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愛する貴方のことは、何一つ忘れませんわ。たとえそれが、隠し通したかった罪の記録であっても。

作者: たまユウ

 コルベール侯爵家の人間は、代々「沈黙」を美徳としていることで知られていた。


 その理由は、至って単純だ。

『口を動かせば、それだけ目が疎かになる』からである。


 人が自分の意見を話そうとする時、意識はどうしても自分の内側に向いてしまう。それでは、目の前の相手が見せる一瞬の表情の揺らぎや、隠された嘘の兆候を見逃してしまうかもしれない。


 コルベール家の人々にとって、それは耐え難い損失だと感じていた。


 彼らは、一言一句、一挙手一投足を逃さずに脳裏に記憶しておきたいのだ。


 だから彼らは口を閉ざす。


 自分の感情を押しのけ、冷静にそして静かに相手の姿をありのまま、鮮明に記憶し続けているのである。

 ゆえに、コルベール家にとっての「忘却」とは、死と同義であった。



 彼らは決して忘れない。



 受けた恩義も、交わした契約も。



 ――そして、決して拭えぬ屈辱も。




―・―・―




 王都の夜を彩る絢爛な舞踏会。


 シャンデリアの煌めきが貴族たちの宝石を照らし出し、楽団の奏でるワルツが甘美な時間を演出していた会場は、今、凍りついたような静寂に包まれていた。

 その中心にいるのは、この国の第二王子セドリックと、その婚約者であるコルベール侯爵令嬢、ミーティアである。


「ミーティア、貴様との婚約はこれをもって破棄とする!」


 若き王子の高らかな宣言が、広間に響き渡った。

 セドリックの隣には、燃えるような赤髪と派手なドレスを身に纏った男爵令嬢が寄り添っている。セドリックは彼女の腰をこれ見よがしに抱き寄せ、勝ち誇ったようにミーティアを見下ろしていた。


 周囲の貴族たちの中には、ミーティアに同情する者もいたが、王子の激昂を恐れて誰も声を上げようとはしない。

 誰もが、この不当な断罪に対し、ミーティアが涙ながらに縋り付くか、あるいはコルベールの名にかけて抗議するものだと予想していた。


 だが、ミーティア・コルベールは、ただ静かに瞬きをしただけだった。プラチナブロンドの髪は一点の曇りもなく、深海のような青い瞳は、どこまでも澄んでいる。

 その美しさはまるで彫刻のようで、セドリックにはそれが「人形のようだ」と映った。


「……殿下。それは、王家とコルベール家の合意あってのことでしょうか」


 ミーティアの声は、鈴を転がすように美しく、しかし氷のように冷ややかだった。感情の色が一切乗っていないその問いかけが、セドリックの癇に障った。


「家など関係ない!これは私の意志だ!貴様のような、感情がないように見える冷血な女を妃に迎えるなど、真っ平御免だとな!」


 セドリックは声を荒げ、周囲へのアピールとばかりに言葉を重ねる。


「貴様はこの三年間、私の苦悩を理解しようともせず、ただ飾り物のように黙りこくっているだけだったではないか。ミランダを見ろ。彼女は私の心に寄り添い、愛を囁き、共に笑い合ってくれる。真の伴侶とはこういう女性のことだ!」


「……左様でございますか」


「ふん、やはりその反応か。悔しくないのか?悲しくないのか?まぁいい、貴様に人の心など期待するだけ無駄だったな」


 セドリックの嘲笑に合わせて、隣のミランダと呼ばれた娘もクスクスと笑い声を上げる。


 ミーティアは、そんな彼らの姿をじっと見つめていた。

 怒っているのではない。悲しんでいるのでもない。


 彼女は今、必死に『記憶』しているのだ。


 セドリックの歪んだ口元、ミランダの勝ち誇った瞳の色、周囲の貴族たちの嘲笑と憐憫が入り混じった空気。


『いいか。もし自分の身に困難が降りかかった時は余計なことはせずに、その時に起こったこと全てを記憶するのだ』


 幼い頃から父親には口酸っぱく言われてきた教え。コルベール家の言い伝えの通り、彼女はこれからの反撃の備えるため、静かに目の前の光景を脳に焼き付ける作業に注いでいた。


