第四話 もう、声は届かない
カラン、カラン……。
硬質な音が、静寂に包まれた謁見の間に虚しく反響した。
それは、俺が投げ捨てた錆びついた短剣が、冷たい大理石の床を転がる音だった。かつて、俺が冒険者としての一歩を踏み出した時に買った、安物の護身用ナイフ。そして、レオンが俺を追放する際に「手切れ金」として投げつけてきた、屈辱の象徴。
それが今、彼らの目の前に転がっている。
「か……返す、だと……?」
レオンは床に這いつくばったまま、呆然とその短剣を見つめていた。
手足の腱を切られ、自力で立つことすらできない勇者。泥と血と、そして自分自身が漏らした汚物で汚れたその姿に、かつて人々が称賛した「光輝の剣」の面影はどこにもない。
「ああ、返すよ。今の君たちには、聖剣よりもその錆びたナイフの方がお似合いだ」
俺は玉座の階段をゆっくりと降りきり、彼らの眼前に立った。
見下ろす視線の先で、レオン、ミナ、ガイル、バランの四人が、恐怖と懇願の入り混じった目で俺を見上げている。
不思議だった。
ほんの数日前まで、俺はこの人たちに認められたくて必死だった。彼らの役に立ちたくて、睡眠時間を削り、身体を酷使し、どんな罵倒にも耐えてきた。
なのに今、彼らを前にしても、怒りも憎しみも湧いてこない。
あるのはただ、路傍の石ころを見るような、冷めきった無関心だけだった。
「ア、アルト……! 待ってくれ、冗談だろ? 俺たちは仲間じゃないか!」
レオンが必死に首をもたげ、擦り寄ろうとする。
「俺が悪かった! お前がそんなに凄い力を持ってるなんて知らなかったんだ! 知ってたら追放なんてしなかった! むしろサブリーダーにしてた! だから頼む、イヴ……いや、その魔王の娘に言ってくれ! 俺たちを解放しろって!」
「そうよ、アルトさん!」
ミナも涙で化粧の落ちた顔を上げ、必死に訴えかけてくる。
「わたくしたち、長い付き合いですわよね? 幼馴染みたいなものですわよね? 貴方の優しさはわたくしが一番よく知っています! お願い、ヒールをかけて! そしてここから出して! そうしたら、貴方をわたくしの専属騎士にしてあげてもよくてよ!」
「俺からも頼む! なあ、俺の魔法があればお前の役にも立つだろ!?」
「俺の剣もお前のために振るう! だから助けてくれ!」
ガイルとバランも、プライドをかなぐり捨てて命乞いをする。
その浅ましく、自分勝手な言葉の数々を聞くたびに、俺の中で彼らへの未練が砂のように崩れ落ちていくのを感じた。
彼らは何もわかっていない。
俺が欲しかったのは、地位でも名誉でもない。ましてや、損得勘定で結ばれた関係でもない。
ただ一言、「ありがとう」という感謝と、「仲間」としての信頼が欲しかっただけなのに。
「……ねえ、レオン」
俺は静かに、しかし冷たく彼らの言葉を遮った。
広間に俺の声だけが響く。
「『仲間』って、なんだろうな」
「え……?」
「君は言ったよな。『寄生虫』だって。『経験値泥棒』だって。俺が後ろで猫と遊んでいるだけの無能だと」
俺はしゃがみ込み、レオンと視線の高さを合わせた。
「俺は遊んでいたわけじゃない。君たちが安心して戦えるように、毎晩徹夜で結界石を配置し、武器を研ぎ、ポーションを調合していた。戦闘中だって、君たちが気づかないほどの微細な殺気を読み取って、魔物を鎮めていたんだ」
「そ、そうか! やはりそうだったんだな! 俺たちはそれを知らなかっただけだ! 誤解があったんだよ!」
レオンが希望を見出したように目を輝かせる。
「誤解が解けたなら、またやり直せるだろ!? 俺たちは最強のパーティだ! お前がいれば、今度こそ魔王だって倒せる!」
