26 訣別と幸せ
「見るな!」
男がそう叫んだ時にはもう、本当の姿が露わになっていた。
その瞬間を目撃していた貴族たちから、どういうことだ、魔術を使ったのかと疑問の声が聞こえてくる。
「衛兵」
再びアシェルが言うと、子爵一家を取り囲んでいたうちのひとりが慎重な足取りで近付き、子爵の体に触れる。
子爵は転がったまま、やめろ、と抵抗していたが、体が不自由なままではそれも叶わず、結局は呻き声を上げるだけになった。
「ありました!」
衛兵が立ち上がり、手を掲げる。その手の中には、球状の何かが握られているようだった。
「あれが……?」
「うん、例の魔導具だね」
思いのほか小さいなというのが、率直な感想だった。
アシェルがブリアナを見つけた際に使用していた、姿を変える魔導具である。魔術では、ブリアナがそうしていたように色を変えるのが限界なので、魔導具を使ったというのは疑うまでもなかった。
「こんなものも……」
続けて子爵の体を確認していた衛兵が、太い指から指輪らしきものを抜き取った。
これも魔導具の一種だ。
ただし、姿を変えるものとは異なり、一般に流通しているものなので、会場のあちこちで困惑の声が上がる。
「あれ、防犯用の魔導具じゃないか?」
「本当だわ」
「狙いを定めて撃つと、特定の相手に攻撃が加えられるというやつでしょう」
「私は使ったことがないけれど、痺れてしばらく動けなくなると聞いたわ」
緊迫感が薄らいできたのか、誰かが口を開いたのを皮切りに、貴族たちが流れるように囁き合う。
「なぜ……」
綺麗に磨き上げられた床に転がったまま、子爵が苦しげに呟いた。衛兵から指輪型の魔導具を受け取ったニコラが、皮肉げに嗤う。
「――なぜ? なぜこれに効かなかったのか?」
これ、とブリアナを指差して、ふんと鼻を鳴らした。
「自分で結界を張っているのだから、こんなものが使えるわけないだろう」
こちらこそなぜか、自分のことのように自慢げである。魔術の知識はない子爵だったが、二コラの「自分で」という言葉で、何が起きたのかおおよそ見当がついたようだった。ぎょろりと目を大きくして、ブリアナに視線を走らせる。
「自分で、だと……」
困惑と恨みの籠った視線から妻を守るように、アシェルが一歩前に出る。しかし、ブリアナはそんなアシェルの腕を引いて止めた。
「まさか……魔力が?」
そんな馬鹿な、とでも言いたげな声色だった。
「ええ、実はわたし、魔力があるんですよ。まさかご存知なかったんですか?」
「……あり得ない」
「あり得ない? ……そうですか」
相手を挑発しつつ、父親とは良好な関係でなかったことを周囲に示す。媚薬事件のことや王女のこと、ブリアナのこれまでの生活のことは、一部を除き公になっていないので、自ら家を出たことの正当性を明らかにしなければならないのだ。
もっとも、このような場所で、とは本来考えていなかったのだが――。
「では、皆さん。本日、お越しいただいたお礼です」
そう言って美しく笑ったブリアナは、大きく手を振り上げた。
次の瞬間、天井からひらひらと花弁が降ってくる。色とりどりのそれが会場を埋め尽くし、絨毯のように敷き詰められる。
人々は、まるで花畑にいるかのような錯覚を覚えた。
「わあ! すごいねえ!」
シャーロットがきゃっきゃと笑う。
それに触発されるように女性陣が軽やかに囀り、そしてそれは男性陣にも伝染していった。
「これで信じていただけました?」
会場の盛り上がりを横目に見ながら、ブリアナは元は父親であったはずのその人に近付いた。子爵は一度、ぐ、と呻き声を上げたのち、諦めたような虚ろな表情を浮かべた。
「……なぜだ……」
「また『なぜ』ですか? そう言われましても、絶対に知られないようお母さまと約束してしまったんですもの」
「――あいつも知っていた、のか」
「知っていたというか、お母さま自身が魔力保持者でしたので」
「なん、だって……」
茫洋とした子爵の視線を受けて、そうでしょう、とブリアナが薄く笑う。やはり愚かな人だった、と。
(目先の情報に囚われて、考えることを放棄するからそうなるのよ)
