第1話 死して呼ばれる者
皇帝歴2857年――神の血を継ぐ家に、神に拒まれた子が生まれた。
「――なぜ魔核がない!」
怒声が、礼拝堂の石壁に反響した。
揺れる燭火の下で、当主が立ち尽くす。
その腕には、まだ血の温もりを残す新生児が抱かれていた。
その名を――デリック・アルヴ=デリオン。
古き貴族の血を継ぐ、はずの子。
その日、アルヴ家の屋敷は祝福ではなく沈黙に包まれていた。
召喚士の家に生まれた者は、生まれながらに魔核――
“神の呼び声を宿す核”を持つとされている。
だが、その子には何もなかった。
光も、音も、反応すらも。
「この子は……神に拒まれたのだ」
誰かの呟きで、空気が凍りつく。
母はただ腕の中の赤子を見つめていた。
その瞳には恐れも、涙もなかった。
ただ、静かに唇を動かす。
「……それでも、この子は生きている。」
その声は小さく、しかし確かに響いた。
当主は顔を背けた。
「アルヴ家の血に欠陥があるなど、ありえん……!」
燭台が倒れ、影が壁を這う。
その光の揺らぎの中、赤子の瞳がかすかに開いた。
母はその瞳を見て、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
――まるで、この子がいつか世界に呼ばれることを知っているように。
⸻
その日から、デリックは隠すように生かされた。
屋敷の奥、陽の差さぬ離れ。
母の腕から引き離され、乳母とわずかな側仕えだけが世話をした。
「当主の恥を表に出すな」――それが、アルヴ家の掟。
廊下を通れば、女中たちは目を逸らす。
兄たちは笑いながら囁く。
「あれが、魔核を持たない子だ。」
幼いデリックには意味が分からなかった。
けれど、胸の奥の冷たさだけは知っていた。
自分は“いてはいけない存在”なのだと。
――それでも、彼は見ていた。
兄たちが訓練場で炎を呼び、水を操り、
宙に魔法陣を描く姿を、遠くの影から。
召喚士の家に生まれたはずなのに、自分だけが何もできない。
だから彼は、真似をした。
離れの床に木炭で魔法陣を描き、
古い羊皮紙の切れ端を継ぎ合わせ、独自の「魔導書」を作った。
兄の詠唱を耳で覚え、夜な夜な呟いた。
「――出でよ、光よ……俺の中の声に応えろ……」
だが、何も起きない。
空気が揺れることも、火が灯ることもなかった。
本来、召喚士の魔導書は魔核の覚醒と同時に現れる。
魔核がその人間の“呼び声”を記録し、
世界と繋がるための文字を形にするのだ。
魔核のないデリックには、その「最初の頁」すら存在しない。
それでも、彼は諦めなかった。
昼は読み書きを学び、夜は魔術式を模写した。
兄たちの書き捨てた紙切れを拾い、意味を一文字ずつ紐解いた。
時に、血で魔法陣を描いた。
声が出なくなるまで詠唱を繰り返した。
誰も褒めない努力。
誰も見ない孤独。
――だから、恨んだ。
家を。
血を。
この“貴族”という名の檻を。
⸻
皇帝歴2867年。
デリックが十歳になったその日、
兄に呼び出され、久しぶりに屋敷の外へ出た。
石畳の匂いも、風の感触も、何年ぶりだっただろう。
屋敷の裏庭――兄弟がかつて剣を振るって遊んだ場所。
今のデリックにとっては、異国のように遠い場所だった。
「アルトルート兄様……何用ですか?」
兄、アルトルート・アルヴ=デリオン。
デリックより三つ年上、家の誇りと呼ばれる少年。
彼の背には、淡く光を放つ魔導書が浮かんでいた。
「よぉ、デリック。久しいな」
笑顔を浮かべながらも、その目は冷たい。
「中等部で“面白い術”を学んでな。
お前で試してみたいと思ってな。」
その言葉を理解する前に、兄の手のひらから炎の紋章が走った。
「――炎をよ!」
魔導書が赤く煌めき、空気が裂ける。
次の瞬間、地面が爆ぜ、炎の波がデリックを呑み込んだ。
「――熱っ、熱いッ!!!」
肌が焼ける音がした。
息が吸えない。
視界が真っ赤に滲み、悲鳴が喉の奥で弾けた。
アルトルートは腕を組み、つまらなそうに呟く。
「魔核を持たないと、こんなものも消せないのか。
まあ、燃え方は上等だな。流石は首席の魔術だ。」
炎が肌を焼くたびに、空気が鳴いた。
まるで世界そのものが、この行いを拒んでいるように。
――それでも、生きたかった。
焼ける痛みの中、デリックは天を仰ぎ、掠れた声で呟いた。
「……神なんていらない。俺は、ただ生きたかっただけだ……」
その言葉は、風にかき消された。
⸻
それから一年も経たない冬だった。
雪は例年より早く、深く降り積もった。
風が屋敷を裂くように吹き抜け、
凍えた空気の中、離れの小窓には小さな灯りがひとつだけ揺れていた。
デリック・アルヴ=デリオン。
十歳の冬、彼は静かに命の灯を落とした。
あの日の火傷は、結局消えることはなかった。
肌を焼いた炎の痕は黒く残り、
それはまるで、彼の存在が「この世界に拒まれた証」のようだった。
病は、体よりも心を蝕んでいた。
誰も寄り添わず、誰も名を呼ばない。
ただ風だけが、彼の部屋を訪れた。
「……寒いな……」
最後に口にしたその言葉は、吐息とともに白く空に溶けた。
その瞬間――風が応えた。
『……まだ、終わりではない……』
灯りがふっと消え、静寂が訪れる。
けれど、彼の胸の奥では確かに何かが目覚めていた。
雪の降る夜、屋敷の上空で光が一筋、天へと昇った。
その光は、誰にも見えなかった。
――ただ、この星〈ヴァル=セレア〉だけが彼を覚えていた。
⸻
そこには、何もなかった。
光も影もなく、上下も左右もない。
ただ、真っ白な空間だけが広がっていた。
足元はなく、空もない。
それでも、自分が“存在している”ことだけは分かった。
「――お前は、選ばれた。」
誰もいないはずの空間に、響くはずのない声。
けれど、その声は確かに“内側”から聞こえていた。
(選ばれた……? 何の話だ?)
「お前は、この星を救うために選ばれたのだ。」
救う――?
あまりにも唐突で、意味が掴めない。
死んだはずの自分に、誰かが使命を告げている。
(救う? 誰を? 俺に何ができるって言うんだ……)
「いずれ分かる。
今は――生と死のあわいにある者よ、選べ。」
空間がかすかに震えた。
目の前に光が生まれ、形を持ち始める。
それは、燃え尽きたはずの“自分の体”だった。
「もう一度、同じ生を歩め。
今度は……平穏な時の中で。」
声は優しかった。
だがその奥に、計り知れない悲しみがあった。
デリックは小さく息を呑んだ。
目の前の光が彼を包み、無の世界が静かに崩れ落ちていく。
(……もう一度、生きられるのか……)
その思いを最後に、意識は白の中へ溶けた。
――そして、星が再びその名を呼んだ。
皇帝歴2967年。
百年の時を経て、
星は再びその名を呼ぶ。
――召喚士デリック、帰還す。
その瞬間、夜空の彼方で一筋の光が弾け、
惑星〈ヴァル=セレア〉は静かに、しかし確かに“息を吹き返した”。




