25 理想的な家族
華奢な腰元で絞られ、床に向かって大きく広がっていくドレス。深みのある赤は、はっと目が覚めるような美しさだ。両サイドに全体的に施されている刺繍がなんとも上品で、より一層人目を引くシルエットになっている。
落ち着いたデザインでありながらも、背中で編み上げられたリボンが愛らしい。露わになったデコルテ部分には、ジェダイトを使用したネックレスがその存在を主張している。
「綺麗……」
誰かが呟いた。
次いで、多くの視線が妻をエスコートしている夫と、その腕に抱えられている幼い少女に向けられる。父親の腕の中で、少女は緊張に体を強張らせていた。しかし、その初心な様子もまた愛らしい。
――あれが元子爵令嬢だって?
噂話に花を咲かせていた男たちは、気品のある婦人が通り過ぎていくのを目で追いながら、言葉を奪われたような気分になっていた。
やがて、ピエラ伯爵による挨拶と家族の紹介が終わると、場内には再び賑やかさが戻ってくる。
話題はもっぱら、美しく着飾ったピエラ伯爵夫人と令嬢のことだった。
「素敵よ、ブリアナ」
冒頭のスピーチを終え、さらに個々人に対する挨拶回りに行こうと歩き出したところで、キュヴィリエ侯爵夫人――義母となった彼女が声をかけてきた。
「お義母さま」
ブリアナが恥ずかしげに微笑む。
最近ようやく、義母と呼ぶのに慣れてきたところだ。
「お義父さまも、このたびは準備などにご協力いただきまして、ありがとうございました」
義母をエスコートしている義父に改めて感謝を伝えると、義父は目元を緩ませて首を振った。
「いいや、準備のほとんどは君自身で行ったと聞いている。流石、学生時代には才女と呼ばれただけのことはあるな」
「お義父さま……!」
どうやら学生時代、子爵令嬢でありながら上位貴族の子女と張り合うどころか、その上を行くブリアナを一部の学生がそう呼んでいたらしいのだ。
アシェルにそれを聞いたときは、驚きと恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。以降、義母や義父にはその件で揶揄されている。
「ブリアナ、今日もとても綺麗だよ」
義母と義父の間から、低く安心感のある声が聞こえてくる。
「お義父さま! お義母さまも……」
今度は、ラザフォード伯爵と夫人だった。言わずもがな、ブリアナを養女として迎え入れてくれた二人である。
「来てくださって、ありがとうございます」
「孫の晴れ舞台に来ないわけがないだろう? なあ」
「ええ、そうよ」
互いに顔を見合わせて微笑む夫婦に、心が温かくなる。この二人は、長いこと子どもが出来なかった時も、唯一の子が亡くなってしまい、悲しみに暮れた時も、穏やかに支え合ってきたのだろう。
彼らは将来的に、ブリアナとアシェルの子――もうひとり出来ればの話だが――に伯爵位を譲ると言っていた。それが実現すれば、血のつながりがない者に爵位を継がせる稀有な例のひとつになるかもしれない。
四人の親が歓談し始めたので、ブリアナとアシェルは今度こそ挨拶回りに行くことにした。
「うれしそうだね」
足取り軽く歩いていると、アシェルがブリアナにそう言った。
ブリアナが頷く。
「ええ。あなたのお父さまにお母さま、それから、わたしのお義父さまにお義母さま。義父と義母が二人ずつ出来るなんて夢のようだわ!」
オニキスのような黒い瞳がぱっと華やいだ。
親に恵まれなかったブリアナにとって、まさに理想的な家族だった。
しかし、そんな上機嫌も長くは続かなかった。
「やあやあ! 実に麗しい格好をしているね、ご夫人!」
妙な勢い――と思われるかもしれないが、これがこの男の常である――で現れたのは、第二王子である。その後ろには二コラもいる。
二コラは上から下までブリアナを観察するような視線を送ったあと、ふんと鼻を鳴らすだけにとどめた。どうやらブリアナの今日の装いは、いろいろなことに口うるさい彼のお眼鏡に適ったらしい。
「王子殿下にご挨拶申し上げます」
形式だけでもと礼の形を取ったアシェルに倣い、ブリアナも膝を折り曲げて姿勢を低くする。第二王子は快活に笑った。
「うん、三人とも素晴らしい! 流石私の友人――」
「ニコラ!」
アシェルの腕の中から、シャーロットが叫んだ。
王族の言葉を遮るなど不敬もいいところで、ブリアナは思わず「うわあ、ロッテ!」と地の声を上げてしまった。
それに対して、第二王子がまた笑う。
「元気でいいじゃないか! マナーなど、ある程度成長すれば自然と身に付く……と無責任に言いたいところだが、妹のことを考えるとそうは思えん! 頑張れ!」
なぜか逆に応援されてしまった。
第二王子が寛容な人で良かったとブリアナは安堵の息を吐いたが、アシェルはそんなことよりもシャーロットの興味が二コラに移ったのが衝撃的だったらしく、「ロッテの初恋が……」とぼやいている。
「すっかり父親の顔をしているな! 幸せそうで羨ましい!」
そう言う第二王子には婚約者がいない。
本人が、生涯独身を貫くと公言しているからだ。
