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夜櫻奇譚

作者: もり はじめ

夜櫻とその幹には、俺が生きていくうえで欠かせない因縁がまといついている。 

 もう七、八年昔にさかのぼる。建築内装の仕事で糊口をしのいでいた。年度末やけに仕事がたてこみ、疲れがたまった。柄にもなく櫻の花が見たくなり旅に出た。

奥入瀬渓谷の近くわずかながら染井吉野があでやかに咲きほこる林があった。ライトアップされているわけでもなく、美しさは下弦の月明かりを背におぼろに滲んでいた。G-SHOCKが〝チチ〟と午後九時を告げた。

あわい臙脂色のスプリングコートをはおった女が櫻の樹の前に立ち、掌を幹にあて、じっと動かない

(こんな時間に、女がひとりというのも妙だ)訝しく思いながらも見つづけた。

 女の横顔の額から鼻梁にかけての流れるようなラインが、、視線をくぎ付けにした。鼓一括変更動がみだれた。古い寺の崩れかけた石段で足を踏み外した気がした。足首をくじいたという錯覚。けれど、左右の視力バランスがずれているのも事実だった。

気づくと女に近づき尋ねていた。

「失礼だが、いったい何をされているのですか」

「へっ?」咽喉を下手な口笛みたいに鳴らし振り向いた。

俺は息をのんだ。確かに見たわけではなかったが、一重まぶたの彼女は眼を開いていなかった。或いはほんの薄く開いていたにすぎない。瞑ったまま、こちらを見た。いや、視線は閉じられていた、と思う。

眼の不自由な女だと分かってみると、俺は急に憶病になった。さりげないひと言が心を傷つけるのを恐れた。

「わたしは東北でイタコと呼ばれる〝口寄せ〟を行なう巫女でした」(<注>〝口寄せ〟とは、死者の霊を招き寄せ、その言葉を伝えること。それを行なう人、とくに盲目の女性をいう)

彼女は俺を恐れることなく、石原澄江と名のリ、個人情報に準ずる内容を躊躇なく話した。おかげで俺の悪いクセが出てきた。調子にのってさらに女のプライバシーに立ち入っていった。

「で、あなたは櫻の樹の幹を手のひらで触れ、触感を形態に昇華させてイラストに描いてるのですね。凄いですねぇ!」感じた通りを言葉にした。

澄江は頬をあからめ、羞恥のしなを作った。

「とんでもありませんわ。わたしはスケツチをすると言いましても具体的に絵を描くわけではなく、目が見えない分、鋭敏に感じる光の綾のようなカタチを、頭のなかにイメージするのでございます」

きっぱりと自信さえのぞかせる物言いに、俺の心は強くなびいた。澄江も緊張をほどき、俺を受け入れはじめたように思えた。

彼女が眼を患い、失明に近く視力を弱めたのは二十六歳の春だというから、時はそれほど経っていない。それまでは現代を生きる普通の女性として育ち、東京六大学の文学部で陰陽師を専攻したらしい。

二、三分喋ったろうか、唐突に声音が蚊の泣くように弱く低くなった。

「分かるの。あなたは私と同じ身体の苦しみをもっています。においでわかる。だから、話せる。私の視力は風前のともしびです。正直、ほとんど見えない。かつて安倍晴明に夢中になったのも、生きていくことの苦しみからトータルに≪今生きている私≫を救済してくれる、神のような存在として晴明をまるごと掴まえたかったからなの」

俺は彼女の強張った口もとから発せられる言の葉が恰も平安朝の悪鬼うごめく『物の怪世界』の妖怪のように感じられてきて、身震いした。股関節から大腿骨にかけて、この今いる場所から逃げ出したくて、もう我慢の限界だった。意識したわけではなかった。已むに已まれず、月夜にあやしさを増す夜櫻の樹皮をたなごころで擦る女。、その柔な皮膚のうえからそぉっと男のごつい手の平を蔽いかぶせるように置いた。

