第4話 格の違い
一歩、深層域へ踏み込むと、音が消えた。
風も枝の擦れも、俺の呼吸さえ遠のく。――代わりに、鼓動だけが近い。
俺のものか、森のものか、判別がつかない。
目が合ってしまった。
こちらを見つめる、蛇型の魔獣――グレオス。
黒鉄の鱗が光を吸い込み、巨大な体躯がとぐろを巻いている。
その瞳は深淵のように冷たく、まるで“この森そのもの”の怒りを宿していた。
自分の領域に侵入されたのか――
それとも、ただ単純に苛立っているのか。
「シャアアアアアアァァァァッ!!!」
鼓膜が破れそうなほどの咆哮だった。
空気が震え、木々が軋み、足元の地面が砕ける。
「ッ……ぐっ!!」
両手で耳を塞ぐが、遅かった。
脳の奥まで響くような衝撃が全身を突き抜け、視界が一瞬、白く飛ぶ。
息が詰まり、膝が勝手に沈む。
(こいつ……ただの蛇じゃない……! 魔力が、桁違いだ!)
グレオスがゆっくりと鎌首をもたげた。
その動きだけで、空気が歪む。
地面に刻まれた紋様が青く光り、周囲の魔力が吸い上げられていくのが見えた。
(……魔導陣!? まさか、こいつが詠唱を……!?)
「シャアアアァァ――!!」
次の瞬間、グレオスの口から光線のような炎が迸った。
それは“火”というより“光”に近い。
瞬時に周囲の木々が溶け、地面が蒸発する。
「雷召喚魔法――《雷切》ッ!!」
デリックの叫びと共に、雷が閃く。
稲妻が蛇の炎を裂き、白と赤の光がぶつかり合った。
――だが。
轟音と共に、デリックの身体が吹き飛んだ。
咄嗟に防御魔法を展開したが、魔力の壁ごと粉砕され、背中が木に叩きつけられる。
「ぐっ……あああッ!」
肺の空気が全部押し出される。
視界が揺れ、血が口の中に滲んだ。
腕が痺れて動かない。
雷の反動で魔核が軋む――出力を誤った。
(やばい……! もう一発撃てば、魔核が焼き切れる……!)
それでも、立ち上がる。
倒れたままでは、森ごと飲まれる。
グレオスがゆっくりと近づいてくる。
その巨体が動くたびに、地面が沈む。
熱と殺気が混じり合い、森の空気が焦げていた。
「……化け物が。」
デリックは震える手で、再び印を結ぶ。
額から血が伝い、掌に落ちた瞬間、魔力が火花を散らした。
だが、その瞬間――体が限界を迎えた。
視界が二重に揺れ、魔力の流れが乱れる。
グレオスの尾が薙ぎ払うのが見えた。
「ッ――!」
避ける間もなく衝撃が走り、体が地面を転がる。
骨が軋み、肺が焼ける。
もう、雷は撃てない。
魔核が悲鳴を上げている。
(……くそ、やっぱ俺は……!)
デリックは咄嗟に身を翻し、森の奥へと走った。
足元がぐらつく。それでも構わず、ただ前へ。
「はぁ……はぁ……くっそ、いつまで追いかけてくるんだよ!」
背後で木々がなぎ倒される音。
振り返ると、グレオスの巨大な頭が木々の間から覗いていた。
逃げても逃げても、その眼光は俺を見失わない。
――気づけば、森の奥へ。
光が届かず、空気が異様に濃い。
周囲の空気が重くなる。
見えない膜の中に閉じ込められたような圧迫感。
肌の表面に静電気が走り、髪がふわりと逆立つ。
(……これは、魔力の圧だ。)
ただの魔獣ではない。
“何か”が、この領域の主として息づいている。
踏みしめた地面から、微かに振動が伝わる。
まるで森の奥底に、巨大な心臓があるかのようだった。
俺は息を呑み、前へ進む。
空気がざわめくたびに、胸の魔核が共鳴して光った。
――呼ばれている。
心の奥で確かにそう感じた。
「……いるな。」
次の瞬間、視界が白に包まれた。
木々の間を雷光が奔り、耳をつんざく音が世界を裂いた。
閃光が収まったとき、森の奥に――“影”が見えた。
それは獣だった。
大地を抉るような爪、鋼のような鱗。
背からは半透明の翼が生え、雷の筋が血管のように走っている。
その姿を見た瞬間、呼吸が止まった。
(ッ! こいつは前世と今世の知識を足しても見たことがない! それに、この圧……1級を超えているだろ!)
雷光が森を照らし、グレオスの姿が一瞬だけ浮かび上がる。
その瞬間――蛇の巨体が、弾け飛んだ。
音すら追いつかない。
雷の閃光が一筋走り、次の瞬間には、グレオスの頭部が地面に叩きつけられていた。
煙と焦げた匂いが広がる。
それでも、理解が追いつかない。
(……何が、起きた?)
