖されている。
今や、多摩川を渡って川崎、さらにその先の湘南へ向かうということは、かつての大航海時代に未知の暗黒大陸を目指すのと同義だった。
(どうにかして多摩川を渡る算段をつけねば・・・)
一郎はゾンビたちを周囲に展開させ、渡河のできそうな場所を探し始めた。
上流へ迂回するか、あるいは瓦礫の足場を利用していかだでも作るか――。
その時だった。
「…………?」
濁流の渦巻く水面から、白い指先が突き出た。
続いて、濡れた長い髪と、月の光を弾くような白い肌。
水の中から音もなく姿を現したのは、伝説に語られる「人魚」そのものだった。
しかし、それは絵本のような幻想的な存在ではない。
耳の横にはヒレのような器官が覗き、その指の間には水かきがある。
だが、一郎を驚かせたのはその容姿よりも、彼女から放たれる圧倒的な「知性」と「既視感」だった。
その人魚は、鋭い牙を剥くことも、凶暴な鳴き声を上げることもなかった。
ただ、静かに、そしてどこか悲しげな微笑を浮かべて一郎を見つめている。
その瞳は、怪物の無機質なそれではなく、明確に意志を持った「理性」の光を宿していた。
(……モンスターの眷属じゃない? 敵対反応が一切ないぞ)
一郎は驚くよりも先に、武器にかけた手を緩めた。
この世界において、言葉を交わさずとも友好的なモンスターなど、これまでは存在しなかったからだ。
人魚はゆっくりと右手を上げ、対岸の川崎――そして、そのさらに南、湘南の方角を指差した。
まるで、一郎がそこを目指していることを最初から知っていたかのように。
(……異界の住人?あるいはゲームと現実が混ざっているならクエストNPCか? だが、この外見。ゲームのACT1で記憶にあるのは……)
一郎の脳内のデータベースが、一人の女性の名前を弾き出そうとして止まる。
かつて多くのプレイヤーが拠点で顔を合わせた、あの慈悲深い「彼女」の面影。
「……お前、俺を導くつもりか?」
一郎の問いかけに、人魚は答えない。
ただ、水面を尾びれで優雅に叩くと、まるで「ついてこい」と言わんばかりに、崩落した橋の残骸の間を縫うように泳ぎ始めた。
絶望的な断絶の象徴である川から現れた謎の導き手。
一郎は不味い合成酒の残りを飲み干すと、未知の「イベント」の発生を確信しゾンビたちに移動の合図を送った。




