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第二話 枷は外れた

第二話「枷は外れた」


風を切る音が、鼓膜を激しく叩く。

眼下には、見渡す限りの荒野が広がっていた。だが、その光景は数分前とは一変している。

かつて静寂に包まれていた灰色の荒野は今、どす黒い奔流によって埋め尽くされていた。


「すごい……。これ、全部魔物なのか……?」


俺、アルトは震える声で呟いた。

イヴに抱きかかえられ、漆黒の翼で空高く舞い上がった俺の視界には、数え切れないほどの魔物の群れが映っている。

地を這う獣、空を駆ける翼竜、不定形の影。

そのすべてが、一つの方向――勇者レオンたちが去っていった北の方角へと向かって、雪崩のように押し寄せていた。


「ええ、そうよ。私の可愛い眷属たちだわ」


耳元で、鈴を転がすような、しかしどこか艶めいた声が響く。

イヴだ。

俺を抱える彼女の腕は細くしなやかだが、鋼鉄のように安定しており、微動だにしない。背中から生えた漆黒の翼が羽ばたくたびに、強烈な魔力の波動が周囲の大気を震わせていた。


「彼らは皆、ずっと我慢していたの。人間を喰らいたいという本能も、縄張りを荒らされた怒りも、すべて私が抑えつけていたから」

「イヴが……抑えていた?」

「正確には、貴方が、よ。アルト」


イヴは飛行速度を少し緩め、空中で静止した。

彼女の真紅の瞳が、至近距離で俺を見つめる。そこには、魔王の娘としての冷酷さは微塵もなく、ただ蕩けるような甘い熱だけが宿っていた。


「貴方のスキル『絶対安寧カーム・ダウン』。貴方はそれを、ただの気休め程度のスキルだと思っていたでしょう?」

「あ、ああ……。だって、ステータス画面にも『周囲を少し落ち着かせる』としか書いてなかったし、レオンたちにも散々馬鹿にされてきたから」

「ふふっ、人間の鑑定スキルなんて、その程度の精度なのね。滑稽だわ」


イヴはクスクスと笑い、俺の頬に自分の頬をすり寄せた。ひんやりとした肌の感触と、甘い香りが俺の理性を揺さぶる。


「いい? よく聞いて、私のマスター。貴方のスキルは、そんな生温いものじゃない。それは、精神干渉系の最上位権能――『魂の鎮静』よ」


魂の、鎮静。

聞いたこともない言葉だった。


「この世界において、強力な魔物ほど、その魂に『破壊の衝動』という呪いを刻まれているわ。強ければ強いほど、その衝動は激しくなり、理性では制御できなくなる。私だってそう。父である魔王ですら、時々発作のように暴れ出して、城を半壊させることがあるの」


イヴの表情が少し曇る。それは、強者ゆえの孤独を物語っているようだった。


「でも、貴方のそばにいる時だけは違った。貴方の魂から溢れ出る波長は、私たちの呪いを中和し、信じられないほどの安らぎを与えてくれる。まるで、母の胎内にいるような……あるいは、すべてが許された楽園にいるような、絶対的な安心感」


彼女は俺の胸に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


「だから、この森の魔物たちは貴方を襲わなかったのよ。襲うどころか、貴方のそばで眠りたがっていた。貴方が歩く道は、彼らにとって唯一の『安息地』だったの。……あの愚かな勇者たちが、自分の実力だと勘違いしてふんぞり返っている間、最強クラスの魔物たちが、貴方の機嫌を損ねないように必死で息を潜めていたなんて、傑作でしょう?」


イヴの言葉を聞いて、俺の中でカチリと何かが嵌まる音がした。


今までの旅の記憶が蘇る。

凶悪なダンジョンの深層で、なぜか俺たちが通る時だけモンスターが昼寝をしていたこと。

野営中、見張りをしていた俺の足元に、いつの間にか高ランクの魔獣がすり寄ってきていたこと。

レオンはそれを「俺の覇気にビビって媚びてきたんだ」と笑っていたが、あれは俺のスキルに引き寄せられていただけだったのか。


「じゃあ、俺はずっと……守られていたのか。魔物たちに」

「ええ。そして同時に、貴方は世界を守っていたのよ。貴方がいたから、彼らは暴走せずに済んでいた。……でも、もう終わり」


イヴが顔を上げ、冷ややかな視線を北へと向けた。


「貴方という『鎮静剤』を失った彼らは、禁断症状を起こした薬物中毒者のようなもの。抑圧された本能が爆発し、破壊の限りを尽くすでしょうね。特に、貴方を傷つけ、奪い取っていったあの不敬な人間たちに対しては」


