ep.65 遠征準備
新宿のビル風に混ざる異界の臭い。
一郎はナヴァリから授かった「予言」を頭の中で反芻していた。
「南の波打ち際で、古びた鉄を錆びた血で洗え」
その言葉が指し示す目的地は、湘南エリア――江の島付近。
一郎の知識が正しければ、これは特定のユニーク装備を上位互換へと進化させる『Fated Uniques』の発生フラグだ。
ゲームでは特定ボスを倒すことが条件だったはず。
『錆びた血』がおそらくボスを指しているのだろう。
「新宿から約50kmか……。物流が死に、道路は荒廃し、道なき道を進み、魔物が跋扈する現状では片道2日の強行軍になる。だが、戦力強化は確実だ」
拠点である雑居ビルに戻った一郎の耳に、不穏な噂が飛び込んできた。
NSビル深層から「妙な霧」が溢れ出し、調査に向かった探索者の悲鳴が1階まで響いてきたという。
ビル全体が急速に「高難易度マップ」へと変質しつつあった。
(今の装備で深層へ突っ込むのは、初期装備でエンドコンテンツに挑むような自殺行為だ。湘南遠征はレベリングと装備更新を兼ねた、必須の『先行投資』になる)
一郎はすぐさま闇市へ向かい、遠征用のリソース確保に動いた。
並んでいるのは、文明崩壊前の豊かさを嘲笑うような「クソマズい現実」ばかりだ。
「……これを食えというのか」
手に取ったのは、味の概念を捨てた泥のようなカロリーの塊『合成栄養スティック』。
そして水の代わりに、喉を焼くほどアルコールのきつい『合成酒』。
浄化が間に合わない生水を飲むよりはマシだが、かつてコンビニで買えたランチパックが今や遠い神話の贅沢品に思えた。
「味の満足度はゼロだが、生存のための燃料としては計算できる。……背に腹は代えられないな」
準備を整えた一郎が拠点の入り口を通りかかると、瓦礫の上で退屈そうに石を投げていたクソガキが声をかけてきた。
「よお、おっさん。その荷物、夜逃げか?」
「遠征だ。……留守中に権蔵や、あるいは誰かが訪ねてきたら伝えておけ。死んでない限り数日で戻るとな。報酬はこれだ」
一郎は栄養スティックの端切れを投げ与える。
「湘南? あんなとこ今じゃ化け物の巣だぜ、おっさん死ぬなよ」
ガキの声を背に、一郎は国道へと足を踏み出す。
背後には4体のゾンビと、沈黙を守るアニメイトガーディアン。
その異様な隊列を率いながら、一郎は自身の頭を保護する鉄の兜――『男爵(The Baron)』に手をやった。
実は、ナヴァリと対峙した瞬間から、一郎の脳内データベースはある「矛盾」を弾き出し続けていた。
(……本来、原作のパッチノートにおいて、この『男爵』に強化版など存在しない。それはゲームをやり込んだ者なら誰もが知る常識だ)
ナヴァリがこの兜を指差し、「南で血を洗え」と告げたこと自体、本来のゲーム仕様からは逸脱している。
だが、一郎はこの矛盾を「エラー」ではなく「商機」と捉えた。
(廃止されたはずのナヴァリが、存在しないはずの強化クエストを提示している。……答えは一つだ。この世界は、過去のデータと未実装の残骸が混ざり合った『開発用ビルド』のようなバグだらけの状態にある)
一郎の口角が、冷徹に吊り上がる。
公式が用意したルートをなぞるだけでは、凡庸なプレイヤーで終わる。
だが、システムの脆弱性を突き、「未実装のパッチ」を強制適用させることができれば、それは自分だけの独占的な資産になる。
「公式が強化を用意していないのなら、こちらで仕様を書き換えさせてもらう。……期待値が計算不能なほど跳ね上がる、未知の『男爵』。その現物、私が引き受けよう」
往復100km。
消費カロリーとゾンビの耐久値、遭遇するモンスターの期待値。
リスクは極めて高いが、ビル深層の霧の正体が――おそらくボスモンスター、あるいはそれに準ずる何かが居座っている可能性を考えれば、ここでの「仕様外の戦力強化」は将来的な損失を回避するための『保険』としてお釣りが来る。
「現実は地獄だ。だが、管理者不在の地獄ならハックのしがいがある」
不味い合成酒で喉を湿らせ、一郎は新宿の摩天楼を背に灰色の旧国道を東へと歩んでいった。




