05 魔力の香り
ほとんど壊れかけと言っていいような、おんぼろの家だ。隙間風は酷く、薪を購入する金すらない。
侯爵令息であり、現在は第二王子に侍っているらしい伯爵に見せるには、あまりにみすぼらしい生活空間である。
昔とは、何もかもが違う。
「伯爵さま、ありがとうございました」
腕の中で揺られるのが心地良かったのか、シャーロットはいつの間にか眠ってしまっていた。受け取ろうとすると「中まで運ぶよ」とやんわり拒否される。
――ありがた迷惑だわ!
そう叫びたい気持ちになったが、ブリアナはやはり堪えるしかなかった。
シャーロットは賢く、もうすぐ五歳で、彼のことを父親だとすでに認識している。そんな娘の前で、むやみやたらと言い争いをしたくはなかった。
母親の心を慮って言葉にはしないが、幼い子どもらしく、シャーロットにも父親という存在への憧れがあることを知っていたからだ。
「……君はずっとここに?」
硬いベッドにシャーロットを寝かせたあと、その縁に浅く腰かけたまま、アシェルは気遣わしげに訊ねた。
歩くとわずかに軋む床に、決して寝心地が良いとは言えないだろうベッド。狭い部屋の中央には、ほとんど壊れかけのようなテーブルが置かれているのみだ。普通に置くと不安定に傾くのか、四本あるうちの一本の脚を支えるように、黄ばんだ布が敷かれていた。
聞かずとも、苦しい生活をしているのがわかる。
「ええ。シャーロットがまだ乳飲み子のころに、こちらに参りました」
「……それまではどこに?」
今の自分が何を言っても、もはや嫌味や皮肉のように聞こえてしまうだろうとわかっていたので、アシェルはこの際開き直って、知りたいことをすべて、いや、無理のない程度に聞くことにした。
話すことに抵抗はないらしく、けれども言葉を慎重に選ぶように、ブリアナは口を開く。
「北の街に」
「出産もそこで?」
「……いいえ」
「じゃあ、どこで……いや、それで、シャーロットを連れて王都に?」
出産の話になった途端、ブリアナの表情が微かに曇ったのを察し、アシェルは慌てて話を飛ばした。
「外交に携わる伯爵さまならご存知のことと思いますけれど、文化的に、この国には排他的な人たちが多いでしょう。地方に行くほど、それは顕著な傾向にあります。わたしのような外国人は、なかなか受け入れてもらえなくて」
「……それで、髪の毛と目の色を?」
ブリアナは小さく息を呑み、そして瞳の中に諦観の色を浮かべて首肯した。彼と第二王子がこの国に来ているということは、とそう考えて。
「ニコラさまもいらっしゃっているんですね」
ニコラ・エンドマン。学生のころからその才能を遺憾なく発揮してきた、稀代の魔術師だ。王家に認められた第二王子の友人といえば、アシェル・ジェランとニコラ・エンドマン。この二人のことだった。
確信めいたその問いに、アシェルは「ああ」と頷く。
「あいつが言っていた。僕から強い魔力の香りがすると。……魔力で色を変えているんだね」
ブリアナ同様、アシェルもほとんど確信しているらしかった。
――逃げられない。
ブリアナは観念して、点頭した。
「覚醒したのは、いつ?」
「……まだ実母が生きていたころです」
「そんな昔に……誰にも気付かれなかった?」
「魔力が顕現したときは、周りに人がいない状況だったので……」
「でも、隠し通すのは大変だっただろう?」
「……伯爵さま、これは尋問かなにかでしょうか?」
視線を伏せたブリアナに早口で問いかけられ、アシェルははっとした。
「あ、いや、違う。そうか、あの、ごめん」
取り繕うように否定するアシェルに、ブリアナは苦笑した。――それと同時に、安心してもいた。
もし万が一にでも再会することがあったら、自分はどうなってしまうのだろうと考えたこともあったが、想像していたよりもはるかに冷静な自分がいる。
子どもがいたことすら知らなかったと言っていたし、現段階では娘の連れ去りを考えているふうでもない。
魔力保持者だと知られた以上、下手な考えは起こさないだろう。丸腰の状態で、普通の人間と魔力保持者が争うのは不利なのは言うまでもなく、ニコラのような魔術師が出てくればブリアナなどひとたまりもないだろうが、一般的に、外国での魔術行使は禁止されている。
なので、ニコラのように国の遣いとして他国を訪れる魔術師は、緊急時を除き、私事に魔術を使わないようにと書面にて契約を結ばされるらしい。
そう考えると、魔力保持者であるとアシェルに気付かれたのは、良かったのではとさえ思える。
少なくとも、強引に娘を連れ去るような真似はしないだろう。
「僕はただ、今のブリアナのことが知りたくて……苦労をかけた分、贖罪もしたいと」
「必要ありませんよ、伯爵さま。この子にこそ苦労をさせてしまうかもしれませんが、わたしがしっかり愛情を注いで、育てていきますから」
穏やかに寝息を立てる我が子を見つめる視線。恋人だったころは、もう少しで成人を迎えるとはいえあどけなさの残る雰囲気であったのに、すっかり母親の顔つきになっていた。
「ごめん……」
アシェルがくしゃりと顔を歪める。
口を衝いて、言葉が溢れ出した。
「ごめん……っ」
――しなくていい苦労をさせた。
自分がしっかりしていれば。
「探していた」などと、どの口がそんなことを言えたのか。
昨日、王宮に戻るなり、ブリアナを見つけたと知って喜んでくれる第二王子たちへの挨拶もそこそこに、アシェルは自身に宛がわれた部屋に籠った。
ブリアナが姿を消してから、彼女と過ごした日々を思い出さない日はなかった。ずっと探していたというのも事実である。精神的負担と過労で倒れたことも、一度や二度ではない。
だが、休みなく動いていないと不安でどうにかなりそうだったのだ。
問題を起こした貴族令嬢が、修道院や領地に送られることはあっても、着の身着のまま放り出されることはほとんどない。
あったとしたら、それは家族に死を願われるほどのことをしたときだけだ。貴族令嬢がドレスのまま外を歩いていたらどうなるかなど、わかりきっていることなのだから。
そんな目に遭わせた元凶は自分だと、アシェルは絶望した。