ep30 スタグフレーション
「耐性」という名の保険を積み増してから一週間。
一郎のファームは驚くほど安定していた。
火炎耐性が15%まで引き上げられたことで、即死の恐怖は「致命傷の懸念」程度にまで後退した。
ゾンビたちが敵を粉砕し一郎がカレンシーを拾う。
そのルーチンは、かつての代り映えしない事務作業のように円滑だった。
だが、一週間を終えた一郎は、自身の端末を見て愕然とした。
「……レベルが一ミリも上がっていないだと?」
投資した時間と労力に対し、リターン(経験値)が完全に横這い。
スタグフレーションだ。
一郎は即座に原因を分析し、一つの残酷な結論に達した。
「レベルスケール……。このエリアの敵の『格』に対し、私の、あるいはゾンビのレベルが上がりすぎたのか?。格下をいくら狩っても、経験値という名の利息は支払われない。システムの仕様が、私にこの場からの立ち退きを迫っている」
手元には、生活費に余裕ができる程度の『Orb of Alteration(変化のオーブ)』やいくつかの小銭が貯まっている。
餓死の心配はない。
だが、それだけだ。
このままここに居続けても、装備を更新する高ランクドロップもなければレベルアップもない。
それは投資家にとって、緩やかな死と同義だった。
「……闇市を覗いてみるか」
一郎は、ファームの合間にたまに顔を出す「新宿駅・西口闇市」へと足を向けた。
そこは、命からがら駅の浅い階層から逃げ出してきた探索者たちが拾ってきた「よくわからないガラクタ」を並べるだけの文字通りゴミ溜めのような市場だ。
「……まともな鑑定眼を持つ者がいないな。これでは投資のしようがない」
並んでいるのはただの錆びた鉄パイプや壊れた家電。
店主たちはそれらが「魔力を持っているかもしれない」と吹っ掛けてくるが、一郎の目から見れば、それらはステータスすら付与されていないただの粗大ゴミだ。
当然、ジェムなどという超希少資産が露店に並ぶはずもない。
もしあったとしても、それは「光る変な石」として意味不明な高値かあるいは二束三文で転がっているかのどちらかだろう。
「この低レベルエリアで、ゴミの中から『原石』を探す時間は、もはや機会損失だ」
「これでは未来がない。この低レベルエリアで一生を終えるか、あるいは……」
リスクを冒して、未知のマーケットへ参入するか。
保守的な社畜としての本能が「今のままでいいじゃないか」と囁く。
しかし、一郎の頭脳では「このままでは詰む」と弾き出していた。
一郎は、闇市の情報屋——といっても、噂話を酒代に変えているだけの浮浪者に声をかけた。
「今、最もアツい場所、あるいは……誰も戻ってこない場所はどこだ」
男はニヤリと笑い、短い単語を投げた。
「……『新宿NSビル』だ。あそこはヤベえぞ。ビル全体が妙な霧に包まれててよ、入った奴の悲鳴が上の階から降ってくるって噂だ。近寄る奴はいねえ。つまり……手付かずの宝の山か、それともただの墓場だな」
「NSビルか……」
具体的に何があるのかは不明。
敵の種類もギミックもわからない。
だが、投資家として、そして生き残るための「次の一手」として、そこが避けては通れない戦場であることだけは確信できた。
「……嫌々ではあるが戦場を組み替える時が来たようだな」
一郎は、15%の火炎耐性と20%の冷気耐性を宿したボロ布の鎧を締め直し、自室への帰り道ではなく、南へと続く道を見据えた。




