ep.39 後悔のコストあるいは現場復帰の決意
新宿のボロアパートへ逃げ帰った一郎は、泥のように眠り翌朝の冷気で目を覚ました。
体中の節々が悲鳴を上げている。
NSビルでの激闘と、あのピエロから逃げ出した際の全力疾走の代償だ。
一郎は冷えた水道水で顔を洗うと、カビの浮いた壁に貼られた自作の「仕様メモ」を睨みつけた。
「……現実はクソゲーすぎるな。改めて整理すると、目も当てられん」
彼は仕様メモに、現状の絶望的な差異を書き殴っていく。
① ベンダー不在の経済圏
ゲームなら不要な装備を店に投げれば、鑑定スクロールやカレンシーに換金できた。
だが、現実にはジェムやレア装備を売る店など存在しない。
当然、特定のアイテムを組み合わせて売る「ベンダーレシピ」も機能しない。
ゴミはどこまで行ってもゴミだ。
自分でクラフトして付加価値(Mod)をつけない限り、資産価値はゼロに等しい。
② 職業なき放浪
一郎は、自分の脳裏に浮かぶ広大な「パッシブスキル・ツリー」を凝視する。
ゲームでは初期職業を選び、決められたスタート地点から歩み始める。
だが、今の自分は「無職」だ。
ツリーのど真ん中、何者でもない空白の地点に放り出されている。
どこへでも行けるが、どこへ行くにも遠い。
そして最大の懸念は「やり直し」が効かないことだ。
「『後悔のオーブ(Orb of Regret)』が手に入らない。一箇所のスキル振りのミスが、そのまま人生のデッドエンドに直結する。茨の道どころか剃刀の刃の上を歩くような投資だ」
③ アセンダンシーへの渇望
脳内ツリーの果てには、上位職「アセンダンシー」の輝きが見える。
一郎が狙うのは、召喚術と防御の専門家『ガーディアン』だ。
だが、その取得条件である「試練」がどこにあるのか、どうやって挑むのか、見当もつかない。
「……そして、最大の問題はこれだ」
一郎は電子財布の画面をタップし残高を確認する。
生活費、そして生存のための税としての電子マネー(G)が底をつきかけていた。
ダンジョンで手に入るのは換金性の低い鉄屑(ドロップ装備)と、政府に捕捉されれば即没収対象となる高額カレンシーのみ。
「まともな銀行は機能していない。カレンシーを洗浄し、Gに換える闇のルート……。洗浄費用は40%以上になるだろう……。ハメてやったあの女(九条)を、どうにかして叩き起こして資金洗浄に利用できないだろうか?」
一郎は、1階で拾った折れたモップの柄を手に取った。
今の主力はゾンビだ。
だが、昨日のピエロ戦で痛感した。
後ろで震えているだけでは、ゾンビが崩れた瞬間に死ぬ。
「……方針を転換する。Templar(聖職者)の領域へツリーを伸ばし、ガーディアンの加護を得る。ゾンビを強化しつつ、私自身の防御も固める。……そして、隙があれば私も殴る」
目指すは、Templar(聖職者)/ガーディアンの「男爵ゾンビ」ビルドだ。
幸いなことに「The Baron(男爵) / Unique」はすでに手に入れている。
中年のおっさんが、ゾンビと一緒に最前線で武器を振り回す。
普通に考えたら効率は最悪だ。
スマートさの欠片もない。
だが、商社マン時代に嫌というほど見てきた。
指揮系統の喪失から崩壊していく組織を。
また一郎にはPoEシステムとパッシブスキルがある。
見た目とは裏腹に、一般人をはるかに凌駕する身体能力を得ている。
ビルドさえうまくかみ合えばきっとうまくいくだろう。
「生き残るための分散投資だ。ゾンビと一緒に、この私自身も泥を啜って稼いでやる」
一郎はモップの柄を杖のように突き、新宿の街を見下ろした。
目指すはNSビル。
そこでまずは実験のためにも「4リンクの鎧」を掘り当てる。
それが、鈴木一郎が再び「平穏な生活」という配当を得るための第一歩だった。




