ep.18 内部留保と福利厚生
一郎は、背後で呆然としている隣のガキを促し、速やかに現場を離脱した。
懐には、先ほど回収したカレンシーの重みがある。
数枚の 『Orb of Transmutation(変成のオーブ)』、そして鈍い銀光を放つ 『Orb of Augmentation(拡張のオーブ)』。
これらは今の世界における「希望」などではなく、一郎にとっては「足のつきやすい高額資産」に過ぎない。
クソガキの案内でスラムの路地裏にある表向きはボロい電子機器修理屋へ再度向かった。
「……ロンダリング(洗浄)の依頼か?」
店主の男は、政府の監視網を物理的に遮断したシールドルームで怪しげな非合法端末を叩いていた。
一郎がオーブを差し出すと、店主はニヤリと笑う。
「カレンシーか。今のレートなら 100,000Gってところだ。さっきも説明したが、俺の手数料として40%頂くぜ。これでも相場よりは安い方だ」
一郎は不承不承ながらも承諾した。
この国の電子マネーシステムは、あらゆる購買履歴を政府に捕捉される。
だが、カレンシーを未登録市民たちの間で流通する「洗浄屋」を経由させることで、出所を不明瞭にしたまま自身の口座へ少額ずつ入金させることが可能だ。
(一度にチャージなどしてみろ。即座に異常所得として、あの広域徴税局の眼鏡女にフラグを立てられる。今の私にとって、彼女との接点は極力切りはなすべきだ)
だが、全てをデジタル資産にするのは愚策だ。
ポートフォリオの分散こそがリスクヘッジの基本である。
一郎はクソガキを適当なジャンク屋の表で待たせると、残りのカレンシーを持ったまま自身は路地裏の馴染みの店へと入った。
「おい、親父。何かまともな指輪はあるか。マジック以上じゃなくていい。鑑定の必要がない、まっさらな白のやつだ」
カウンターの奥から、煤けた顔の店主が小箱を出してきた。
中には、ろくに磨かれてもいない武骨な指輪がいくつか転がっている。
一郎が目を留めたのは、赤い珊瑚を荒削りにして銀の台座に嵌めただけの装飾性も何もない代物だった。
記憶の中のPoEデータを思い出す。
『Coral Ring(珊瑚の指輪)』 ――最大ライフ +25
「ほう、ライフ増加か……」
マジックやレアのように、耐性や攻撃速度といった華やかな追加条項(Mod)は一切ない。
だが、この「最大ライフ+25」という数値は、アイテムそのものの性質(Implicit)であり仕様通りの確実なリターンを約束してくれる。
一郎にとってのライフはゲーム的な言葉では片付けられない。
それは「突然の不意打ち」や「連戦」に耐えうるための身体的な内部留保だ。
「こいつを貰おう。この拡張のオーブでお釣りがくるだろう?」
一郎は銀色のオーブをカウンターに置いた。
店主は「いいのか? こいつは価値が出るぞ」と驚いたような顔をしたが、一郎は首を振った。
希少なカレンシーを後生大事に抱えて死ぬより、今この瞬間に「生存率の底上げ」という名の保険に加入する。
それが、元投資家としての冷徹なリスクマネジメントだった。
安物の珊瑚の指輪を指にはめる。
じわり、と指先から温かい感覚が広がり、全身の血流がわずかに良くなったような感覚があった。
数値にすれば微々たるものだが、この「25」というマージンが、デッドライン(死線)を一歩遠ざけてくれる。
「……よし。これでようやく、一息つける」
一郎は店を出て、手持ち無沙汰に壁を蹴っていたガキの首根っこを掴んだ。
ユニークモンスターを倒した高揚感など、とうにない。
ただ、ポートフォリオを健全化し、少しだけ耐久性の増した自分のステータスを確認し、明日もまた無難に生き延びるためのルーチンに戻るだけだった。