そもそも、子爵が貴族主義であるのは、貴族の中では埋もれてしまう凡庸な人間でしかないけれど、自分より下位の貴族や平民相手には、さも高尚な人物であるかのように振る舞えるから、というのが大きい。
要は、うまくいっている貴族への劣等感が反転したものだ。
自分が高尚な人物であるためには、平民は平民のまま、どんな力も持ってはいけない。そうしなければ、自分は平民にさえ埋もれてしまうことを本能的に理解しているのだろう。
それがこの男の貴族主義の根本である。
――それがどうだ。
家の事情で渋々ながらに結婚し、早々に裏切った商家の娘には魔力があったという。そのうえ、必要ないと切り捨てた娘にも。
魔力保持者を輩出した家にはそれなりの恩恵があると、子爵は知っていた。
「こんなことになってしまって、とても残念です」
まったくそうは思っていないだろう表情で、ブリアナが言う。
子爵は眉をぴくりと動かしたが、それだけだった。当主に従うしかない令嬢をああも傲慢な態度で押さえつけていたというのに、終わりは実にあっけないものである。
「なによ……」
しかし、異母妹や義母のほうは違う。そんなことで納得できるはずもない。
「なんなのよ、あんた!」
異母妹が叫ぶ。
「どうしてあんたが――なんで、この人と結婚なんて! 結婚前に男に股を開く売女が!」
貴族令嬢らしからぬ言葉に、再び会場が静まり返った。下品などという言葉では到底言い表せないような醜態である。
「ええ、婚前に妊娠してしまったことは確かね。……でも、わたしたちがいい加減だったことは一度もないし、これからもないわ。事情があって離れ離れになってしまったことはあるけれど、今はこんなに素敵な夫がいて、可愛い娘がいる。これ以上幸せなことってある?」
冷静に見えるように、けれどもあえてゆっくりと、子どもに言い聞かせるような口調で言ってやる。異母妹が、異母姉の幸せがなによりも許せない性質なのだと、ブリアナは知っていた。
「苦しいでしょう。こんなにきつく縛ってしまって、ごめんなさいね」
異母妹の視線に合わせるように腰を屈め、慈悲深く微笑むブリアナ。異母妹の頬をそっと指先で撫でながら、ブリアナは周囲に聞こえない程度の音量で囁いた。
「あなたはそんなのだから誰にも愛されず、婚約ひとつできなかったのよ。可哀想な子」
次の瞬間、異母妹は狂ったように絶叫した。
「お前こそ、親にすら愛されなかったくせに! 親にも愛されないようなお前に、生きる価値なんてないわ! 残念ね! どんなに望んでも、お前は一生親に愛されない!」
鋭く目を見開いて喚く様子は、人々の目に異様に映っていることだろう。ブリアナは真実憐れな子を見る目を異母妹に向け、「だからなんだと言うの」と答えた。
「ずっと気がつかなかったけれど、確かにわたし、親に愛されたいと願ったことがあるんだと思うわ」
「ほら――」
「でも、もういらないの」
「は……」
「いらないのよ、わたしを愛してくれない人たちからの気持ちなんて。わたしには今、血のつながった親以上に愛情を注いでくれる家族がいるもの」
――わたしがあなたたちを捨てたのよ。
最後にそう付け足すと、異母妹の顔がどす黒く変色していく。怒りが限界を超え、なにをどうしたらいいのかわからなくなったのだろう。
立ち上がったブリアナの肩をアシェルが抱き寄せ、子爵一家の三人を見下ろした。
「待って……わたくしは何も悪いことなんてしていないわ……ねえ、そうでしょう」
この状況になって初めて義母が口を開いたが、もはや誰も聞いてはいなかった。アシェルが手を上げ、衛兵を呼ぶ。
「彼らは不法侵入者だ。連れて行ってくれ」
彼らの未来は暗い。
招待されていない夜会に侵入したうえ、そこは侯爵家で、王族や公爵家の人間が参加していたのにもかかわらず、騒動を起こしたのである。
ただでさえ潤っているとは言い難い経済事情だったのだから、立ち上がる術はもうないだろう。
貴族であることのみに矜持を持っていた彼らの最後がこれだ。
(……さようなら)
無理矢理腕を引かれて立ち去っていく元家族に、小さく手を振ったのは少々意地が悪かっただろうか。いや、今までの仕打ちを考えれば、それぐらいは許してほしい。
ちょうどその瞬間を目撃してしまった異母妹は、荒れ狂ったように言葉にならない何かを喚き散らしていたけれど。




