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第三話 崩壊する偽りの栄光

「はぁ……っ、はぁ……っ! 嘘だろ、なんなんだよアレは……ッ!」


勇者レオンは、泥と煤にまみれた顔で荒い息を吐きながら、岩陰に倒れ込んだ。

自慢の黄金の鎧はドラゴンの熱波で変色し、所々が融解して歪んでいる。背負っていたマントは半分以上が焼け落ち、見るも無惨な焦げ布となっていた。

心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗が噴き出して止まらない。


「レオン……っ、待って、置いていかないで……!」


少し遅れて、聖女ミナが足を引きずりながら岩陰に滑り込んできた。

彼女の美しい金髪はチリチリに焼け焦げ、純白だった法衣は泥水と血でドロドロに汚れている。慈愛の聖女としての気品など微塵もなく、そこにあるのはただ死の恐怖に怯える一人の女の姿だった。


「うるせえ! 大声出すな、あのトカゲに見つかるだろうが!」


レオンは乱暴にミナの腕を掴み、引き寄せた。

ミナは悲鳴を上げそうになるのを手で押さえ、涙目で震えている。

続いて、魔法使いのガイルと剣士のバランも転がり込んできた。二人とも満身創痍だ。ガイルの杖は先が欠け、バランの大剣は刀身にヒビが入っている。


「助かった……のか? あの化け物、追ってきてねえよな?」


バランが震える声で外の様子を窺う。

遠くで地響きのような咆哮が聞こえるが、徐々に遠ざかっているようだった。

どうやら、あのエンシェント・ドラゴンは気まぐれにブレスを吐いただけで、本気で彼らを追跡する気はなかったらしい。虫けらが視界に入ったから払った、その程度の認識なのだろう。


