02 かつて貴族令嬢だった『わたし』
「ブリアナ……」
「伯爵さま、どうか――」
何も言わず去ってくれ、と言外に言い含めたのに気がついたのだろう。
この国と隣接している祖国からやって来た青年は、じっとブリアナの疲れ切った顔を見下ろした。同時に、ジュリアがわずかに身じろぎをする。
貴族は貴族でも、上位貴族であったことに恐怖を感じたのかもしれなかった。
「ブリアナ、この女性は?」
ややあって、再度口を開いた青年は慎重にまったく関係のないことを訊ねる。
「……この国に来て、なにかとお世話になりました。彼女になにか……?」
ブリアナの不在時に彼らは顔を合わせているらしい。青年の目的が彼女でないことぐらいは、ブリアナにもわかっていた。
だから、あえて訊いたのだ。
「いや、彼女に用はない。申し訳ないが、ブリアナを借りてもいいだろうか」
ジュリアをいち早く解放するために。
「……ブリアナ――」
「ジュリアさん、ありがとう。わたしは大丈夫だから、家にいて」
「でも……」
「明日の朝にでも、また顔を出すわ」
ジュリアが勤める酒場の常連には富裕層の人間もいるが、流石に貴族と関わることはない。
酷く緊張した面持ちのジュリアの瞳には、ブリアナを心の底から心配しているような、けれど一刻も早くこの場から立ち去りたいというような、複雑そうな色が浮かんでいた。ブリアナは、安心させるように微笑んだ。
きっと、その笑みはなんともぎこちないものだっただろうけれど。
「……明日よ、ブリアナ。必ず」
「ええ、もちろん」
重たい腰を持ち上げるようにして立ち上がったジュリアは、何度も振り返りながら、自宅方面へと歩いていった。
そして、角を曲がった彼女の姿が見えなくなってすぐ。ブリアナは、覚悟を決めて目の前に立ち竦む青年を見上げた。
(貴族と一般庶民……昔はほとんど意識したことがなかったけれど、それはわたしが大きく見るとこの人側だったからなんだわ)
そう、かつてのブリアナは貴族だった。
もっとも、ただ末席を汚しているだけの子爵令嬢でしかなかったのだが。
「――ピエラ伯爵さまにご挨拶申し上げます」
本来、明確に許可がない限り、平民から貴族に声を掛けることは許されることではない。
にもかかわらず、ブリアナがあえてそれをしたのは、この青年が――たとえ以前の彼のままでなくとも、むやみに平民に罰を与えるような人間でないと、ほとんど確信していたからだった。
「ブリアナ、以前のように『アッシュ』と」
「ご冗談を、伯爵さま」
アシェル・ジェラン。
キュヴィリエ侯爵家の次男で、現在はピエラ伯爵を賜っている隣国の貴族だ。
そんな彼はもはや、ブリアナにとって愛称で呼べるような相手ではない。たとえ、それがシャーロットと血のつながった実の父親であろうとも。
「……ブリアナ、頼むよ」
「いいえ、恐れ多いことでございます」
言いながら、ブリアナは視線だけで辺りを見回した。
隣国の貴族が、供も付けずにひとりでいるなんて。気軽に旅行というわけでもないだろうから、きっと外交かなにかでたまたま訪れていたのだ。
「ブリアナ」
焦れたように、アシェルがブリアナの名前を呼ぶ。
ブリアナのかつてない拒絶に戸惑っているようでもあったし、怒りを、あるいは悲しみを湛えているようでもあった。
「……子が、いるんだって?」
確信めいた響きを持った問いかけに、ブリアナが肩を震わせる。
(……ジュリアさんね。『やっちゃったかもしれない』って、このこと……)
彼女は接客業を生業にする人なので、警戒心が強く、人の個人情報を見知らぬ他人に話すタイプではない。ただ、愛想が良いのも確かなので、不在にしているブリアナの所在を訊ねられて「子どもを迎えに行っている」ぐらいのことは伝えたかもしれないと思った。
「ええ、おります」
――いない、とは言えなかった。
嘘でも否定すればいいものを、今のブリアナにシャーロットは必要不可欠。その存在をなかったことにすることはできなかったのだ。
「ブリアナ、どうして……」
取り乱したように見えるアシェルに、ブリアナは苦笑しつつ首を振った。
「でも、父親はおりません」
「……え」
「あの子の父親は……あの子が産まれる前に、行方不明に」
実際には、自分が行方不明になったほうなのではあるが。だが、実家でどのような扱いになっているかまでは知らない。