俺はため息をついた。
本当に、こいつはどうしようもない馬鹿だ。
今、自分がどこにいて、誰の前にいるのかすら理解していない。
「……やり直す?」
俺の背後で、冷ややかな声がした。
イヴだ。
彼女は優雅な足取りで俺の隣に並ぶと、ゴミを見るような目でレオンを見下ろした。
「貴方、状況がわかっているの? 貴方が命乞いをしている相手は、魔界の皇女である私の『飼い主』であり、魂の契約者よ。そして貴方たちが今言った言葉……『魔王を倒せる』?」
イヴの身体から、どす黒い殺気が膨れ上がる。
それは物理的な圧力となってレオンたちを押し潰し、彼らは悲鳴を上げて床に顔を押し付けられた。
「グアアアアッ!?」
「きゃあああっ!」
「私の父を殺す? 私の愛するマスターを利用して? ……身の程を知りなさい、下等生物」
イヴが指を振るうと、見えない刃が宙を走り、レオンの自慢の黄金の鎧が紙切れのように切り裂かれた。剥き出しになった背中に、赤い線が走り、血が噴き出す。
「ギャアッ!」
「イヴ、もういいよ」
俺はイヴの肩に手を置いた。
彼女の殺気がふっと緩む。イヴは俺の方を向くと、途端に甘えるような表情になった。
「でも、マスター。コイツら、貴方をまた道具として使おうとしたのよ? 許しておけないわ」
「わかってる。でも、もう言葉を交わす価値もないってことさ」
俺は立ち上がり、レオンたちを見下ろした。
「レオン。君は言ったな。『誤解があった』と。でも、それは違う。君たちは俺を見ようとしなかった。知ろうとしなかった。俺がどれだけ尽くしても、君たちの目には『便利な道具』か『邪魔な荷物』にしか映っていなかったんだ」
「ち、違う……!」
「違わないさ。だから君たちは、俺から荷物を奪い、武器を取り上げ、死地に置き去りにした。……あの時、君たちは俺を殺したんだよ。心も、存在も」
俺はイヴの手を握りしめた。彼女の温もりが、俺に勇気をくれる。
「俺はもう、『光輝の剣』のアルトじゃない。魔王の娘イヴに拾われ、彼女と共に生きることを選んだ、ただのアルトだ。だから、勇者とか、人類の希望とか、そんなものはもうどうでもいい」
「そ、そんな……! お前、人間を裏切るのか!?」
「裏切ったのはどっちだ?」
俺の鋭い言葉に、レオンが言葉を詰まらせる。
「俺を裏切り、見捨てたのは人間の方だ。魔物たちは俺を受け入れ、敬い、守ってくれた。……どっちが本当の『仲間』かなんて、考えるまでもないだろう」
俺は踵を返した。
もう、これ以上彼らを見る必要はない。
背を向けた俺の背中に、レオンの絶叫が飛んでくる。
「ま、待て! 待ってくれアルト! 俺たちはどうなるんだ!? 殺されるのか!? いやだ、死にたくない!」
「アルトさん! お願い、見捨てないで! わたくしが悪かったわ! 何でもしますから!」
その悲痛な叫び声を聞いても、俺の足が止まることはなかった。
かつては、彼らが少しでも傷つけば心配で駆け寄った。ミナが涙を見せれば、何をおいても慰めた。
だが今は、その声が遠い別の世界の出来事のようにしか聞こえない。
「イヴ。……あとは任せるよ」
「ええ、任せてちょうだい。最高の『おもてなし』を用意してあるわ」
イヴが楽しげに指を鳴らす。
その合図と共に、謁見の間の影から、異形の魔物たちが這い出てきた。
粘液を垂らす巨大なナメクジのような魔物、無数の触手を持つ不定形の怪物、そして鋭利な解体道具を持ったスケルトンの処刑人たち。
「ひっ、ひぃいいい!?」
「来るな! 来るなあああ!」
イヴが残酷な笑みを浮かべて宣告する。