「ふざけんなよ……。あんなのが入口付近にいるなんて聞いてねえぞ……!」


レオンは岩を拳で殴りつけた。

痛みで顔をしかめるが、それ以上に屈辱と混乱が胸を支配していた。

彼らはSランクパーティだ。数々のダンジョンを踏破し、魔王を倒すために選ばれた人類の希望だ。

それが、たかが門番ごときに手も足も出ず、無様に逃げ惑うなんて。


「おかしい……。何かがおかしいですわ、レオン様」


ミナがヒールを自分にかけながら、掠れた声で言った。

魔力ポーションがないため、MPを節約せねばならず、最低限の傷しか塞げない。


「今までここを通った時は、あんな龍、一度も見ませんでしたわ。それに、道中の雑魚モンスターたちも、こんなに凶暴じゃありませんでした」

「……ああ。俺も思った。さっきのマンイーター・フラワーもそうだ。以前はただの草むらだった場所だぞ」


ガイルが眼鏡の位置を直そうとするが、レンズにヒビが入っていて直らない。苛立ち紛れに眼鏡を地面に叩きつけた。


「おい、まさかとは思うが……。アルトの奴が言ってたこと、本当だったんじゃねえか?」


バランが恐る恐る口にした言葉に、その場の空気が凍りついた。


『僕が魔物をなだめてるんだ』

『結界の楔を打っておいたから安全だよ』

『このルートは龍が寝てる時間帯を選んだんだ』


追放する時、アルトが必死に訴えていた言葉。

当時は「無能の妄言」だと鼻で笑っていた。

魔物が襲ってこないのは自分たちの強さに恐れをなしているからで、安全なルートを通れるのはレオンの運と勘が優れているからだと信じて疑わなかった。


「馬鹿言うな!」


レオンが怒鳴り声を上げた。


「あいつはただの『魔物使い』だぞ! しかも、猫一匹しか懐かせられねえ落ちこぼれだ! そんな奴に、エンシェント・ドラゴンを鎮める力なんてあるわけねえだろ!」

「で、でも現に、あいつがいなくなった途端にこれだぞ!?」

「偶然だ! たまたま魔物の活性期と重なっただけだ! ……くそっ、とにかく態勢を立て直すぞ」


レオンは無理やり話題を打ち切ると、腰のポーチを探った。


「ポーションだ。回復して、装備を点検する。……おい、ポーション出せ」


レオンはガイルに手を差し出した。

だが、ガイルは青ざめた顔で首を横に振る。


「な、無いんだよ……」

「はあ? 無いわけねえだろ。予備含めて大量に持ってたはずだ」

「全部、アルトのリュックの中だったんだよ! お前が『手切れ金代わりにくれてやる』って、置いてきたじゃねえか!」


レオンの手が止まる。

そうだ。アルトを追放した時、重い荷物を持つのが面倒で、ポーションや食料が入ったリュックをそのまま彼に押し付けたのだ。

手元にあるのは、それぞれの腰袋に入っている最低限の非常食と、使いかけのポーションが一本か二本だけ。


「……ミナ、お前のMPは?」

「もうカツカツですわ……。わたくし、歩くだけでも魔力を消費して『聖なる加護』を展開していますのよ? これ以上ヒールを使ったら、気絶してしまいます」

「ちっ、使えねえな……」


レオンが舌打ちすると、ミナの眉がピクリと跳ねた。


「なんですって? わたくしが使えないとおっしゃるの? そもそも、アルトさんを追い出そうと言い出したのはレオン様ですわよね? 『報酬を独り占めしたい』って」

「なんだと!? お前だって『あの陰気な顔を見てると食事が不味くなる』って賛成しただろうが!」

「俺たちだって反対しなかったんだから同罪だろ! それより今はどうするかだ!」


バランが割って入るが、険悪な空気は解消されない。

今まで彼らが仲良くやってこられたのは、余裕があったからだ。

圧倒的な戦力で敵を蹂躙し、莫大な報酬を得て、名声を浴びる。その「勝ち馬」に乗っている間は、誰だって笑顔でいられる。

だが、一度歯車が狂い、泥船になりかけた瞬間、彼らの薄っぺらい絆は簡単に崩壊を始めた。


「……わかった、わかったよ。悪かった」


レオンは渋々頭を下げたフリをした。ここで仲間割れをして、一人になれば確実に死ぬ。それだけは理解していた。


「とにかく、今日はもう進めねえ。近くに『隠し部屋』があったはずだ。以前、アルトが見つけた……いや、俺たちが発見したセーフティゾーンだ。そこで一晩休んで、明日撤退する」


魔王討伐など夢のまた夢。

今は生きて帰ることだけが目標になりつつあった。

彼らは重い足を引きずり、記憶を頼りに「隠し部屋」を目指した。


岩肌に偽装された小さな洞窟。

以前はそこに入ると、不思議なほど空気が清浄で、外の魔物の気配が一切しなかった場所だ。アルトが「結界石」を配置し、清めの儀式を行っていた場所。

だが、辿り着いた彼らを待っていたのは、安息ではなかった。


「……おい、なんだこれ」


洞窟の入り口には、無数の骨が散乱していた。

そして奥からは、鼻を刺すような腐臭と、獣の荒い息遣いが聞こえてくる。


グルルル……ッ。


暗闇から光る、六つの赤い目。

『キラー・ウルフ』の群れだ。一匹ならCランク程度だが、群れになればSランク冒険者でも手を焼く。

以前はアルトの結界を嫌って寄り付かなかった彼らが、結界の消滅と共にここを巣にしていたのだ。


「ふざけんな……! 俺たちの寝床だぞ……!」


レオンは剣を抜いた。

だが、その剣先は微かに震えている。


「やるしかねえ! ここを逃したら、外で野垂れ死にだ!」


戦闘が始まった。

だが、それは以前のような一方的な蹂躙ではなかった。

レオンの剣は切れ味が鈍り、一撃で倒せるはずの狼を倒せない。アルトが毎晩欠かさず行っていた研磨とメンテナンスがなくなった聖剣は、ただの重い鉄の棒に成り下がっていた。

