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後日談 壊れた玩具たちの箱庭

滴り落ちる水滴の音が、鼓膜を直接叩くように響く。

ピチャリ、ピチャリ。

その規則的なリズムだけが、この暗く淀んだ世界で唯一時を刻む時計だった。


「あ……あぁ……」


勇者レオンは、冷たく湿った石畳の上で目を覚ました。

意識が浮上すると同時に、全身を走る激痛が彼を現実に引き戻す。

手足の指はない。昨日――いや、それが何時間前だったのか、あるいは何日前だったのかもわからないが――巨大なネズミのような魔物に齧り取られたのだ。

だが、断面を見ると、そこには既に薄紅色の肉が盛り上がり、新たな指が再生しかけていた。

治癒魔法ではない。

この『永劫の実験場』にかけられた、最上位の呪い『死の否定』の効果だ。

どれだけ肉を削がれても、骨を砕かれても、内臓を引きずり出されても、死ぬことすら許されずに再生させられる。

それは救いではなく、終わらない苦痛を保証するためのシステムだった。


「レオン……様……?」


隣から、掠れた老婆のような声が聞こえた。

レオンは首をぎぎと軋ませてそちらを見る。

そこに転がっていたのは、かつて『聖女』と崇められたミナだった。

透き通るような金髪は泥と排泄物にまみれてフェルトのように固まり、白磁の肌は無数の火傷と切り傷で地図のようになっている。

美しいドレスの代わりに身に纏っているのは、ボロボロの麻袋一枚だ。


「……ミナ、か」


レオンの声もまた、喉が潰れたように枯れていた。


「水……お水を……」

「……あるわけ、ねえだろ」


レオンは力なく首を振った。

ここでは食事も水も与えられない。それでも死なないからだ。

極限の飢えと乾きが永遠に続く中、ただ再生する肉体を魔物たちに貪られるだけの毎日。


「ヒッ、ヒヒッ……。あ、あそこにポーションが……アルトが作ったポーションがあるぞぉ……」


部屋の隅で、魔法使いのガイルが虚空を指差して笑っていた。

彼の目は虚ろで、焦点が合っていない。

かつて天才と称された知性は完全に崩壊し、今はアルトの幻影に縋り付くだけの廃人になり果てていた。

その隣では、剣士のバランが膝を抱えてうずくまり、ブツブツと何かを呟き続けている。


「ごめんなさい、ごめんなさい、剣の手入れサボってごめんなさい、もうしません、許してください……」


地獄だ。

レオンは天井を見上げた。かつては太陽の下を歩いていた。黄金の鎧を身に纏い、人々から歓声を浴びていた。

Sランクパーティ『光輝の剣』。

人類の希望。次世代の英雄。

それが今や、魔界の最下層で、家畜以下の扱いを受けている。


「なんでだ……。なんで、こんなことに……」


レオンの目から、濁った涙がこぼれ落ちた。

後悔などという言葉では軽すぎる。

脳裏に浮かぶのは、あの優しい青年の顔だ。

アルト。

いつも一歩後ろを歩き、重い荷物を背負いながら、ニコニコと笑っていた魔物使い。

『レオン、今日の夕飯はシチューだよ。身体が温まるようにスパイスを入れておいたから』

『剣の刃こぼれ、直しておいたよ。明日の戦いも頑張ってね』

『大丈夫、僕が見張りをしておくから、みんなはゆっくり休んで』


あの時の自分は、それが当たり前だと思っていた。

自分たちは選ばれた特別な存在であり、アルトのような無能が奉仕するのは当然の権利だと。

その傲慢さが、全ての破滅の引き金だったのだ。

アルトは無能などではなかった。彼こそが、このパーティを支え、守り、生かしていた心臓だったのだ。

その心臓を自ら抉り出し、踏み潰した代償が、この永遠の地獄だった。


ギィィィ……。


重厚な鉄の扉が開き、不快な摩擦音が響き渡った。

その音を聞いた瞬間、レオンたちの身体が条件反射で跳ね上がった。

パブロフの犬のように、恐怖が全身を支配する。


「おや、もう再生しましたか。頑丈ですねぇ、元勇者様は」


入ってきたのは、白衣を着たゴブリンの集団だった。

『マッド・ゴブリン』。

魔界でも指折りの加虐嗜好を持つ、狂気の科学者たちだ。彼らの手には、錆びたメスやノコギリ、得体の知れない注射器が握られている。


「ヒッ、嫌だ! 来るな! 来るなあああ!」


ミナが悲鳴を上げて後ずさるが、鎖に繋がれた足では逃げることなどできない。


「今日の実験テーマは『内臓の耐久テスト』でごぜぇます。内臓を少しずつ引き出して、どれくらいの長さまで生きられるか測定するでごぜぇますよ」

