08 変わったあの人
――アシェルに相談しなくては。
絶望に打ちひしがれつつ、ブリアナがまず考えたのはそんなことだった。だが、すぐに思い直す。
(優しい彼のこと。わたしが彼の子を妊娠したといえば、きっと迎え入れてくれるでしょう。でも……王女殿下は? 彼と言葉を交わしたというだけで、伯爵家のご令嬢に暴力を振るう人だわ。そんな人が、このことを知ったら……)
下位貴族の女ひとり、どうにでもなるだろう。
それをするだけの権力を、王女は持っているのだ。
このとき、ブリアナは、媚薬事件の犯人が王女であるだろうことに薄々気がついていた。しかし、アシェルたちが捜査をしているということを知らなかったので、闇に葬り去られるのではないかと感じていたのだ。
(どうしよう……)
悩んだ期間は、ほんの一日、二日だった。
事が父親に露見したためである。
異母妹の仕業だった。
幼くして母親を喪い、悲嘆に暮れるブリアナをより追い詰めたのは、父親の愛人だったらしい女性とその子を、義母と異母妹として子爵家の邸に迎え入れなくてはならなかったことだ。
そんなふうに、家族に放置されていたブリアナが、ひとりで町に下りるのは難しいことではなかったが、その日、町医者のもとへ急ぐ異母姉の挙動に違和感を覚えた異母妹は、わざわざメイドに命じてそのあとを追わせたのだという。
無論、それだけで妊娠の事実に辿り着いたわけではない。
気にしなかったというだけで、いつぞやに異母姉がした朝帰り。学園で恋仲と噂される侯爵令息の存在。異母姉が訪れた町医者。
――女の勘はよく働いた。
妊娠だ。
子を孕んだのに違いない。
そう確信して父子爵に告げれば、父親は激怒してブリアナを呼び出した。厳しい追及を受け、ブリアナはすべてを白状せざるを得なかった。というより、その可能性が父親の頭に浮かんでいる時点で、隠す術はないと諦めたのだった。
父親は憤懣やるかたない様子で、ブリアナに子爵家からの除籍を言い渡した。
父子爵が娘に婚約者を定めてこなかったのも、自由恋愛を認めてきたのも、すべては相手が侯爵令息だったからである。
つまり、政治権力の中枢にいる侯爵家とのつながりができるのを期待していたのだ。
だが、ブリアナの妊娠によって、すべては無に帰した。
相手は侯爵令息だと見当は付いたが――だとしたら、娘は捨てられたのである。
父子爵はそう確信した。
貴族令嬢を寝所に引きずり込んでおきながら、求婚はしない。それはほとんどの場合、一時の遊びであったことを意味する。
貴族令嬢の結婚において、昔ほど純潔性が重んじられることはないが、妊娠となるとまた話が別である。
妊娠してしまえば、その相手の家に嫁ぐほかなく、しかしその可能性もないのだとなると、貴族令嬢としての未来は閉ざされたも同然だった。ブリアナの父親としては、もとより愛人にでも収まってくれるのが一番だったが、もはやそれも無理だろう。
貴族で愛人のいる男は珍しくもないが、すでに愛人との間に子を儲けている男に嫁ぎたいと思う貴族令嬢はいない。よほどの事情があればまったくあり得ないことではないが、父子爵は、とにかく感情に任せて邪魔者を追い出したかった。
――家の役に立たないということは、単なる穀潰しである以上に、貴族として致命的な醜聞を呼び込むであろう厄介者でしかない。
ブリアナはひとり、誰に見送られることもなく家を出た。
唯一持ち出せたものといえば、普段、こっそり外出する際に着用していた、町娘らしい質素なワンピース一着のみである。
貴族令嬢が着の身着のまま放逐されれば、半日と経たず危険な目に遭うのは想像に難くないので、これだけは死守したのだ。
「まあ、お前に与えたものなど持ち出させるつもりはなかったが……宝石でもドレスでもなく、なんの足しにもならないそんなボロ布を欲するとはな」
父子爵はそう言って嗤った。
(宝石なんてあっても邪魔なだけだわ……こんな小娘が換金しようとしたって、盗品だと疑われておしまい。それに、ドレスだって無防備に持ち歩いていたら、どうぞ襲ってくださいと言わんばかりじゃない……)
ブリアナはぼんやりとそんなことを考えながら、ただひたすらに歩いた。
どれほどの時間が経ったかわからない。
気付けばキュヴィリエ侯爵の邸の前にいた。
無意識とは恐ろしい。
しかし、残された時間がない今、もはやアシェルを頼るしか方法はなかった。王女がどうだとか、少し前に危惧していたはずの事柄など、気にする余裕などあるはずもなく。
――訪れたその先で、王女本人と鉢合わせし、よもやほとんど追い返される形で国を出ることになるとは思いもしなかったのだ。
「伯爵さま、どうかお気になさらないでください」
堰を切ったように謝り続けるアシェルを前に、ブリアナは小さく笑った。――もう終わったことだ。再会したからといって、どうなるものでもない。
赦しを与えたかのように聞こえるブリアナの言葉だったが、アシェルはその意味を正確に理解していた。
拒絶されたのだ。
これ以上、自分たちに関わってくれるなと。
「わたしたちはもう――」
「あの日、全部終わるはずだった」
アシェルは思わずブリアナの言葉を遮った。
決定的な一言を聞きたくなかった。
驚いたブリアナが口を噤んだのをいいことに、続けて言葉を重ねる。
