第8話 良い人
俺の父は――良い人だ。
多分、いや……誰が見てもそう言うだろう。
朝から城下町の通りを歩けば、領民たちに手を振り、
商人の名前を一人ひとり覚えては声をかける。
農民の肩を叩き、子どもの頭を撫で、
誰にでも同じ笑顔を見せる――そんな人だ。
だからこそ、怖い。
(……油断できない。いつ前世のように、裏切られるか分からない。)
優しい顔の裏で、人は平然と他人を切り捨てる。
“正しさ”の名の下に。
俺はそれを、一度、知っている。
そんなことを考えながら、父と並んで歩いた。
道の両脇では市場の喧騒が続き、果実の匂いと人々の声が混ざり合っている。
太陽の光が石畳を照らし、父の背中に金色の縁を作っていた。
彼は笑顔のまま、領民に手を振り続けている。
だからこそ――軽く、試すように聞いてみた。
「父上。」
「ん?」
父は振り向かない。
だが、声は穏やかで、まるで何も見透かしていないようだった。
手を振りながら、俺の言葉を待っている。
「……もし、俺に魔核がなかったら。
その時、どうしていました?」
ほんの一瞬、父の動きが止まった気がした。
だがそれは、風のせいだったのかもしれない。
次の瞬間、父は変わらぬ調子で言った。
「それでも、俺の息子に変わりはない。」
――即答だった。
間もなく、笑い声が混じる。
「おぉ、いい立派な野菜だな。今年は豊作だ!」
父は農民の籠を覗き込み、明るく笑った。
農民も笑い返す。
「はい、領主様! おかげさまで!」
陽光が眩しくて、父の表情が見えない。
けれど、あの声の響きだけは――
本当に“そう思っている”ように聞こえた。
(……俺の父は、良い奴だ。)
翌朝。
鳥の声が遠くで聞こえていた。
いつもと変わらない朝だった――少なくとも、その時までは。
屋敷の門前に、一台の黒い馬車が停まっていた。
紋章旗には金色の双翼――王都直属の使者だ。
衛兵たちがざわめき、門番が慌てて直立する。
馬車の扉が開くと、青い制服の若い文官が姿を現した。
「アルヴ=デリオン家当主殿、ならびにご子息――王都よりの至急書状をお届けに参りました!」
文官の声は張りつめていて、
朝の穏やかな空気が一瞬で冷たくなった。
父が歩み出て、封書を受け取る。
蝋封には王家の紋章――〈双冠の雷紋〉。
王族からの直命を意味する印だった。
父はゆっくりとそれを開封し、目を通す。
読み終えた瞬間、その表情がわずかに揺れた。
だが、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻る。
「……ふむ。王都から、か。」
そう言って父は封書を折り畳み、デリックの方を見た。
その視線は、どこか探るようでもあり、どこか誇らしげでもあった。
「デリック。」
「はい、父上。」
「王都から、お前に召喚の命が届いた。」
その言葉に、胸の奥が一瞬、熱くなる。
――召喚? 俺が?
父は手元の書状を見下ろしながら、静かに読み上げた。
「デリック・アルヴ=デリオン。
王命により、王城へ召喚する。
至急、準備を整え、王都へ向かうべし。
――〈ヴァル=セレア王宮〉王家印。」
王都。王城。
そして、“召喚”という言葉。
胸の奥が高鳴ると同時に、冷たいものが流れた。
――なぜ、俺に?一個人としての召喚。
それは、ただの儀礼ではない。
「……父上、これはどういう――」
言いかけた瞬間、父は穏やかに笑った。
「心配するな。お前が王に認められたということだ。
ヴァルグレイスとの契約が、王家にも届いたのだろう。」
そう言いながら、父は肩を叩いた。
その掌の温もりが、不思議と重く感じられた。
優しさの裏に――何かを隠しているような。
「……準備をしなさい、デリック。
王城で、運命が動くかもしれん。」
王都〈セレア・グラン〉――。
それはまるで、天と地の境目に築かれた都市だった。
馬車の窓から見える街並みは、石と光でできた迷宮のようだ。
大理石の街路が陽光を反射し、
空を渡る蒼い橋には浮遊船が行き交う。
人々の装束は整然としていて、
すれ違うだけで香油と魔素の匂いが入り混じる。
(これが……王都か。)
デリックは小さく息を吐いた。
胸の奥が高鳴る――畏怖と期待が混ざり合ったような音で。
やがて馬車は城下を抜け、王城の外郭へと入った。
石畳の両側には、銀鎧を纏った衛兵たちが整列している。
槍先に刻まれた紋章は、双冠の雷紋――王家の象徴。
空気がぴんと張り詰め、鼓動の音すら響く気がした。
巨大な城門がゆっくりと開いていく。
白銀の壁面が朝陽を受けて輝き、
門の向こうには、層をなす尖塔群と巨大な光の橋が見えた。
その中心に、天空へ突き刺さるような大聖塔――王城〈セレア・アーク〉がそびえている。
「……すげぇ……。」
思わず漏れた声に、父が小さく笑った。
「なに、王都を見て怯むことはない。お前も召喚士だ。」
その声には、誇りと同時に、どこか試すような響きがあった。
馬車が停まり、扉が開く。
眩しい光が差し込み、柔らかな風が頬を撫でた。
「デリック・アルヴ=デリオン殿ですね。」
出迎えたのは、王家直属の侍従官。
灰色の外套に金糸の徽章、まっすぐに伸びた背筋。
その視線は冷静で、どこか無機質だった。
「王命により、すぐに謁見の間へご案内いたします。」
その一言で、周囲の衛兵たちが一斉に動く。
整然とした足音が響く中、デリックはゆっくりと歩を進めた。
城内は、静寂そのものだった。
外の喧騒が嘘のように、音が吸い込まれていく。
壁には古代の召喚図が刻まれ、
天井には、神々が星を繋ぐ壁画が広がっている。
その中心で、青白い光の柱が天へと伸びていた。
(まるで……“神の座”みたいだな。)
足音が、白い石の廊下に響く。
胸の奥で、ヴァルの鼓動が微かに共鳴した。
――何かが、この城の奥で“呼んでいる”。
侍従官が立ち止まり、扉の前で頭を下げた。
「この先が、謁見の間です。」
高さ十メートルを超える巨大な扉。
黄金の装飾に、古代文字がびっしりと刻まれている。
その文字が淡く光を帯び、ゆっくりと形を変える。
“王の前に立つ者、己が真を示せ”――。
「デリック。」
父が静かに言った。
「この先で、お前の運命が動く。何を見ても、惑わされるな。」
デリックは息を呑み、頷いた。
侍従官の合図で、扉が開かれる。
光が――溢れた。
白金の輝きが視界を包み、
ゆっくりと、玉座の影が浮かび上がる。
そこに座していたのは、
惑星ヴァル=セレアの頂点にして“――ヴァル=セレアの王
そしてその傍らアリス・ヴァル=セレア。
その瞳が、デリックをまっすぐ射抜いた。
――運命が、交わる音がした。




