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ep.19 神の投資、あるいは不当な損害の転嫁

新宿区、第十四未登録市民居住区。

一郎がクソガキを連れて戻ったその場所は、かつてのゴーストタウン以上の静寂に包まれていた。

九条燈子が発動した「兵糧攻め」。

配給停止から数日、住人たちの眼光は飢えで濁り、あちこちで死者が発生する寸前の空気が漂っている。


「……ひっでぇな。おっさん、これじゃ明日にはみんな干からびちまうよ」


クソガキが腹を鳴らしながら呟く。

一郎はその様子を、無機質な決算書を眺めるような目で見つめた。

この区画の「維持コスト」が跳ね上がっている。

原因は明白だ。

九条という名の執行官が、自身のプライドを守るために「地域住民の生命」という国家の資産を毀損しているのである。


(まったく、現場の理害関係を無視した強引な判断はこれだから困る……)


一郎は自室に戻ると、厳重に秘匿していた「それ」を棚の奥から取り出した。

『Divine Orb(神のオーブ)』。

PoEのシステムが付与されたあの日に拾い、そのあまりの価値の高さに今日まで一度として手をつけることができなかった「神のオーブ」だ。

一郎の全財産を一瞬で過去のものにした最強の資産。

PoEの仕様においては装備の数値を再抽選ロールするものだが、この世界においては、国家が喉から手が出るほど欲しがる「超希少な戦略カレンシー」としての価値を持つ。


「……ようやく、こいつの『出口戦略』が決まったか」


本来なら、一介の非登録市民が持っていていい代物ではない。

だが、今の状況は「静かな生活」という一郎の人生目標を根底から揺るがしている。

一郎は、以前利用したばかりの「洗浄屋」の店主へ徹底的に秘匿された通信ラインを繋いだ。


「おい、親父。この画像を送る。……お前が知る中で、最も『九条燈子を失脚させたい』と願っている上級国民に、これを転送しろ」


暗号化された画像データを見た店主が、通信越しに息を呑む音が聞こえた。


『ディバイン……!? おい、正気か!? これがあれば、上級市民の居住権だって買えるぞ!』


「いいからやれ。条件は二つ。一つ、このオーブを『九条の上司、あるいは政敵』に匿名で献上すること。二つ、それと引き換えに『九条の独断による兵糧攻めが、徴税リソース(住民)を不当に損壊させている』という監査を通せ」


これは「施し」ではない。

九条という無能な役人を排除するための、「敵の敵」への政治工作(ロビー活動)だ。


数時間後。

広域徴税局・特別執行官室では、九条燈子が凄まじい剣幕で叫んでいた。


「な……なんですって!? 配給再開の命令? 上層部の決定だというの!?」


彼女の目の前のモニターには、局の監査部門からの厳しい通達が表示されていた。


『特定区画における過度な兵糧攻めは、将来的な徴税見込み額を著しく損なう「背任行為」と見なす。即時撤回せよ。また、本件に関する九条執行官の判断の妥当性を調査する』


九条のプライドが、音を立てて崩れていく。

彼女には理解できなかった。

なぜ、たかがスラムのネズミ一匹を燻り出そうとしただけで、普段は動きの鈍い上層部がこれほど迅速にしかもピンポイントで自分を刺してきたのか。


国家の意思決定は、本来であれば鈍重なものだ。

ましてや最下層の配給スケジュールを変更するなど、通常なら数週間の稟議りんぎを要する。

だが、そのプロセスを強引にショートカットさせるのが「資本」の力だ。

工作から三日。

一郎は、洗浄屋を通じて「上層部が動いた」という隠語混じりの報告を受け取っていた。

だが、実際に配給車が来るまでは予断を許さない。

投資の世界において、約定やくじょうが完了するまでは何が起こるか分からないからだ。

その間、一郎は飢えで殺気立つ住民たちを避け、息を潜めて過ごした。

クソガキがドアを叩き、「おっさん、まだかよ……」と弱音を吐くたびに、「納期前だ。静かにしてろ」とだけ答えて。


そして四日目の朝。

新宿の静寂を切り裂いて、大型トラックのディーゼルエンジン音が響き渡った。


その頃、一郎は雑居ビルの屋上で、安物のドリップコーヒー(粉末)を啜っていた。

眼下では、再び動き出した配給車に住人たちが群がっている。


「……よし、これで静寂インフラが戻った」


神のオーブという「超巨大資産」を切り崩し、それを「政治的圧力」という名のレバレッジに変えて九条を黙らせる。

一郎にとって、それはヒーローごっこなどではなく、自分の「平穏な生活」を邪魔する邪魔者を、より大きな資本の力で叩き潰しただけの話だった。


「おっさん、配給が来たぞ! すげえよ、なんで再開したんだ?」


駆け寄ってくるクソガキに、一郎は珊瑚の指輪がはまった指を軽く振った。


「さあな。上の連中が、自分たちの取り分を計算し直しただけだろう。……行くぞ、クソガキ。騒ぎは終わりだ。私は寝る」


 一郎は、訪れた静寂と九条を内部から撃ち抜いた満足感に浸りながら、ようやく「植物の心」のような眠りにつくことができた。

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