「……承知いたしました、セドリック殿下」


 ミーティアは、ドレスの裾をつまみ、この上なく優雅な礼を披露した。その所作はあまりに完璧で、あまりに美しく、見る者の目を奪うほどだった。


「殿下の御心のままに。……このミーティア、本日ただいまをもちまして、殿下の御前から姿を消すことにいたします」


「あ、ああ。……荷物は早急にまとめることだな」


 予想外にあっさりと引き下がったミーティアに、セドリックは一瞬毒気を抜かれたような顔をしたが、すぐに鼻を鳴らした。

 やはり、この女には何の執着も感情もないのだ、と。

 ミーティアは顔を上げ、最後に一度だけ、セドリックとその隣の女、そして二人を取り巻く側近たちをゆっくりと見渡した。

 その視線は、憎しみや悲しみを含んだものではない。まるで、帳簿の数字に間違いがないかを確認する事務官のような――無機質な瞳だった。


「それでは、皆様。……ごきげんよう」


 ミーティアは踵を返し、背筋を伸ばして歩き出した。

振り返ることはない。


 ただの一言の恨み言も、弁明も残さず、彼女は会場を後にした。


 残されたのは、奇妙な勝利感に酔うセドリックと、どこか薄ら寒い違和感を覚える貴族たち。


 セドリックは知らなかった。


 コルベール家の人間にとって、沈黙とは「肯定」ではない。


 それは「反撃の序章」だということを。



 そして、彼らの沈黙が破られるとき、それは反論のためではなく、確定した事実による「処刑」が執行されるときなのだということを。



 ミーティア・コルベールが王都を去ったその日から、王国の歯車は、音もなく、けれど確実に狂い始めていくこととなる。





 ミーティアを追い出した後の数週間、セドリック第二王子の生活は、まさに春の陽気のように晴れやかだった。


 隣には、愛らしいミランダがいる。


 彼女はミーティアとは正反対だ。よく喋り、よく笑い、セドリックの言葉一つ一つに大げさなほど反応を返してくれる。


「セドリック様はなんでもできてすごいですわ!」

「私にはその考え方が思いつかなかったです!さすがですわ、セドリック様!」


 その甘い称賛の声は、セドリックの自尊心を心地よく満たしてくれた。

 あの陰気な「沈黙の女」がいなくなり、ようやく自分の人生が色づき始めた。


 セドリックは本気でそう思っていた。

 最初の「(ほころ)び」が生じるまでは。



 それは、何気ない定例会議でのことだった。

 治水工事の予算に関する話し合いで、セドリックは軽く意見を述べた。


「西地区の堤防工事だが、あそこまで大規模にする必要はないだろう。予算を削り、その分を王都の警備強化に回すべきだ」


 至極まっとうな意見のつもりだった。

 しかし、財務大臣が困ったような顔で一枚の書類を差し出した。


「ですが殿下……。四年前の夏、西地区を視察された際、殿下は村長に対しこう仰っております。『この川の氾濫は国の責任だ。私の名にかけて、百年先まで耐えうる強固な堤防を築くと約束しよう』と」


「……は?」


「その際、殿下は泥に汚れるのも厭わず、村人の手を取り、涙ながらに約束されたとか。当時の天候は激しい雷雨、殿下は紺色の軍服をお召しになり、右手には銀の鞭を持っていた……という詳細な記録が残っております」


 大臣が読み上げる内容に、会議室がどよめいた。

 民を思う慈悲深き王子。本来なら称賛されるべきエピソードだ。


 だが、今のセドリックにとっては寝耳に水だった。


(私が、そんなことを言ったか……?)