「嘘だ」
もう、五年。いや、ほとんど六年だ。
ブリアナがひとり国を去って、それだけの年月が経つ。
過ごしてきた過酷な日々を思えば、過去に見切りを付けるのには十分な長さだった。
「伯爵さま、あなたがなぜここにいるのかは訊ねません。どうか、このままお引き取りくださいませんか」
ブリアナは、再び頭を垂れた。
貴族である彼に、従順さを表すかのように。
「……ブリアナ、その髪の毛は?」
しかし、アシェルはその場から動こうとしなかった。それどころか、身分差などもろともせず、質問を重ねてくる。
「伯爵さまこそ、よくわたしだと気付かれましたね」
ブリアナの元の髪色は黒だが、今はどこにでもいそうなブラウンにしている。魔力で色を変えている――とは流石に言えないので、明確な答えは与えず、はぐらかすことにした。
「……僕が君に気がつかないはずはないよ」
「光栄でございます。それでは、伯爵さま。お供も付けずおひとりでお忍びなど……少しは控えたほうがよろしいでしょう。今頃、騒ぎになっているのでは?」
「いや、殿下は知っておられる。うまくやってくれるだろう」
「『殿下』……」
なるほど、とブリアナは理解した。
肩書き上、この国は彼の国の同盟国である。ブリアナがラポワにいたときにはすでに、当時の第二王子は主に外交を担うという予定になっていたから、きっとその通りになったのだろう。
第二王子と親しくしていたアシェルが、使節団の一員となっていても不思議ではない。
「伯爵さま、そのようなことは軽々しく口にすべきではないかと」
視線を逸らして、ブリアナがちくりと刺す。
――隣国の使節団の来訪。
それ自体は、秘匿されている情報ではないはずだ。しかし、少なからず隣国の貴族の人間関係を把握しているブリアナに対して、気安く打ち明けていい内容ではない。そう、所詮ただの学生でしかなかった以前の二人とは、決定的に関係が異なるのだから。
「ブリアナ」
苦々しい表情を浮かべて、アシェルが再び呼んだ。ブリアナは抵抗することなく「はい」と応じる。
「君と……いや、君の子は、女の子? それとも男の子?」
「……娘です」
「そう。何歳になるの?」
「……もう少しで、五つに」
「名前、を……訊いても、いいかな」
「伯爵さま」
「もうこれ以上は……」とブリアナが弱々しく拒絶する。きっと、この人にはわからないだろうと思った。
娘でも息子でもうれしいことに変わりないのに、産まれたのが娘だとわかった瞬間、ほっと安堵の息を吐き出した自分に絶望したブリアナの気持ちなど。
人知れず子を産んだと侯爵家に勘付かれ、そのうえそれがもし男児であったなら、アシェルの家に取り上げられる可能性だってあったのだ。無論、女児でもそうなったかもしれないが、男児よりは見過ごしてくれる可能性は高い。
「……娘を、取り上げるおつもりですか?」
警戒しつつ、静かに訊ねると、アシェルは戸惑うように目尻を垂らした。
「いや、まさか。そんなことはしない。ただ、僕は……」
「なら――」
「僕は、君をずっと探していた」
「……は?」
ブリアナの顔からすとんと表情が抜け落ちる。思わず本音が零れ落ちてしまったが、無理もない話だろう。ブリアナの中では、すべて終わった話になっていたのだ。
「探していらっしゃった。わたしを……?」
――あり得ない。
彼の国での最後の会話を思い返す。あれから五年以上が経っているのである。やはり、彼が自分を探しているなどということがあるわけがなかった。
確かに彼の子は産んだが、彼にとってあれは一時の戯れ。上位貴族が下位貴族の令嬢に手を付けることは、よくあることだ。ブリアナ自身、本気になってしまった自分が恥ずかしいとさえ思っていた。
唯一、シャーロットを授けてくれたことにだけは、感謝をしてもいたけれど。
「君は……最後に、僕に会いに来てくれただろう。あのときの顔が、頭から離れなくて。追い返すような形になってしまったけれど、いったいなにを伝えたかったのか……そう思っていた。でも、今日わかった」
アシェルは泣きそうな顔をしていた。
昔の純粋で優しいブリアナなら、迷わず飛びついて、その頭を掻き抱いていたに違いない。
「僕は、許されないことをした……」
ル・ヴォー子爵令嬢ブリアナ・ゴドフロワ。
それが、故郷にいたとき彼女に与えられた肩書きだった。