ep.4 インフレと徴税の足音
廃墟の街を抜け、一郎がたどり着いたのはスラムの境界にある「闇市」だった。
かつてのスーパーマーケットの成れの果て。
剥き出しの電球が、飢えた人々が集まる怪しげな露店を照らしている。
(……やはり、凄まじいインフレだ)
店先に掲げられた「本物の鶏肉」の価格設定を見て、一郎はこめかみを押さえた。
社畜時代、1円単位で家計簿を管理していた彼にとって、この無秩序な物価高騰は生理的な苦痛を伴う。
「……店主。この鶏肉、100グラムでこの価格か? 昨日のレートと比較しても、上昇率が理論値を超えているぞ」
「ケッ、おっさん。文句があるなら合成肉のペーストでも舐めてな。新国家が流通を絞ってるんだ、上がるのは当たり前だろ」
一郎は溜息をつき、先ほど「徴収」した電子通貨を端末で操作する。
かつては数億円の資産を誇った自分が、鶏肉の数千円相当の端数に目くじらを立てている。
その事実に、言いようのない虚しさが込み上げた。
(平穏……。ただ、静かに暮らしたいだけなのだがな)
パックに入った不恰好な鶏の胸肉を一つ買い、彼は足早に市場を後にした。
早く帰って、パッシブツリーのノードを整理したい。
今の衝撃波の威力では、複数の「覚醒者」に囲まれた際の生存期待値が足りない。
もっと防御レイヤーを厚く……。
「――そこまでだ、市民ID未登録個体」
冷徹な声が、薄暗い路地裏に響いた。
振り返れば、そこには整然とした黒い制服に身を包んだ一団がいた。
彼らが手にするのは、チンピラたちの錆びた鉄パイプではない。
高密度の電力を充填した「徴税用タクティカルロッド」。
その中心に立つのは、冷たい美貌を眼鏡の奥に隠した一人の女。
「新日本民主主義国家・広域徴税局。執行官の九条だ」
彼女は一郎が持っている鶏肉の袋ではなく、そのポケットにある『神のオーブ』が発する魔力残滓を見据えていた。
「君が先ほど行使した未登録の魔力波形、および不当に所持している高価値カレンシーを確認した。……速やかに、国家への『確定申告』を推奨する。拒否すれば、資産(その命)は強制的に国庫に帰属させるわ」
「……確定申告、だと?」
一郎は、手に持った鶏肉の袋を、ゆっくりと地面に置いた。
買い物の邪魔をされた不快感。
そして、かつて自分からすべてを奪った「システム」が、再び目の前に現れたことへの激しい嫌悪。
「私は……とうにFIREを達成したはずだった。誰にも邪魔されず、静かな時間を過ごすはずだったんだ」
一郎の視界の中で、パッシブツリーが猛烈な勢いで回転し始める。
投資家としての彼が、目の前の「徴税官」という最大のリスクを、完全に排除すべき「損失」としてロックオンした。
「悪いが……。私の資産に勝手な税率を決めないでくれないか。……非常に不愉快だ」
一郎の視界の中で、パッシブツリーが猛烈な勢いで回転し始める。
システムが起動した直後、視界の端には信じられない数字が表示されていた。
【未割り振りパッシブポイント:45】
(……45ポイント? そうか、このシステムはこれまでの私の『レベル』を、今この瞬間に遡って算出したのか)
20年の社畜生活、そしてスタンピードからの数年間の地獄。 一郎が積み上げてきた「苦労」という名の経験値が、今、広大なツリーを染め上げるための原資として還元されている。
(九条、と言ったか。彼女らが構えているのは高電圧のスタンロッド……。ならば服の上からの打撃対策だけでは、絶縁が追いつかない)
一郎の指先が、空中のノードを高速で叩く。
(『雷耐性』を上限まで引き上げ、さらに――絶縁破壊を想定して『マインド・オーバー・マター』へ。脳へのショックをマナで肩代わりし、強制的にシャットアウトする。……投資先を間違えるな。ここは『生存』の一点買いだ)
【パッシブスキルの割り当てを確認】
【――ビルドの最適化が完了しました】
金色の粒子が、夜の空気中に高密度で集束していく。
九条が冷徹にロッドを振り下ろすのと、一郎の「防御レイヤー」が完成するのは、ほぼ同時だった。