 四年前のことなど、覚えているはずがない。

 その場の雰囲気と高揚感に任せて、調子のいいことを言ったのかもしれないが、記憶の彼方だ。

 しかし、提示された記録はあまりにも詳細で、反論の余地を与えなかった。


「……そ、そうだったな。忘れていたわけではないぞ。ただ、財政状況を鑑みてだな……」


「約束をたがえるのですか? 王族の言葉は重い。一度口にした誓いを、財政難などを理由にひるがえしては、王家の威信に関わります」


 結局、セドリックの提案は却下された。

 冷や汗を拭いながら会議室を出たセドリックは、奇妙な違和感を覚えていた。

 なぜ、四年前のあんな些細な会話が、これほど正確に記録されているのだ?



 その違和感は、すぐに恐怖へと変わった。



 翌日、セドリックの側近であり、遊び仲間でもあった騎士団員の男が、突然解任された。


 理由は「勤務中の飲酒と賭博」。

 それも、現行犯ではない。


『三年前の聖誕祭の夜、王城の詰所にて、当直任務を放棄し隠れて葡萄酒を開けた』という告発文が、証拠の空き瓶の保管場所と共に騎士団長のもとへ届いたのだ。

 さらにその翌日には、別の側近が更迭こうてつされた。


 理由は「横領」。


『二年前の秋、備品購入の際に業者から受け取った賄賂の記録』が、正確な金額と日時のメモ付きで露見したのだ。


 セドリックの周囲から、一人、また一人と人が消えていく。


 彼らは皆、あの夜会でミーティアを嘲笑っていた者たちだった。


「どうなっているんだ……!?」


 執務室で、セドリックは机を叩いた。

 あまりにもタイミングが良すぎる。

 まるで、誰かがずっと息を潜めて監視しており、この時を待って一斉に矢を放ち始めたかのようだ。


「セドリック様ぁ、どうされたんですの? 顔色が優れませんわ」


 そこに、ミランダが入ってきた。

 彼女は相変わらず能天気な明るさを振りまいている。

以前なら癒やされたその声が、今のセドリックには酷く耳障りだった。


「ミランダか……。いや、少し仕事でトラブルが続いていてな」


「あら、大変。でもそんな難しいお話より、今度の園遊会のドレスを見てくださいな! セドリック様の瞳の色に合わせて、特注したんですの!」


「……今、それどころでは」


「えぇー?つまんない。ミーティア様がいなくなって、せっかく自由になれたんですもの。もっと楽しみましょうよ」


 ミランダの言葉に、セドリックはハッとした。

 そうだ、ミーティアだ。

 彼女がいた頃は、こんなことは起きなかった。

 彼女はいつも私の後ろに控えていた。

 会議の資料を揃え、スケジュールの不備を正し、側近たちの素行に目を光らせていた。


 いや、それだけではない。


『殿下、明日の会議では西地区の件が話題に出るかと存じます。以前の発言との整合性をお忘れなきよう』


『あの騎士の方は少し手癖が悪いようですわ。重要な任務からは外すべきかと』


 かつてミーティアが、淡々とした口調で進言していたことを思い出した。


 あの時、セドリックは何と言ったか。


『いちいちうるさいな!お前の小言は聞き飽きた!』と怒鳴りつけ、彼女を黙らせたのではなかったか。


 ミーティアはあの時、何と答えただろう。

 確か、何も言わずに一礼し、それ以降、二度と口出しをしなくなったはずだ。


(まさか……あの時からか?)


 あの時から、彼女は私を守るための「助言」をやめ、私を破滅させるための「記録」を始めていたというのか?