ゆくゆくは玉座に座る兄のためだろう。なにかしらの理由で王太子に子が出来なかった場合、その限りではないが、王家の血を引く子どもが増えると、本人たちの意思とは関係なく争いの種も多くなるものだ。それは歴史が物語っている。
次期国王に相応しい兄を煩わせないよう、そう言っているのである。
「どうだ、伯爵。娘は可愛いか?」
公の場なので「伯爵」と呼びながらも、気安い態度でアシェルに問いかけた。
「ええ、それはもう。こんなに可愛らしいものとは思いませんでした。将来どこの誰とも知れない男と結婚して、掻っ攫われるのだと思うと今から心が壊れそうです」
「どこの誰とも知れない男というのに抵抗があるのであれば、アルシェード男爵に預けたらいいのではないか? 懐いていると聞いた!」
「殿下!」
アルシェード男爵とは二コラのことである。
アシェルが悲鳴を上げた。
「この男と娘がいくつ離れているかご存知でしょう! 親子ほども年齢が違うのですよ!」
「冗談だ」
少しでも想像したくないというように顔を青褪めさせるアシェルに、第二王子が真顔になる。そして、顔を近付けてきた。
「実は、王太子殿下が君たち二人――いや、三人をお呼びだ」
刹那、ブリアナとアシェルがそろって息を呑む。
王太子直々の呼び出し。
だが、口頭での招待となると、非公式にということなのだろう。アシェルは一度ブリアナに視線を向け、それから頷いた。「承知いたしました」
「二日後、王宮を訪ねてきてほしい。話したいことがあると言っていた。もちろん私も同席しよう」
何度も王宮に上がっているアシェルとは違い、ブリアナにとっては雲の上の人も同然である。そんな人からの呼び出しに、眩暈がしそうだった。
最後に改めて挨拶を交わし、次にフィリドール公爵夫人、そして位の高い順番に声をかけていく。すべての挨拶が終わる頃には、ブリアナはもうくたくたになっていた。シャーロットはどこでも眠れる性質のようで、アシェルの腕の中で目を閉じている。
―― 一息つこう。
アシェルと話し合って、ブリアナが深く息を吐き出した時だった。バチンと何かが弾けるような音が響く。
「これは……」
「衛兵! 今すぐ扉を閉めろ! 誰ひとりとして会場の外に出すな!」
アシェルが吠えるように叫んだ。
警備を担当していた衛兵たちが、即座に指示されたとおりに動く。ブリアナも驚愕の色を顔に滲ませてはいたものの、動揺している様子はない。
突如として漂い始めた緊迫感に、貴族たちが混乱状態に陥る。その多くは身を縮めて壁際に寄るのみだったが、中には走り出す者もいた。
そのうちの何名かが、派手な音を立てて顔面から床に突っ込む。先頭を駆けていた男がぎゃあと潰れたカエルのような声を上げた。
よくよく見てみれば、転倒したそれぞれの体は縄のようなもので縛られている。
「あれか?」
「あれだな」
アシェルが、いつの間にか隣に立っていた二コラと短く言葉を交わした。そして、シャーロットを二コラに預け、ゆっくりとした足取りで男たちに近付いていく。
「ル・ヴォー子爵だな」
そう大きな声ではなかった。しかし、静まり返った会場の中ではよく響く。
「ル・ヴォー子爵って――」
誰かがそう繰り返した瞬間、数多の視線がひとりの女性に集まった。ピエラ伯爵夫人ブリアナ・ジェランである。もともとはル・ヴォー子爵令嬢だった彼女だ。
ブリアナはアシェルの腕に手を添えたまま、導かれるようにして男たちに歩み寄っていく。表情こそ強張っているものの、落ち着いた様子だった。
「な、にを……ル・ヴォー子爵? はは、知りませんなあ」
床に転がったまま、男が引き攣った笑みで答える。
「お前たちがやろうとしたことは、すべて知っている」
「本気で私がル・ヴォー子爵だと? では、この女たちは?」
男の横では、縄に縛られて蠢く二人の女の影があった。どうにかして抜け出そうとしているのだろう。虫のような滑稽な動きに、ブリアナは苦笑した。
「それ、普通の縄ではないので千切れたりしませんよ」
もっとも、普通の縄であっても、非力な女性の力で引き千切れたりはしないが。
「普通の縄では、ない……?」
若いほうの女が呆然と呟き、しかしすぐに手足をばたつかせてさらに暴れ出す。余計に縄が食い込んだのか、ぎゃあ、と父親と同じような叫び声を上げた。
あっさり正体を看破されたのは、ル・ヴォー子爵と子爵夫人、子爵令嬢の三名である。
「だから言ったでしょう。普通の縄ではないと。稀代の魔術師と言われる二コラさまが、魔術を駆使して作った特製の縄です。抜け出そうと暴れるたびに、じわじわと締め付けていきますよ」
脅迫じみた言い方に恐れを抱いたのか、女たちは大人しくなった。アシェルがブリアナの肩を自身のほうへ引き寄せ、次いで娘を抱いた二コラに目を遣る。
心得たとばかりに、二コラが指を鳴らした。その腕の中で、シャーロットが興奮気味に「わあ!」と場違いにはしゃいだが、人々の意識は男たちに向かっていた。
徐々に姿かたちが変わり始めたのだ。
「なん、だ……これは!」
狼狽しながら男が叫ぶ。「待ってくれ!」と叫んでも、その魔術はついに完全に解けてしまった。