ep.13 正体不明の損失(イレギュラー)
新日本民主主義国家、新宿特別行政区。
地上数百メートルに位置する広域徴税局のオフィスは、下界の腐臭が嘘のような清潔なアロマと静寂に包まれていた。
「……それで? その無様な姿は何かしら」
高級デスクに深く腰掛けた九条燈子は、書類から目を上げることなく冷淡に言い放った。
彼女の視線の先には、純白のタイルに汚れた血を滴らせ、右腕をあらぬ方向に曲げた部下の女が立っていた。
「申し……わけ、ございません。九条執行官……。未登録市民の居住区にて、妨害に遭いました」
「……謝罪は時間の無駄よ。私が聞きたいのは、なぜ『害虫駆除』程度の単純作業に、これほどの損害を出したのかという理由だけ」
燈子がようやく顔を上げる。
眼鏡の奥の瞳は、部下への同情など一欠片も持ち合わせていない。
部下は激痛に顔を歪めながら、震える声で報告を絞り出した。
「……男でした。顔も、名前も分かりません。データにない、ただのアノニマスです。ですが、あいつは……死体を動かしました。弾丸をいくら叩き込んでも、その死体が……盾になって……」
燈子のペンが止まる。
「死体を、盾に? ……ふん、滑稽ね。非登録のクズが、超常的な力を持っているというの?」
燈子は手元の端末を叩くが、そこには「未登録市民・居住区」というノイズ交じりの広域マップが表示されるだけだ。
そこに住む人間の一人一人の名前など、管理社会の外側。
ただの「群れ」に過ぎない。
「新宿のゴミ溜めに、名前も持たないバグが潜んでいる。……そして、私の部下がそいつに大怪我を負わされた。これはもはや、単なる徴税拒否じゃない。九条家の、ひいては秩序管理庁のメンツに関わる重大な問題よ」
燈子は、口元に酷薄な笑みを浮かべた。
名前も分からない。
だからこそ、彼女のプライドは激しく逆撫でされる。
「いいわ。その『正体不明の非登録市民』……私が直接、特定してあげる。徹底的に、絞り取れるだけのものを絞り取った後にね。まずは、その男が住んでいる区画の『全住民』の配給を止めて。……ネズミを燻り出すには、兵糧攻めが一番安上がりだわ」
その頃。
当の一郎は、自宅のボロ椅子に座り安物の合成プロテインバーを齧っていた。
「……ふぅ。これでしばらくは来ないだろう。トラブルを未然に防ぐ。これこそが、平穏への先行投資だ」
彼は満足げに家計簿を閉じ、鼻眼鏡を直した。
自分が「名前を隠してやり過ごした」つもりが、逆に上級国民の「正体を知りたい」という執着に火をつけてしまったことなど、微塵も気づかずに。