 背筋に冷たいものが走った。

 セドリックの手元には、先日届いたばかりの、自分自身の素行調査書がある。

 そこには、ミランダと密会を重ねていた日時はもちろん、その際に使った店、購入した贈り物、果てはミランダに対して言った「婚約者と別れて君と一緒になりたい」という言葉までが、一言一句違わず記されていた。


 送り主の名前はない。

 だが、この文体には見覚えがあった。


 装飾のない、事実のみを羅列した、無機質な報告書。


「……ミーティア」


 その名は、かつては退屈の代名詞だった。

 だが今、その名はセドリックにとって、見えない処刑人のような印象を受けた。


「セドリック様?聞いてらっしゃいます?」


「……黙っていろ!」


 セドリックは思わず怒鳴っていた。

 驚いて目を丸くするミランダを押しのけ、彼は部屋を飛び出した。


 このままでは殺される。社会的に。


 今すぐ彼女に会わなければならない。会って、このふざけた攻撃をやめさせなければならない。


 セドリックは馬を走らせた。

 向かう先は、コルベール侯爵家の領地。

 ミーティアが隠居しているはずの場所へ。



 怒りと焦燥に駆られた彼は、まだ気付いていなかった。




 自分から彼女のもとへ向かうことすらも、全て計算された「道筋」であることに。



―・―・―



 コルベール侯爵家の本邸は、王都から馬車で半日ほどの距離にある、静寂に包まれた森の中に佇んでいた。


 古いが手入れの行き届いた石造りの館。

 庭の木々は定規で測ったかのように整然と刈り込まれ、使用人たちは影のように音もなく動いている。

 セドリックが息を切らしてその門を叩いた時、出迎えた老執事は眉一つ動かさず、まるで彼が来ることを数年前から知っていたかのように、うやうやしく頭を垂れた。


「お待ちしておりました、セドリック殿下。当主代行であるお嬢様は、温室にいらっしゃいます」


 案内されたのは、ガラス張りの美しい温室だった。

百合や薔薇が咲き乱れるその中央で、ミーティアは優雅にティーカップを傾けていた。

 あの夜会の日と変わらぬ、陶磁器のような肌、一切の乱れがないプラチナブロンドの髪。

 セドリックの姿を認めると、彼女はゆっくりとカップをソーサーに置き、立ち上がった。


「ごきげんよう、セドリック殿下。このような辺鄙へんぴな場所まで、何か御用でしょうか」


「しらじらしいぞ、ミーティア!」


 セドリックは荒い息を吐きながら、彼女に詰め寄った。

怒りで視界が赤く明滅している。


「私の周囲で起きていることは、全て貴様の仕業だろう! 過去の些細な不始末を掘り返し、あることないこと吹聴し、私を陥れようなどと……!」


「あることないこと?」


 ミーティアが小首を傾げた。

 その瞳は、深海のように静かで、底知れない暗さをたたえているように見える。


「訂正をお願いいたします、殿下。私が提出したのは、全て『あったこと』のみでございます。虚偽など一つもございません」


「だ、だが、あんな数年前のことを……誰も覚えているはずがない!」


「誰も? ……いいえ、殿下。私は覚えております」


 ミーティアの声は囁くように優しかったが、その内容はセドリックの背筋を凍らせるものだった。



「私は全て、覚えておりますわ」



 彼女は一歩、セドリックに歩み寄った。


「七年前の夏の午後、王宮の庭園にて。殿下は私の髪を指ですくい、『まるで枯れ草のようだ』と仰いましたね。その時、風は南東から吹き、気温は高く、殿下は首元のスカーフを少し緩めていらっしゃいました。……その直後、茂みの陰に隠れていた騎士団長の御子息に、賭博の負け分を補填するための裏帳簿を渡されましたわね?」


「な……っ」


 セドリックは言葉を失った。

 そんな昔のこと、言われてみれば微かに記憶にあるような気もするが、細部は霧の中だ。しかしミーティアの語り口は、まるで今その光景を見ているかのように鮮明だった。


 ミーティアは止まらない。


「三年前の建国記念の舞踏会。殿下はダンスの最中に私の足を踏みつけ、謝罪もせずに舌打ちをされました。その足でバルコニーへ向かい、隣国の密偵と思われる商人と接触し、未公開の鉱山開発計画図を手渡しましたね。あの時、商人は左手にルビーの指輪をしており、殿下は極上のワインの香りを漂わせておいででした」