「ケケケッ、聖女様の悲鳴はいい音色だからなぁ。たっぷり泣かせてやるよ」


ゴブリンたちが下卑た笑い声を上げながら近づいてくる。

レオンは震える手で地面を掻いた。

戦わなければ。俺は勇者だ。こんな雑魚モンスター、一撃で……。


「う、うおおおお!」


レオンは咆哮を上げ、ゴブリンに殴りかかろうとした。

だが、その拳はゴブリンの顔に届く前に、あっけなく空を切った。

ゴブリンの一匹が、レオンの足を無造作に踏みつけたのだ。


グシャッ。


「ギャアアアアッ!」


再生したばかりの足の骨が、容易く粉砕される。

今のレオンには、武器もなければ、かつての膂力もない。長期間の拷問と栄養失調(死なないだけで身体機能は低下している)で、その力は子供以下にまで落ちぶれていた。


「生意気な家畜でごぜぇますねぇ。躾が必要でごぜぇます」


ゴブリンがレオンの髪を掴み、その顔を床に叩きつける。

何度も、何度も。

鼻が折れ、歯が飛び散る。

それでも意識は飛ばない。『死の否定』の呪いが、意識を強制的に繋ぎ止めるからだ。


「やめ……やめてくれ……! 言うことを聞く! 何でもするから!」


レオンは泣き叫びながら懇願した。

勇者のプライドなど、とうの昔に砕け散っている。今はただ、痛みを回避するためなら靴の裏だって舐める覚悟があった。


「ケッ、つまらねぇ。まあいい、実験台へ運べ」


レオンとミナは、ゴブリンたちによって引きずられ、部屋の中央にある解剖台へと縛り付けられた。

隣の台では、ガイルとバランが既に解体を始められており、絶叫を上げていた。

その光景を見せつけられるだけでも、精神が削り取られていく。


「さあて、始めましょうか」


錆びたメスが、レオンの腹に当てられる。

冷たい感触。

そして次の瞬間、焼きごてを当てられたような激痛が走った。


「グガアアアアアアアアッ!!」


レオンの絶叫が地下室に響き渡る。

だが、その声を聞いてくれる者は誰もいない。

神も、仏も、ここにはいない。

いるのは、彼らを玩具として消費する悪魔たちだけだ。


永遠に続くかと思われた拷問の時間が終わり、ゴブリンたちが去っていった後。

レオンたちは再び、ボロ雑巾のように床に打ち捨てられていた。

腹の傷は既に塞がり始めているが、幻痛はまだ残っている。


「……殺して……誰か、私を殺して……」


ミナが虚ろな目で天井を見つめながら呟いている。

レオンも同じ気持ちだった。

死にたい。楽になりたい。

だが、自殺することさえ許されない。舌を噛み切ってもすぐに再生し、窒息しようとしても肺が勝手に空気を求めて動く。


その時、鉄格子の向こうから、看守役のオークたちが話している声が聞こえてきた。


「おい、聞いたか? 地上じゃ今日、盛大なパレードがあるらしいぞ」

「おうよ。なんでも、アルト様とイヴ様の御成婚パレードだとか」


アルト。

その名前が出た瞬間、レオンの耳がピクリと動いた。


「へへッ、すげぇよなぁアルト様は。人間界の国王たちも全員ひれ伏させたって話だぜ」

「戦争じゃなく、経済と魔導技術の提供で屈服させたんだろ? 人間ども、アルト様の恩恵にあやかりたくて、こぞって貢物を持ってきてるらしいじゃねぇか」

「ああ。今や人間も魔族も関係ねぇ。アルト様が支配するこの世界は、かつてないほど平和で豊かになってる」


オークたちの会話は、レオンにとって衝撃的なものだった。

アルトが、世界を支配した?

しかも、武力による恐怖政治ではなく、圧倒的なカリスマと能力で、平和をもたらしているだと?


「……嘘だ」


レオンは掠れた声で呟いた。

あいつは、俺の荷物持ちだったんだぞ。

俺の後ろをついてくるだけの、無能な寄生虫だったはずだ。

それが、魔王? 世界の王?

認められない。認めたくない。

もしそれが本当なら、俺は一体何だったんだ。

本物の王を蹴落として、その座に居座ろうとしていた、ただの道化だったということになるじゃないか。


「……もしかして」


ふと、ミナが狂気の宿った瞳でレオンを見た。


「もしかして、アルトさんはまだ、わたくしたちのことを覚えているんじゃないかしら?」

「は……?」

「だって、そうでしょう? 彼は優しかったもの。わたくしたちをこんな目に遭わせているのは、きっとあの怖いイヴ様の独断よ。アルトさんは知らないのよ、わたくしたちがここで苦しんでいることを」