「あの日……君が僕を訪ねてくれた日、王女がしでかしたことの証拠を挙げて、責任を追及するつもりだったんだ」
なんて言い訳がましいのだろう。
あの王女の話などブリアナが聞きたいわけもないのに、唇が意思を持ったかのようにペラペラと動いた。
(……酷いな、こりゃ)
自分自身に失望しながら、アシェルは掠れた声で話す。
口の中のねばついた感覚に、どうやら自分は思いのほか緊張しているらしいと自嘲した。
「信じてもらえないだろうけど、すべてが終わったら君を迎えに行くつもりだった。ほとんど準備は整っていて……君を伯爵家の養女に迎えてもらって、それで王女がいなければ――」
「ちょ、ちょっとお待ちください」
ブリアナは混乱したように、アシェルを止めた。いや、実際のところ、混乱しているのはアシェルのほうだった。
普段、一言一句を考えながら慎重に言葉を紡ぐアシェルらしくなく、すっかり支離滅裂になっている。
「……王女殿下は、あなたのもとに降嫁されたのでは?」
本当は避けたい話題だったが、王女や侯爵家の意向などは確認しておいたほうがいいかもしれない。
ブリアナの冷静な切り返しに、アシェルは一瞬唖然としたあと「違う!」と声を荒げた。しかし、すぐにはっとしてシャーロットに視線を向ける。
深い寝息が聞こえてくる。
目を覚ます気配はなかった。
アシェルは息を吐き、再びブリアナに向き直った。翡翠色の瞳が、物憂げに翳っている。
「僕たちの国ではすでに知られていることだけれど、王女はもうすぐ国を出されることになっている。南のほうにある砂漠の国の国王のもとへ向かうために」
「砂漠の……」
貴族令嬢だったころに培った知識を頭の隅から引っ張り出して、ブリアナは小首を傾いだ。
「あの国の国王と言えば、好色な人物として有名だったような気が……? ああ、わたしが国を出たあとに代替わりしたんですね」
「いいや、していないよ。君が思う国王のままだ」
「……え?」
「王女は彼の方の正妃でもなく、側妃でもなく、公妾としてハレムに入る予定になっている。まあ、流石に王女をハレムに送り出したというのは外聞が悪いから、我が国ではあえて『王女が嫁ぐ』と言っているけれど」
ブリアナは言葉を失った。
――あの娘を溺愛していた国王がそれを許したと?
にわかには信じられないことだ。
だが、アシェルが不必要な嘘を吐くとは思えない。きっと本当のことなのだろう。
一国の王女が正式な妃でなく、愛人という身分で引き渡されるのだ。これが事実なら、かなり異例の事態ではないだろうか。
公妾もある程度の権力を持つ存在ではあるが、彼の国王が没したあとのことは保障されない。さらに、子を儲けたとしても、その子に王位継承権が与えられることはないのだ。
「それは……」
思わず気の毒そうな顔をしたブリアナに、「同情する必要はないよ」とアシェルは告げた。
穏やかながらも突き放すような言い草に、ブリアナは目を瞠った。――誰に対しても平等に優しかった彼らしくないと。
「王女はそれだけのことをした。あのとき――君は思い出すのも嫌だろうけど……君に媚薬を盛ったのは、王女だった」
言いながら、アシェルは視線を彷徨わせた。ブリアナと向き合うには避けて通れない話題であるが、またその心を酷く傷付けてしまうのではないかと思ったからだ。
だが、ブリアナは動揺ひとつせず、ただ「そうですか」と頷くのみだった。
「……もしかして、知っていた?」
「知っていたというか、当時からそうではないかと思っていました。あの状態で、わたしが傷物になって利するところがあるのは、王女殿下だけでしたから」
「そう、か……そうだよね」
独り言を呟くときのようにぼそりと言って、アシェルは話を続けた。
「当然のことだけど、今までのことは僕が全部悪い。そのうえで、あのころ何が起こったのか説明させてほしい。許してもらえるだろうか」
忠実な僕が懇願するように訊ねられて、ブリアナは息を呑んだ。
ここで改めて拒絶すれば、アシェルは二度とこの話題に触れようとはしないだろう。もう二度と会いたくないのだと撥ねつけることもできる。
(……でも、それでいいの?)
ブリアナは揺れていた。
相手がかつての恋人だからではない。一時の遊びだと思っていたものが、そうでなかったのかもしれないと感じたからでもない。
――シャーロットのために。
将来、父親はどんな人なのかと訊ねられたら、今のブリアナにはうまく答える自信がなかった。
恋仲になった当初は理解し合えていると思っていた人なのに、あのころになるともう、どんな人なのかわからなくなっていたのだから。
彼が何を考え、何を基準に、どんな行動をしていたのか。
それを明らかにすることが、シャーロットと幸せになる第一歩なのではないかと思えたのだ。
「……わかりました」
ブリアナは慎重に頷いた。
「ですが、今日はもう遅いですし、また後日にしませんか」
もう夜も更けている。
話が長引いてシャーロットが起きても困るし、仕事があるのはお互い様だろう。
ブリアナの提案に、アシェルは喜色を露わにして「明日! 明日また来る!」と宣言した。
そして、その勢いに呆然とするブリアナに別れを告げると、颯爽と帰って行ったのだった。
(……こんな人だったかしら? あの人……)
もしや別人に成り代わっているのでは。
そんな非現実的な疑問を、ブリアナの心に残して。