森の奥に佇む影が、ゆっくりとこちらを向いた。
その黄金の瞳が、雷のように煌めく。
(まさか……こいつが――)
雷鳴が、再び轟いた。
森全体が一瞬、光に包まれ、世界が震えた。
――その中心に立つのは、神話の獣。
〈雷翼竜ヴァルグレイス〉。
天空の覇者にして、古の雷を統べる存在。
その瞳が、確かに俺を見ていた。
グレオスの巨体が崩れ落ちた瞬間、
森に“静寂”が戻った。
だがそれは、安らぎではない。
圧が違う。
空気が、まるで雷そのものになったように肌を刺す。
視線の先――雷光の中に立つ“それ”。
巨大な翼を広げ、全身に青白い稲妻を纏った獣。
その一呼吸ごとに、空が震え、地が軋む。
(……雷を喰ってる……?)
ヴァルグレイス――その名を知らずとも、分かった。
こいつは、格が違う。
神話でしか語られない“災厄そのもの”だ。
「……やる気かよ……!」
息を吐き、印を結ぶ。
雷が指先で弾け、血管を焼くように体内を駆け巡る。
魔核が応える――怖いくらいに、熱い。
「雷召喚魔法――《雷牙裂衝》ッ!!」
大地が爆ぜる。
雷が奔流となって走り、ヴァルグレイスの足元を貫いた。
光の柱が森を切り裂き、衝撃波で木々が吹き飛ぶ。
しかし、獣は動かない。
その身を包む稲妻が、俺の魔法を“喰った”。
音もなく、雷光が吸い込まれていく。
(な……吸収した!?)
ヴァルグレイスが咆哮を上げる。
空が裂け、嵐が降りてくる。
次の瞬間、天から無数の雷が一斉に落ちた。
世界が白に染まり、音が消える。
瞬き一つで、視界が焼けた。
全方位から襲う雷の奔流――
逃げ場など、どこにもない。
「ぐああああああああッ!!!」
体中を雷が貫く。
皮膚が焼け、骨の奥まで響く痛み。
それでも、立っていた。
デリックは叫び、再び詠唱し魔導書がそれに答える。
雷と雷が衝突し、互いを食い合う。
閃光の中、彼の輪郭が溶けそうに滲む。
「雷召喚魔法――《雷壁陣》!」
地を這うように、魔法陣が展開する。
円環が広がり、雷の盾が周囲を覆う。
落雷がぶつかり、空間がひび割れたような音が鳴った。
「ハァ……ハァ……クソッ……これでも止まんのかよ……!」
ヴァルグレイスが一歩踏み出す。
その動きだけで地面が沈む。
雷の波動が空気を切り裂き、森が燃える。
その目――黄金の双眸が、まっすぐこちらを見ていた。
神のような静けさと、獣のような殺気。
どちらでもあり、どちらでもない。
ただ“圧”がある。存在そのものが、力だ。
(……雷が通じない? なら――!)
「雷じゃだめなら――炎召喚魔法《熱風》!」
地面に手をかざし、魔導書の頁を開く。
淡い紅蓮の紋章が浮かび上がり、空気が唸る。
熱が走り、森の湿気を焼き払った。
風が炎を運び、熱が渦を巻く。
ヴァルグレイスの足元に向けて、熱流が一気に噴き上がる。
「……ッ!」
炎が包み込んだ。
だが、次の瞬間、閃光が爆ぜて炎が霧散する。
雷光が燃焼を上回り、火を食い尽くした。
(効かねぇのかよ……!)
炎と雷、両方に適性がある。
だが俺は知っていた――炎はまだ未熟だ。
雷のように正確には制御できない。
ただ、荒れ狂う熱をぶつけることしかできない。
それでも、やるしかない。
「炎召喚魔法――《業火球》ッ!!!」
詠唱が終わると同時に、掌の前に火球が形成される。
熱風が渦を巻き、赤い球体が空気を焦がしながら膨れ上がった。
雷鳴と重なるように、轟音が森を揺らす。
「喰らえぇぇぇぇ!!!」
火球が射出され、炎の尾を引きながらヴァルグレイスに直撃。
大気が弾け、爆風が森を薙ぎ払う。
衝撃波が木々を折り、火の粉が空を舞った。
一瞬、視界が炎に包まれる。
熱風が頬を焼き、肌が軋む。
――だが。
炎の向こうで、黄金の光が輝いた。
ヴァルグレイスは、炎の中をゆっくりと歩いていた。
焦げ跡ひとつない鱗。
炎も雷も通じない。
あらゆる攻撃が霧のように消えていく。
ヴァルグレイスは微動だにせず、ただこちらを見下ろしていた。
圧倒的な存在差。
神と人間。
その差を、今まざまざと見せつけられている。
息が荒い。
魔力はもう底をつきかけている。
膝が笑い、視界が揺れる。
それでも――
「……こうなったら、無理やりでも魂繋げて契約するしかねぇなぁ。」
笑った。
唇が乾いて血が滲む。
でも、それでも笑えた。
(前世でも……結局、誰にも届かなかった。
なら今度こそ、強引でもいい。世界に刻んでやる――俺の存在を!)
魔導書が開かれる。
そのページは――召喚獣契約。