ミナの言葉に、ガイルもバランも顔を上げた。

溺れる者が藁をも掴むように、彼らの目に歪んだ希望の光が宿る。


「そ、そうだ! アルトが知ったら、きっと助けてくれるはずだ!」

「あいつはお人好しだからな! 泣いて謝れば、きっと許してくれる!」

「俺たちは幼馴染だぞ! 昔のよしみってやつがある!」


ありえない妄想だ。

レオンの理性がそう告げている。あの時、アルトは冷酷に「返すよ」と言って短剣を投げ捨てた。あの目は、完全な決別の目だった。

だが、今のレオンたちには、その妄想に縋ることしか精神を保つ術がなかった。


「お、おい! そこのオーク!」


レオンは這いずって鉄格子に近づき、看守に声をかけた。


「なんだぁ? まだ元気があるのか、肉塊ども」


オークが面倒くさそうに振り返る。


「あ、アルトに……アルト様に伝えてくれ! 勇者レオンたちが、会いたがっていると! 謝罪したいと! そう伝えれば、必ず彼はここに来るはずだ!」

「そうだ! わたくしは聖女ミナですわ! 彼の幼馴染なの! お願い、伝えてちょうだい!」


必死に叫ぶ彼らを見て、オークたちは顔を見合わせ、そして腹を抱えて大笑いした。


「ギャハハハハ! 傑作だなオイ!」

「アルト様がお前らに会う? 謝罪を受け入れる? 夢見てんじゃねぇよ!」


オークの一匹が、鉄格子越しにレオンの顔に唾を吐きかけた。


「てめぇら、まだ自分が特別な存在だと思ってんのか? アルト様にとって、てめぇらはもう『過去の汚点』ですらねぇんだよ」

「ど、どういうことだ……」

「この前、俺がパレードの警備任務についた時、アルト様に直接お目にかかる機会があったんだ。その時、側近の一人が聞いたんだよ。『捕らえた元勇者たちはどうしますか?』ってな」


レオンは息を飲んだ。

アルトは何と言ったんだ?

やはり、気にかけてくれていたのか? それとも、処刑を命じたのか?


「アルト様はな、不思議そうな顔をしてこう言ったんだ。『勇者? ……ああ、そんな人たちもいたね。名前も忘れちゃったけど』ってな」


ドクン、とレオンの心臓が大きく跳ねた。


「そんで、こう続けた。『興味ないから好きにしていいよ。僕の記憶の容量を使う価値もない』……それだけだ」

「……あ」


レオンの口から、空気の抜けるような音が漏れた。

怒りでも、憎しみでもない。

「無関心」。

それが、アルトから彼らに与えられた、最後の答えだった。

かつて彼らがアルトに向けた無関心と軽蔑が、そのまま、いやそれ以上の重さを持って返ってきたのだ。

アルトにとって、レオンたちはもう、復讐する対象ですらない。

道端の石ころや、昨日食べたパンの欠片と同じ。

完全に、忘れ去られていたのだ。


「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁッ!!」


ミナが発狂したように叫び、頭を鉄格子に打ち付け始めた。


「わたくしは聖女よ! 特別な存在なのよ! 忘れられるなんて許せない! 憎んでもいいから、殺したいほど憎んでもいいから、わたくしを見てよぉぉぉッ!」


愛の反対は憎しみではない。無関心だ。

その真実が、聖女のプライドを粉々に粉砕した。

ガイルは泡を吹いて倒れ、バランは幼児退行を起こして親指をしゃぶり始めた。


レオンは力なく床に崩れ落ちた。

希望は潰えた。

助けが来ることはない。

アルトが慈悲をかけてくれることも、あるいは自ら手を下して楽にしてくれることもない。

彼らはこの暗い箱庭の中で、世界から忘れ去られたまま、永遠に魔物の玩具として消費され続けるのだ。


「……ははっ」


乾いた笑いが漏れた。


「俺は……主人公じゃなかったんだな」


物語の主人公はアルトだった。

そして自分は、序盤で主人公をいじめて退場する、名もなき噛ませ犬Aだったのだ。

噛ませ犬には、劇的な最期すら用意されない。

ただ、画面の端で惨めに朽ちていくだけ。


「さあて、無駄話は終わりだ」


オークが鍵を開け、部屋に入ってくる。

その後ろには、また別の魔物たちが並んでいた。

今度はスライムの集団だ。強酸性の体液を持つ、溶解系の魔物たち。


「次の実験の時間だぜ。今度は『溶解と再生のサイクル速度』を測るそうだ。……たっぷりと、楽しんでいけよ?」


オークがニヤリと笑う。

スライムたちが、じゅわじゅわと音を立てながら迫ってくる。


「いやだ……もう嫌だ……」


レオンは後ずさるが、背中はすぐに冷たい壁にぶつかった。

逃げ場はない。


「アルト……アルトぉ……ッ!!」


最後に叫んだ名前は、助けを求めるものだったのか、謝罪だったのか、それとも呪詛だったのか。

スライムがレオンの顔に覆い被さり、その絶叫はジュウウという肉の焼ける音にかき消された。


世界の上層では、新魔王アルトと皇女イヴのパレードが華やかに行われ、人々が笑顔で祝福を送っている。

空は青く、光に満ちていた。

だが、その光がこの地下深くに届くことは、未来永劫、二度とない。


壊れた玩具たちは、誰にも思い出されることなく、暗闇の中でただ壊され、直され、また壊され続ける。

それが、彼らが自ら選び取った物語の、あまりにも残酷なエピローグだった。

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