1/1
第一話
尾張の空は、いつも風に騒いでいた。
戦の煙、血の匂い、そして家督を巡る陰影が、城下を覆っていた。
織田信勝。
兄、信長と同じ土田御前を母に持ちながら、彼は全く異なる光を宿して生まれ落ちた。兄が奇矯なうつけと呼ばれ、人心を惑わせたのに対し、弟は端整で落ち着き、古き織田の家臣たちの心に、しとやかな安堵を与えた。
父・信秀がまだ剛腕を誇っていた頃、信勝はただの少年に過ぎなかった。だが父の影が病に削られていくにつれ、家中の視線は変わった。この若木こそ織田を継ぐべきだ、と。
母もまた、ひそやかにその念を抱いていた。彼女の眼差しは、しばしば信長を素通りし、信勝にだけ注がれた。
父、信秀がこの世を去った時、信勝はまだ16に過ぎなかった。兄は18。
兄が家督を継ぐのは当然のことだったが、尾張の地に渦巻く囁きは別であった。うつけの兄より、賢き弟を‥。
「信勝!ABC分かる?!ABC!」
「はぁ‥?」
「COMEと書いてコメ!ガハハ!」
「兄さん‥名前のスペルNOBUNAGAじゃなくてNOOBUNAGAになってるよ。」
「スペルってなんだ‥?」
「ハァ‥?」
兄を仰ぐべきか、兄を討つべきか。
家臣たちは揺れ、母は涙を隠し、少年はただ夜空を見上げた。
胸の奥に燃えるもの、それが野望か、それともただの宿命か。
まだ誰も知らなかった。