俺もまた、視線をそちらに向けた。

遥か彼方、夕闇に沈む荒野の先で、微かに土煙が上がっているのが見える。

かつて仲間だった者たちがいる場所だ。

普通なら、助けに行こうと思うのかもしれない。止めるべきだと考えるのが、人としての道徳なのかもしれない。

だが不思議と、俺の心は凪いでいた。


「……そっか」


口から出たのは、驚くほど淡泊な言葉だった。

レオンに殴られた腹の痛みが、まだ残っている。

ミナの冷たい嘲笑が、耳にこびりついている。

彼らは俺を捨てた。死んでもいいと、嘲笑いながら置き去りにした。

なら、その報いを受けるのは当然の帰結だ。


「アルト、どうしたい?」


イヴが試すように俺に問いかける。


「もし貴方が望むなら、私が命じて彼らを止めることもできるわ。……不本意だけれど、貴方の願いなら聞くわよ」


俺は首を横に振った。


「いや、いいよ。俺にはもう、関係のない人たちだ」

「ふふ、そうこなくちゃ」


イヴは嬉しそうに目を細めると、再び俺を抱きしめる力を強めた。


「じゃあ、少し地上に降りましょうか。私の『部下』たちが、貴方に挨拶をしたがっているみたいだから」


イヴは翼を畳み、緩やかに高度を下げていった。

着地したのは、荒野の中にある小高い丘の上だった。

そこは周囲を見渡せる絶好のポイントであり、同時に、異様な密度の魔力が渦巻く場所でもあった。


俺たちの足が地面に着くのと同時に、周囲の岩陰から巨大な影が次々と現れる。

全長十メートルはあろうかという、赤黒い鱗に覆われた大蛇。

全身が燃え盛る炎で構成された巨人、イフリート。

そして、鋭い鎌のような爪を持つ、死神のような姿をしたマンティコア。


どれも、冒険者ギルドが「遭遇したら即逃走」を推奨する、災害指定クラスの魔物たちだ。

以前の俺なら、腰を抜かして失禁していただろう。

だが今は、不思議と恐怖を感じなかった。

イヴがそばにいるからというのもあるが、それ以上に、俺自身のスキルが彼らの「感情」を読み取っていたからだ。


『オオ……癒ヤシノ主ヨ……』

『マタ会エテ、嬉シイ……』

『アノ喧シイ人間ドモガ、イヨイヨ居ナクナッタノカ……』


直接言葉が聞こえるわけではない。だが、彼らから伝わってくるのは、敵意ではなく、純粋な敬愛と安堵の念だった。

炎の巨人が、その巨大な膝を折り、俺に向かって頭を垂れる。

大蛇が、鎌首をもたげることなく、地面に這いつくばって服従の姿勢を示す。


「ほら、見てアルト。これがこの世界の真実よ」


イヴが俺の手を取り、魔物たちの前に掲げるように示した。


「人間たちは貴方を『無能』と呼んだ。でも、この深淵に住まう者たちは知っているわ。貴方こそが、誰よりも尊く、誰よりも守るべき『王』に相応しい存在であることを」


その言葉に呼応するように、マンティコアがゆっくりと近づいてきた。

その口には、何か光るものを咥えている。

それは、真っ赤に熟れた果実だった。魔界でも稀にしか実らないと言われる、幻の霊薬『エリクサーフルーツ』だ。

マンティコアはそれを、そっと俺の足元に置くと、猫のように喉を鳴らして擦り寄ってきた。


「……これを、俺に?」

「貢物よ。彼らにとって、貴方に気に入られることは至上の喜びなの」


俺は震える手でその果実を拾い上げた。