「安心なさい。簡単には殺してあげないわ。貴方たちがマスターに味わわせた絶望……その千倍、いや万倍の苦痛を味わってもらうもの」
彼女は冷酷に告げた。
「地下大迷宮の最下層、『永劫の実験場』へ連れて行きなさい。そこで、魔物たちの玩具として、死ぬことすら許されずに永遠に踊り続けさせてあげる」
「嫌だああああ! アルトおおおお! 助けてえええ!」
魔物たちがレオンたちの足首を掴み、ズルズルと闇の奥へと引きずり込んでいく。
爪が床を掻く音。
断末魔のような悲鳴。
そして、彼らの姿は完全に闇に飲まれ、重厚な扉が轟音と共に閉ざされた。
静寂が戻った広間に、俺とイヴだけが残された。
俺は大きく息を吐き出した。
身体の中に澱んでいた黒い何かが、すべて吐き出されたような気がした。
「……終わった、のか」
「ええ。もう二度と、彼らが貴方の前に現れることはないわ」
イヴが俺の正面に回り込み、心配そうに顔を覗き込んできた。
「辛かった? マスター」
「いや……不思議なくらい、スッキリしてるよ。まるで、長い悪夢から覚めたみたいだ」
俺はイヴの頭に手を乗せ、その柔らかな髪を撫でた。
彼女は嬉しそうに目を細め、喉を鳴らすように身体を寄せてくる。
「ありがとう、イヴ。君がいてくれて本当によかった」
「当然よ。私は貴方のものだもの」
イヴは俺の胸に顔を埋めると、甘えた声で言った。
「ねえ、アルト。これからのことだけど……」
「ん?」
「あのゴミ掃除が終わったから、ようやく本題に入れるわね。……父様が、貴方に会いたがっているの」
「魔王様が?」
「ええ。『娘を手懐けた男の顔が見てみたい』って。それに……貴方のその『絶対安寧』の力、魔界の統治には必要不可欠よ。暴れる魔物たちを鎮め、秩序をもたらす力……貴方はまさに、魔王になるために生まれてきたような人だわ」
イヴが顔を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「どう? アルト。人間界では『荷物持ち』だったけど、ここでは『魔界の王』になってみる気はない?」
魔王、か。
一週間前の俺が聞いたら、卒倒していたかもしれない提案だ。
だが、今の俺にはその言葉が、どんな人間の称号よりも魅力的に響いた。
ここには、俺を必要としてくれるイヴがいる。
俺の力を認め、敬ってくれる魔物たちがいる。
俺の居場所は、最初からここにあったのだ。
「……悪くないな」
俺はイヴの腰を抱き寄せ、彼女の唇に口づけを落とした。
「君が隣にいてくれるなら、世界を敵に回したって構わないさ」
「ふふっ、嬉しい。じゃあ、まずは手始めに……人間たちの国に、新しい魔王の誕生を知らせに行きましょうか? きっと素敵なパレードになるわ」
イヴの背中から漆黒の翼が広がる。
俺たちは手を取り合い、玉座の奥にあるテラスへと歩み出した。
眼下には、見渡す限りの魔界の大地が広がっている。
そしてそのさらに向こうには、俺を追放した人間の国々が見える。
かつて見上げていた空は、今は俺たちの足元にあった。
理不尽な運命に翻弄された少年の物語はここで終わり、世界を統べる最強の魔王と、その最愛の皇女による、新たな覇道の物語が幕を開ける。
俺という『枷』が外れた世界で、今度は俺が、この世界を『支配』する番だ。
「征こうか、イヴ」
「ええ、どこまでも。私の愛する魔王様」
俺たちの眼下に広がる数万の魔物の軍勢が、新王の誕生を祝うように一斉に咆哮を上げた。
その轟音は地を揺らし、天を衝き、遠く離れた人間の都にまで、確かな恐怖と絶望の予兆として届いたことだろう。