ぬめっ……。

はっきりとした感触が指の腹から肘、肩へぬけ、臓腑にまで拡散した。つづいて、 

くねぬるり くねぬるり

と、おぞましい感触が皮膚の下を這いずってくる。脇腹から咽喉もとへ怪しく昇ってくる。

「ああ、もうダメだ。極限状態だ。澄江さん、何とかしてくださいよぉ」

 俺は身体をよじった。怖いもの見たさというのだろうか。上半身を右にねじりながら、自分の左の手の甲を見た。

「心配いらないわよ」

 澄江が首に皺をよせ、ぽってりとした唇をゆがめ、顎をこころもち天空へ向けて言った。声につられて櫻を迎ぎみた。まるで女ざかりの艶っぽい仕種を連想させる櫻の枝ぶりがゆったりと揺れ、下弦の月に雲がかかった。雲が月を連れ去ろうとした刹那、櫻の花々が表情を変えた。桜色があざやかさを増し、花びらの一枚一枚が大ぶりになった。群青色の夜空に、淡いピンクの後光がさし、めまいを覚えた。

 どうやら澄江は、先ほどから呪文のようなものを唱えているようだった。

「蚯蚓よ、ミミズよ、地竜となって、櫻を美しくしたもうれ」

 三百三十回呪文を唱え終わると、彼女は脱力したようにその場にへたりんだ。そして短歌を詠んだ。


目をこらすと、五十匹は下らないだろう蚯蚓が、櫻の木の根元にクネクネとたむろしているではないか。


「何なんだ、この蚯蚓は!」吐きすてるように言った。


「ここの夜櫻がとりわけ美しいのは蚯蚓のおかげ。安倍晴明から平賀源内へと受けつがれた本草学、薬草や生薬。蚯蚓=ミミズは「地竜ジリュウ」という生薬名、漢方薬として解熱や鎮痛、滋養強壮などに活用されてきました。江戸時代はソメイヨシノを各地に移植する際に使われました。蚯蚓は目がありません。なのに光を感知してパワフルに生きます。私は失明したのち、より一層、蚯蚓に親近感を持ちました」


 澄江は蚯蚓たちとテレパシーのようなもので交信。。惚けたように疲労困憊の態で「ブランデーが飲みたい」....高くというのでから、その夜ホテルのルームサービスで、ふたりして一瓶を開けてしまった。酔った彼女は短を詠んだ

地竜の 魔法夜櫻 満開に 魂うかれ 光と遊ぶ

自分をはじめ世の中には心や体に傷をもった人がたくさんいる。そんな人たちに夜櫻が少しでも慰めや癒しを与えられれば幸いだと、澄江は思っていたに違いない。

づつ

ブランデーを飲りながら俺は、いつの間にか眠ってしまった。だいぶ陽が高くなり、眩しさに耐えられず目醒めると、女の婆はどこにもなかった。洗面所で歯を磨きながら考えた。先日の月夜の出来事は、夢、または幻であったのだろうか。いや、そんなことはない。俺の網膜に映った蚯蚓は、腕の皮膚を這いずり、肌の内側をくねりまわったミミズであり、どいつもこいつも、生きて土中にあることの確かな瓜あとをこの世界に深く刻みこんでいた。


三日後、久しぶりに出社した。午後八時過ぎ現場から戻ると、新入社員だと女を紹介された。


「石原澄江です。よろしくお願いいたします」


 彼女の二重の瞳はしっかり見開いていた。少し赤味を帯びているように思えたけれど。同姓同名だが先日の女とはまるで別人であるはずなのに、新しい澄江は俺の左眼をじっと見つめた。

 一瞬、胸を鷲掴みされたかのような苦痛に思わず胸に手をやった。実際、俺の左目はかつて仕事中に強打し、破損し、義眼なのであったから。 <了>




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