レオンたちには、水の一滴すら恵んでもらえなかった。

ポーションを作っても、礼を言われるどころか「味が悪い」と文句を言われた。

なのに、人類の敵であるはずの魔物たちが、こうして俺を労り、敬ってくれる。


なんて、皮肉な話だろう。

人間の中に俺の居場所はなく、魔物の群れの中にこそ、俺の本当の価値を認めてくれる者たちがいたなんて。


「……ありがとう」


俺がマンティコアの硬い毛並みを恐る恐る撫でると、その凶悪な魔獣は嬉しそうに目を細め、ゴロゴロと大地を揺らすほどの音で喉を鳴らした。

その様子を見て、イヴが少し頬を膨らませる。


「むぅ……。アルト、あんまり他の子を甘やかさないでよ。貴方の『一番』は私なんだから」

「えっ、いや、これはその……」

「冗談よ。……半分は、ね」


イヴは茶目っ気たっぷりにウインクすると、パチンと指を鳴らした。

その瞬間、俺たちの目の前にあった巨大な岩山が、音もなく消滅した。

いや、消滅したのではない。彼女の魔法によって、一瞬にして砂粒に分解されたのだ。

そして、その砂粒が再構築され、豪奢な天蓋付きの玉座と、ふかふかの絨毯、そしてテーブルに並べられた豪勢な食事が現れる。


「さあ、座って。これからのショーを見るための特等席を用意したわ」


イヴに促され、俺は玉座に腰を下ろした。

彼女は当然のように俺の膝の上に座り、俺の胸に背中を預ける。

その視線の先には、魔法によって空中に投影された巨大な映像があった。

まるでテレビ画面のように鮮明に映し出されているのは、ここから数キロ先を進む、レオンたちの姿だった。


***


一方その頃。

勇者レオン率いるSランクパーティ『光輝の剣』は、魔王城へと続く街道を進んでいた。


「あーあ、せいせいしたぜ。あの陰気な面を見なくて済むと思うと、空気がうまく感じるな」


レオンは大げさに背伸びをして、隣を歩くミナに笑いかけた。


「ええ、本当に。魔界の瘴気も、少し晴れたような気がしますわ」

「違いない! アルトの奴、実は貧乏神のスキルでも持ってたんじゃねえか?」


魔法使いのガイルが下卑た笑い声を上げ、剣士のバランもニヤニヤと頷く。

彼らの足取りは軽い。

アルトを追放したことで、荷物の運搬や雑用を自分たちで分担しなければならなくなったが、そんなことは些細な問題だと思っていた。

何しろ自分たちは世界最強のパーティだ。魔王討伐という偉業を成し遂げる英雄なのだ。


「しかしレオン、さっきから妙に静かじゃねえか? いつもなら、この辺りでもう少し雑魚が出てきてもおかしくないんだが」


バランが少し訝しげに周囲を見回した。

確かに、アルトを追放してから数時間、彼らは一匹の魔物にも遭遇していなかった。


「ビビって逃げ出したんだろ。俺の覇気が増した証拠だ」


レオンは鼻で笑い飛ばした。

だが、その自信はすぐに揺らぐことになる。


「……あれ? ちょっと待って、レオン様。あそこの道、崩れていませんこと?」


ミナが指差した先。

本来なら安全な街道が続いているはずの場所が、巨大なクレーターのように陥没していた。

そこは、以前アルトが「ここを通る時は、僕が結界の楔を打ち込んでおいたから大丈夫」と言っていた場所だ。レオンたちは「無駄なことを」と笑っていたが、実際にはアルトが地脈の乱れを鎮め、崩落を防いでいたのだ。