「や、やめろ……」


「半年前、ミランダ様と初めてお会いになった日。王都の裏通りにある宝飾店の前で、殿下は彼女にこう仰いました。『あの陰気な婚約者にはうんざりだ。君のような太陽が私の人生には必要なのだ』と。……その時、殿下が身につけていた外套がいとうの第三ボタンが取れかかっていたことまで、私は鮮明に記憶しております」


 ミーティアの口から紡がれるのは、言葉の暴力ではない。


 ただ純然たる「事実」の羅列。

 だがそれは、どんな罵倒よりも鋭利な刃物となってセドリックの心をえグった。



 彼女は、黙っていたのではなかった。

 見ていないふりをしていたのでもなかった。


 その沈黙の裏側で、彼女の脳内ではセドリックの犯した罪、裏切り、侮辱、失態の全てが記憶され、永久に保管されていたのだ。


「な、なぜだ……。なぜ、そんな……」


 セドリックは後ずさり、温室の入り口近くにあった長椅子に崩れ落ちた。


「なぜ黙っていたんだ!私が過ちを犯したその時に、なぜ怒らなかった!何か言ってくれれば、私も……」


「申し上げましたわ」


 ミーティアは悲しげに、しかし冷徹に告げた。


「私の父も、私も、何度も申し上げました。『殿下、御行いをお慎みください』と。ですが殿下は、それを『小言』と切り捨て、お聞き入れにはなりませんでした。……覚えておいでではないのですか?」


「っ……」


「相手の話を聞かず、己の都合の良いように記憶を改竄かいざんする。それは愚か者のすることです。コルベール家は、そのような不誠実を最も嫌います」


 ミーティアは静かに微笑んだ。

 それは慈愛に満ちた聖母の微笑みではなく、罪人の罪状を読み上げる悪魔のような微笑みだった。


「婚約者であった間、貴方様は私の『保護対象』でございました。ゆえに、この膨大な『負の記録』は、私の胸の内にのみ留め、鍵をかけておりました。それが未来の伴侶たる者の務めだと信じて」


 彼女はゆっくりと、最後の一歩を踏み出し、セドリックを見下ろした。


「ですが、殿下は仰いましたね。『婚約は破棄とする』と。『他人になる』と」


 ミーティアの瞳が、細められる。


「他人になった以上、私が貴方様の罪を隠匿いんとくする義務はございません。私はただ、隠されていた罪を公開しただけにすぎませんの」


 セドリックは悟った。


 彼女の沈黙は、ただ何も話さないだけではなかったのだ。彼女なりの武器であったのだと。


「ご安心くださいませ、セドリック殿下」


 ミーティアは、震えるセドリックの手を取り、優しく囁いた。


「まだ、全体の十分の一も公開しておりませんわ。私の記憶の中には、貴方様が忘れてしまった幼き日の罪から、昨日の失言に至るまで、あと数千件もの記録が眠っております。……これからたっぷりと、時間をかけて精算いたしましょう?」