バランの大剣も同様だ。刃こぼれした箇所から衝撃が逃げ、狼の硬い毛皮を貫通できない。


「硬え! なんだコイツら、こんなに強かったか!?」

「違う、武器が腐ってやがるんだよ! クソッ、あの雑用係、手入れサボってやがったな!」


逆恨みもいいところだが、彼らにそれを省みる余裕はない。

ガイルが魔法を放つが、詠唱の隙を狼たちに突かれ、腕を噛みつかれる。


「ぎゃああああ! 痛ええええ!」

「ガイル! くそっ、ミナ、援護しろ!」

「無理ですわ! 魔力が……きゃあああ!」


ミナの防御結界が狼の爪で砕かれる。

阿鼻叫喚の地獄絵図。

なんとか群れを撃退した頃には、全員が血まみれで、地面にへたり込んでいた。

ガイルは腕を失いかけており、ミナの服はビリビリに破かれている。レオンも自慢の顔に大きな切り傷を作り、プライドごとズタズタにされていた。


「はぁ……はぁ……。なんでだ……なんでこんなことに……」


レオンは血のついた手で顔を覆った。

脳裏に過ぎるのは、アルトの顔だ。

いつも後ろで、猫を撫でながら、何かブツブツと呟いていたあの姿。

あれはサボっていたんじゃない。

俺たちのために、武器を清め、魔物を遠ざけ、道を切り開いていたのか?

いや、認めるな。認めたら、俺はただの無能な神輿だったことになる。


「……誰か、いるぞ」


バランが震える声で洞窟の入り口を指差した。

月明かりを背に、数人の人影が立っていた。

人ではない。その頭には角があり、背には翼がある。

魔族だ。


「ヒッ……!」


ミナが小さな悲鳴を上げる。

現れたのは、黒い燕尾服を着た執事風の男と、メイド服を着た女、そして全身鎧の騎士だ。

だが、その身から溢れ出る魔力は、先ほどのエンシェント・ドラゴンに匹敵するほど濃密で、禍々しい。

魔王軍の幹部クラス。

今のボロボロの彼らに、勝てる相手ではなかった。


「おやおや。汚いですねぇ」


執事風の魔族が、ハンカチで鼻を押さえながら言った。

その目は、路傍の石ころを見るよりも冷徹だ。


「ここを通る許可証はお持ちですか? ああ、失礼。人間如きが持っているはずもありませんね」

「な、何者だ……! 魔王の配下か!」


レオンは虚勢を張って立ち上がろうとするが、足が震えて力が入らない。


「ええ、左様でございます。我々は、あの方……イヴ様の忠実なる下僕」


執事は優雅に一礼したが、次の瞬間、その表情が一変した。

温厚な仮面が剥がれ落ち、鬼のような形相になる。


「そして、貴様らごときに、我らが主の心を傷つけた代償を払わせに来た処刑人でございます」


「イヴ……? 誰だそれは……」


レオンは聞き覚えのない名前に戸惑う。

だが、メイド風の魔族が冷たく言い放った。


「とぼけないでくださいまし。貴方たちが『たかが猫』と蔑み、足蹴にしたあのお方こそが、我らが皇女イヴ様ですわ」


猫。

アルトが抱えていた、あの黒猫。


「は……? あの猫が、魔族の姫だと……?」

「姫ではありません。皇女、次期魔王様であらせられます」


鎧の騎士が一歩踏み出す。

その威圧だけで、ガイルが泡を吹いて気絶した。


「貴様らは、万死に値する。皇女様を侮辱しただけでなく、あの方が唯一心を許した『あのお方』を追放し、死地に追いやった罪……。その肉を削ぎ、骨を砕き、魂すらも粉砕しても償いきれぬ大罪だ」