「チッ、足場が悪いな。回り道するか」

「ええ、そうしましょう。……きゃっ!?」


ミナが悲鳴を上げる。

彼女の足元にあった小さな草花が、突如として牙を剥き、彼女の足首に噛みついたのだ。


「な、何ですのこれ!? ただの雑草じゃありませんでしたの!?」

「離れろッ!」


バランが剣を振るい、草を切断する。

だが、切断された草からは毒々しい紫色の煙が噴き出し、周囲の草花が一斉に怪物のような姿へと変貌し始めた。

『マンイーター・フラワー』。

擬態能力を持つ食肉植物だ。普段は大人しいが、獲物が近づくと集団で襲いかかる。

これまではアルトのスキルによって「満腹状態」の錯覚を与えられていたため、ただの草のふりをしていたのだ。


「くそっ、なんだこいつら! こんな所にこんな魔物がいやがったのか!?」


ガイルが炎の魔法を放ち、植物を焼き払う。

なんとか撃退したが、全員の顔には疲労と焦りの色が浮かんでいた。


「おいおい、冗談じゃねえぞ。こんな雑魚に手間取ってたら、日が暮れちまう」

「レオン、急ぎましょう。なんだか、嫌な予感がしますわ……」


ミナが青ざめた顔で自身の法衣を直す。

その時だった。


ズズズズズ……ッ。


地鳴りがした。

いや、それはただの地震ではない。

大気の振動、いや、空間そのものが悲鳴を上げているような、圧倒的なプレッシャー。


「な、なんだ……?」


レオンが剣の柄に手をかける。

彼らの前方の闇から、二つの巨大な光が灯った。

それは、家ほどもある大きさの、黄金に輝く「瞳」だった。


『――去レト、我ガ友ハ言ッタ』


腹の底に響くような、重低音の声が脳内に直接語りかけてくる。


『ダガ、友ハ去ッタ。枷ハ外レタ。……貴様ラノ臭イ、我慢ノ限界ダ』


闇の中から姿を現したのは、山脈のように巨大な龍だった。

『エンシェント・ドラゴン』。

神話の時代から生きる、魔界の門番。

その全身は鋼鉄よりも硬い鱗に覆われ、口からは万物を溶解させる灼熱の息を漏らしている。


「嘘……だろ……? なんでこんなところに、古代龍が……!?」


レオンの声が裏返る。

彼らの持っていた地図には、ここは「比較的安全なルート」と記されていた。

それは間違いではない。アルトがいた頃は、この龍はずっと眠っていたのだから。

アルトが毎晩、子守唄を歌うように精神波を送り続け、この世界最強の生物をまどろみの中に留めていたのだ。


だが、そのアルトはもういない。


『死ヌガヨイ、蟻ドモ』


龍が大きく息を吸い込む。

喉の奥で、太陽のような光が凝縮されていく。


「ま、待て! 俺は勇者だ! 話せばわか――」

「いやあああああ!!」

「逃げろおおおおお!!」


レオンの叫びは、圧倒的な炎の奔流にかき消された。

それは、彼らがこれから味わうことになる、地獄のほんの入り口に過ぎなかった。


***


「……わぁ、派手にやってるわね」


空中映像を見ながら、イヴが楽しそうに感想を漏らす。

画面の中では、レオンたちが必死の形相で逃げ惑い、ミナが髪を振り乱して叫んでいる姿が映っていた。

かつての威厳など見る影もない。ただの無力な獲物だ。


俺はその光景を見ても、心が痛むことはなかった。

むしろ、胸の奥にあった重い鉛が溶けていくような、不思議な爽快感があった。


「ねえ、アルト。まだ終わりじゃないわよ」


イヴが俺の首に腕を回し、妖艶に微笑む。


「あの子たちを追い詰めるために、私の『親衛隊』も向かわせたわ。彼らが魔王城に辿り着く頃には、きっと心も体もボロボロになっているはず。……そこを、私たちが迎えてあげるの」

「迎える?」

「ええ。魔王城の玉座で、貴方が彼らを見下ろすの。想像してみて? かつて貴方を捨てた彼らが、命からがら逃げ延びた先で、最強の魔王となった貴方に慈悲を乞う姿を」


それは、あまりにも甘美な復讐の提案だった。

俺の中で、新たな感情が芽生える。

かつて彼らに憧れ、認められたいと願っていた弱い自分との決別。

そして、彼らを見返し、その愚かさをわからせてやりたいという、暗い情熱。


俺はイヴの腰を抱き寄せ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「……いいね、それ。最高だ」

「ふふ、そうでしょ? 愛してるわ、私の魔王様」


イヴが俺の唇に、甘い口づけを落とす。

その背後では、レオンたちの絶望の叫びが、心地よいBGMのように響き渡っていた。


もう、俺はただの荷物持ちじゃない。

世界を滅ぼす魔王の、唯一の理解者であり、支配者なのだ。

ここからが、本当の「ざまぁ」の始まりだ。

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