 美しい悪魔が、そこにいた。



 決して忘れない、とても綺麗で、そして恐ろしい笑顔。




 セドリックの喉から、ひゅ、と音にならない悲鳴が漏れた。




―・―・―




 ミーティアによる「告発」が始まってから、わずか十日。

 第二王子セドリックの地位は、音を立てて崩れ落ちた。提出された証拠はあまりに膨大で、あまりに緻密だった。


 不正の証拠となる裏帳簿の写し、密会の記録、不敬な発言の日時と場所、関わった人物のリスト。


 それらは全て、王家の調査員によって裏付けが取られ、言い逃れのできない事実として確定した。


 国王は激怒し、セドリックの王位継承権を剥奪。

 王族としての籍も抹消し、北の果てにある古塔への幽閉を命じた。


 かつてセドリックをそそのかしたミランダ男爵令嬢もまた、家ごとの取り潰しとなり、修道院へと送られたという。


 セドリックが最後に見たのは、王宮を去る馬車の窓から見えた、ミーティアの姿だった。


 彼女は見送りの列には加わらず、ただ遠くのバルコニーから、無表情でこちらを見つめていた。


 その口元が微かに動き、何かを呟いたように見えたが、その声が届くことはなかった。




 それから、半年が過ぎた。


 コルベール侯爵家の庭園では、今日も穏やかなお茶会が開かれている。

 ミーティアの向かいに座るのは、隣国の公爵家から迎えられた新しい婚約者、アーサーであった。


 彼は誠実で知的な青年であり、何より、ミーティアの「沈黙」を心地よいと感じる穏やかな気質の持ち主だった。


「この紅茶は素晴らしいね。香りがとても豊かだ」


「ありがとうございます、アーサー様。貴方様がお気に召すと思い、東方の茶葉を取り寄せましたの」


 ミーティアが微笑むと、アーサーもまた柔らかく微笑み返す。


そこには、かつてのセドリックとの間にあったような、張り詰めた緊張感はない。


「そういえば、ミーティア。君は本当に記憶力が良いのだね。先日、僕がふと呟いた『子供の頃に読んだ絵本』の話を覚えていてくれて、まさかその本を見つけてプレゼントしてくれるなんて」


 アーサーは嬉しそうに、ミーティアから贈られた古びた絵本を撫でた。


「ええ。……大切な方の言葉ですもの。忘れるはずがございませんわ」


 ミーティアはカップを口に運び、ふわりと目を細めた。

彼女の脳内には、今もセドリックの記憶が鮮明に残っている。



 初めて出会った日の空の青さ。

 彼がくれた、安っぽい宝石の輝き。

 裏切りの瞬間の、歪んだ表情。



 その全てが、色褪せることなく保存されている。

 コルベール家の人間にとって、記憶とは愛そのものだ。



 愛するからこそ、その存在の全てを――良いことも、悪いことも、美しい瞬間も、醜い瞬間も――等しく記録し、永遠に保存する。


 セドリックは塔に幽閉され、世間からは忘れ去られていくことだろう。



 だが、ミーティアの中では、彼は永遠に生き続ける。

彼女が死ぬその瞬間まで、セドリックの罪も愚かさも、決して許されることなく、決して風化することなく、鮮度を保ったまま残り続けるのだ。


 それは、言い表せないほどの重い愛の証であり、同時に、死してなお逃れることのできない、永遠の呪いであった。


「ミーティア? どうしたんだい?」


 ふと黙り込んだミーティアに、アーサーが心配そうに声をかける。


 ミーティアは我に返り、花が咲くような極上の笑みを彼に向けた。


「いいえ、なんでもございませんわ。……ただ、これからはアーサー様の全てを、余すことなく私の中に『刻んで』いけるのだと……そう、嬉しく思っておりましたの」


「ははは、それは光栄だな。僕も君に飽きられないよう、良い思い出をたくさん作らないといけないね」


「ええ、楽しみにしておりますわ。……どんな些細なことでも、決して逃しませんから」



 ミーティアの瞳が、妖しく、美しく輝いた。

 彼女の愛を受けるということは、その人生の全てを彼女の「記録」に捧げるということ。



 もしも彼が裏切れば、その膨大な愛の記録は、瞬く間に断罪のやいばへと変わるだろう。



 だが今はまだ、その牙は隠されたままだ。



 アーサーは幸せそうに紅茶を啜っている。



 自分が既に逃げ場のない、愛の檻の中に踏み入れていることなど、知る由もなく。



 

 庭園には、鳥のさえずりさえ響かない、硝子ガラス細工のような完璧な静寂だけが満ちていた。









ここまでお読みいただきありがとうございました!

ある意味ヤンデレみたいな主人公になってしまいました…(^^;;

記憶って個人差ありますけど、覚えてる人は昔のことでも詳細に覚えてるな〜って思ったのがきっかけで書いてみました!


よろしければ評価してくださると嬉しいです!

よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
 先祖代々のメモ魔で、戦国時代も江戸時代も生き抜き、現代でも政治家を輩出したお家を連想いたしました。そのお家のみならず、詳細な日記を付けることによって生き残った公家のお家も幾つかありますし、記録は大事…
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