ep.6 本物の鶏肉と招かれざる隣人
スラムの片隅にある古びた雑居ビルの一室。
一郎は自室の固いドアに三重の鍵をかけ、ようやく深く、長い溜息をついた。
「……長すぎる夜だった」
ネクタイを緩め、埃を払う。
九条燈子との取引が成立したとはいえ、いつ国家の追っ手が来るかわからない。
今のうちに自身の……いや、例の「システム」を再度確認しておく必要がある。
だが、その前にやるべきことがあった。
「ようやく、これの出番だな」
一郎は机の上に、闇市で死守した「本物の鶏肉」を置いた。
スタンピード以来、口にするのは味気ない合成肉ペーストや栄養剤ばかり。
かつての社畜時代には当たり前だった食材が、今や国家予算レベルの至宝にすら見える。
(……この鶏肉を、最も効率的に味わうにはどうすべきか。私のポイントはまだ余っている)
一郎の指が、ツリーの端にある『敏捷性』の小ノードを指した。
本来なら回避率を上げるためのものだが、今の彼が求めているのは、プロの料理人をも凌駕する「精密な手捌き」だった。
(火加減、油の流動、肉の収縮……すべてを感知し、完璧なタイミングで裏返す。……よし)
カチッ、と安物のガスコンロに火をつける。
一郎はフライパンの上に、慎重に肉を置いた。
ジュウッ、という官能的な音が狭い部屋に響く。
芳醇な、脂の焼ける香りが立ち込めた。
パッシブによる神経系の強化。
安物のガスコンロに火をつけた一郎の動きは、もはや熟練の料理人のように正確だった。
「……素晴らしい。これだ、これこそが私が求めていた平穏――」
ドンドンドンドンドンドンドンドン!!
不意に、ドアを壊さんばかりの勢いで叩く音が響いた。
一郎の眉がピクリと跳ねる。
「おい、おっさん! 生きてるか!? 中からとんでもねえ肉の匂いがすんぞ!」
聞き覚えのある、生意気な少年の声。
隣の部屋に住む孤児――「クソガキ」の来襲だった。
「……少年、静かにしたまえ。警察かモンスターが来たらどうする」
「そんなの知るかよ! 窓の隙間から匂いが漏れてんだよ! 独り占めは重罪だぞ!」
一郎は再び溜息をつき、ドアを細く開けた。
案の定、鼻をヒクヒクさせた十歳前後の少年が、目を輝かせて立っていた。
「……毒見だ。その、毒見をしてやろうと思って来たんだ。死なれたら隣として寝覚めが悪いだろ?」
「残念だが、これは私の厳密な計算に基づいた夕食だ。余りはない」
「ケチ! おっさんのケチ! ゾンビ! 守銭奴!」
一郎は、フライパンの上で完璧な黄金色に焼き上がった鶏肉を見つめた。
一人で食べれば完璧な満足が得られる。
だが、この騒がしい少年を放置すれば、明日の朝までドアを叩かれ続け、私の『平穏』は粉砕される。
「……わかった。座れ。ただし、一切れだけだ」
「やった! 話がわかるじゃん、おっさん!」
少年の歓喜の声を聞きながら、一郎は鶏肉を切り分ける。
国家との戦いよりも、このクソガキを追い返す方が今の彼には難題に感じられた。
その頃。
上級国民向けの要塞化され復元したタワマン40Fの一室で、九条燈子はモニターを睨みつけていた。
一郎がもみ消させたはずのログ。
だが、彼女は執念で自身の私的な端末にデータを移していた。
「公的には存在しない男。……ふふ、なら私がどう料理しても文句は出ないわね」
「……鈴木一郎。貴方の資産、必ず私が全額没収してあげるわ」
彼女の眼鏡の奥に、屈辱と執念の炎が宿っていた。
一郎の穏やかな夜はまだ遠い。