あのお方。アルトのことだ。

レオンたちの顔から血の気が完全に引いた。

アルトが連れていた猫は、魔王の娘だった。

そしてアルトは、その魔王の娘を手懐けていた。

つまり、自分たちが「無能」と罵って捨てた男は、魔王軍そのものを支配していたに等しい存在だったのだ。


「ま、待て! 知らなかったんだ! アルトがそんなに凄い奴だなんて、誰も教えてくれなかった!」

「そうだ! わたくしたちは騙されていたのです! 全部アルトさんが悪いんです、ちゃんと言わないから!」


ミナが泣き叫びながら命乞いをする。

あまりにも醜い責任転嫁。

執事は呆れたようにため息をついた。


「見苦しい。貴様らの目は節穴ですか? 彼の献身に気づかず、その恩恵を己の実力と勘違いし、挙句の果てに裏切る。……救いようのないクズですね」


執事が指をパチンと鳴らす。

その瞬間、レオンたちの四肢に激痛が走った。

見えない刃によって、手足の腱を正確に切断されたのだ。


「ギャアアアアア!!」

「あがぁッ!!」


全員が地面に倒れ伏し、芋虫のようにのたうち回る。

逃げることも、戦うことも、もうできない。


「殺しはしませんよ。まだね」


執事は冷酷に微笑んだ。


「イヴ様が、直々に貴様らの絶望をご覧になりたいと仰せですから。……さあ、連行しなさい」


闇の中から湧き出した下級魔族たちが、レオンたちの髪を掴み、引きずり始めた。

抵抗できない彼らは、ズルズルと地面を擦られながら、魔王城の方角へと運ばれていく。


「いやだ……いやだぁ……! 助けて、誰か助けてえええ!」

「俺は勇者だぞ! こんな終わり方、あってたまるかあああ!」


絶叫が荒野に虚しく響く。

だが、誰も助けには来ない。

神ですら、今の彼らを見捨てているようだった。


数時間後。

レオンたちは、魔王城の謁見の間に放り出された。

広大な広間。豪奢なシャンデリア。そして、奥に鎮座する巨大な玉座。

その玉座には、漆黒のドレスを纏った絶世の美女が、頬杖をついて座っていた。

その膝元には、一人の人間の青年が腰掛けている。


「ひ……っ」


レオンは息を飲んだ。

見間違うはずがない。

自分たちが捨てた、あの「無能」な魔物使い。

アルトだ。


だが、その姿は以前とは違っていた。

ボロボロの冒険者服ではなく、魔界の最高級の布で作られた漆黒の礼服を身に纏い、その首には魔力を帯びたチョーカーが輝いている。

そして何より、その表情。

以前のような卑屈な笑みはどこにもない。

冷徹で、どこか哀れみを含んだ瞳で、泥にまみれた元仲間たちを見下ろしている。


「よお、レオン。ミナ。それにみんな」


アルトが静かに口を開いた。

その声は、驚くほど澄んでいて、広間に朗々と響き渡った。


「随分と早かったね。もっと時間がかかると思ってたけど……。ああ、そうか。『俺がいないと』ここまで来るのも一苦労だったか」

「ア、アルト……!」


レオンは切断された足を引きずり、アルトの方へ這いずっていった。

プライドも羞恥心もない。あるのは、生存への執着だけだ。


「た、助けてくれ! 俺が悪かった! 謝る! 謝るから!」

「アルトさん! わたくしもです! 貴方が必要なんです! お願い、あいつらに言って、私たちを解放して!」


ミナも髪を振り乱して懇願する。

その姿を見て、玉座の美女――イヴが、クスクスと笑った。

それは、鈴を転がすような、しかし背筋が凍るほど残酷な笑い声だった。


「あらあら、マスター。あんなに吠えていた犬っころたちが、今は地面を這いつくばって命乞いよ。滑稽ねぇ?」


イヴはアルトの髪を愛おしそうに撫でながら、レオンたちを一瞥した。


「でも、残念ね。貴方たちが助けを求めているこの人は、もう『勇者パーティの荷物持ち』じゃないの」


彼女はアルトの首に腕を回し、その耳元に甘く囁いた。


「彼は今、私の最愛の『飼い主』であり、この魔界の実質的な支配者……魔王の伴侶となるお方よ」


魔王の、伴侶。

その言葉の意味を理解した瞬間、レオンたちの瞳から最後の希望の光が消えた。

彼らは気づいてしまったのだ。

自分たちが捨てたのは、ただの石ころではなく、この世界を統べる王冠についていた、最も重要な宝石だったのだと。


アルトはゆっくりと玉座から立ち上がり、階段を降りてきた。

レオンの目の前まで歩み寄ると、彼はかつて自分が渡された「錆びた短剣」を、カランと音を立てて床に落とした。


「……返すよ、レオン。これは、君たちにお似合いだ」


アルトの冷たい宣告が、広間に響き渡る。

それは、かつての友情への決別であり、彼らへの死刑執行の合図でもあった。

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