22 おはよう、大丈夫
ルヴランとラポワは、共に大きな領土を持つ国だ。
馬車で移動しようとすれば、王都から王都まで二十日以上はかかる。今回の場合、使節団ということもありかなりの大所帯なので、もっと時間がかかった。
「つ、疲れた……」
帰国した――と感慨深い気持ちになる間もなく、ブリアナたちは王宮へと連れて来られた。ここで、今国王に結果報告をしているアシェルを待つのである。
「ママ、見て! おひめさまみたい?」
目の前で、シャーロットがうれしそうにくるりと回る。
(……子どもって元気だわ)
感心しながらも、綺麗なドレスを着て上機嫌な娘に大きく頷いた。
「ええ、お姫さまみたい……いいえ、あなたはわたしのお姫さまだわ」
おいで、と手を広げると、すかさず腕の中に飛び込んでくるシャーロット。アシェルに似た上品な金色の髪の毛を手で梳きながら、一度深呼吸をする。子どもならではのミルクのような匂いがした。
「んー!」
それを胸いっぱいに吸い込むと、ほんの少しだけ元気が出るような気がしてくる。
そのままシャーロットを持ち上げ、一緒にベッドに飛び込む。あっと思ったが、次の瞬間には、二人して柔らかいシーツの上を弾んでいた。
シャーロットが目を丸くする。
「ママ! やわらかい!」
頬を上気させ、興奮した様子で騒ぐシャーロットに、ブリアナは苦笑しつつ「そうね」と頷いた。親として不甲斐ないやら申し訳ないやら――所謂貧困家庭の子だったシャーロットは、弾むベッドなどというものを知らないのだ。
「こら、シャーロット」
寝転がったまま背中で弾み続ける娘を軽く注意して、シーツをかけてやる。元気なように見えて、やはり疲れていたのだろう。
数十秒もすると、突然すべての機能が停止したかのように、シャーロットは眠りについた。
半開きの口から、気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。
(長い旅路で、ほとんど文句も言わず頑張ったわ……。まあ、ほとんどはニコラさまのおかげだけど。アッシュともたくさん交流できたみたいだし、なんだかんだ、家族三人の時間が取れたもの良かったのかもしれない)
天使のような寝顔を眺めているうちに、瞼が重たくなってきた。
(久しぶりに、第二王子殿下にもお会いできて……良かった……。相変わらず……ちょっと……不思議な人だった……。ああ、これから……どうなる――)
――ふっと目を開ける。
高く、見慣れない天井にブリアナは飛び起きた。
(あ……王宮)
安堵の息を吐き出しながら隣を見ると、娘が愛らしい顔で眠っている。ずいぶん大きいベッドだというのに、ルヴランで暮らしていたときのように、体を丸く縮めていた。
「ああ、起きた?」
高すぎず、低すぎもしない中性的な声が、流れ込んでくる。馴染みのあるその声にあたりを見回すと、アシェルがソファーに腰かけてこちらを見ていた。
優雅に組まれた膝の上には、分厚い紙の束が乗っている。仕事を持ち帰ってきたのだろう。
「お、はよう……」
ぼんやりしていたので、ブリアナは思わず間抜けなことを言ってしまった。――いや、状況としては間違ってはいないのだが。
寝ぼけていた自分に気がつき、ブリアナは頬を染めた。
「うん、おはよう」
言いながら、おもむろに立ち上がったアシェルがベッドに乗り上げてくる。
「アッ――」
思わぬ距離の縮め方にブリアナが戸惑っていると、アシェルはそっとブリアナの肩を引き寄せた。一応気は使っているのか、体が密着しすぎない絶妙な抱き締め方だった。
緊張してしまう。
事情があったとはいえ、アシェルとはそれ以上のことをしているはずで、子どもだっているのに、ブリアナは無意識に息を止めていた。
思えば、正常な状態で異性とこんなにも近付いたのは、生まれて初めてのことなのだ。恋仲だったあの頃でも、手をつなぐのがせいぜいだった。所謂、清い関係だったのである。
「よく眠れた?」
しばらくして、アシェルがそう訊いた。
体勢的に、アシェルの口元がブリアナの顔の横にあるので、耳元に囁かれているような気分になる。気恥ずかしいやら居た堪れないやらで、ブリアナはわずかに身じろいだ。
「え、ええ。ところで、わたしたち、どれくらい眠って……?」
「そろそろ朝食の時間というところかな」
「……ごめんなさい、寝すぎたみたい」
昨日、使節団と共に王宮入りしたのがまだ暗くなる前だったことを考えると、予想以上に深く寝入ってしまったらしいことがわかる。
アシェルだけでなく、第二王子もニコラも休みなく働いていたはずなのに、なんて呑気なことをしてしまったのだろう。いくら疲れていたといっても、帰ってくるアシェルを待つことぐらいできただろうに。
しかし、アシェルは首を振った。
「僕たちの旅程に合わせて行動してくれたんだから、疲れているのが普通だよ。むしろ、シャーロットが我慢強すぎて驚いた」
体を横にずらし、ブリアナの隣に座る。
その視線が、ブリアナを通り越して娘に向けられた。
「それはわたしも。二コラさまさまね」
「……ああ、悔しい!」
「ふふ、将来、二コラさまと結婚する! とか言い出したらどうする?」
「い、いや、流石にそれは……ない――と言い切れないのが、腹立つなあ。でも、とりあえず歳が離れているから、あっても初恋ぐらいだろう!」
「あら、初恋の人って結構大事じゃない? 中には一生忘れられない、なんていう人もいるぐらいだし」
揶揄するようにブリアナが言うと、アシェルはうぐ、と何かを喉に詰まらせたような声を出した。やがて、頭の中で繰り広げられていたその妄想が現実味を帯びてしまったのか、頭を抱えて低く呻く。
「ねえ、そもそも結婚する必要もないんじゃない?」
馬鹿げたことを言い出したアシェルに、ブリアナは思わず宙を見上げた。
(これって溺愛一直線じゃない? いえ、溺愛自体は悪くない、悪くない……)
自分に言い聞かせるようにしながらも、そう言えばと口を開く。
「ロッテを甘やかすなら、やり方には注意してね」
「……やり方?」
「アルマさんといい、――大きい声では言えないけれど、王女殿下といい……溺愛とかいうのに、本当に縁がないのよね、わたし。相性が悪すぎて笑っちゃうぐらい」
ブリアナが遠い目をすると、アシェルは苦笑気味に「確かに」と同意した。アシェルの場合、ブリアナに対する罪悪感と、娘と離れて暮らしていた期間が長いことから、一度道を踏み外すと良くない方向へ行ってしまうような気がする。
自戒の意味も込めて、改めて注意しておくことにした。今後、家族として暮らすなら大事なことだ。
「あなたはわかっていると思うけど、甘やかしと優しさは違うからね。今までの分も尽くさなきゃ、みたいなことはむしろ逆効果だからね」
アシェルの肩がびくりと持ち上がる。どうやら図星だったようだ。
ルヴランを出て、この王宮に到着する約二十五日ほどの間に、ごめんという言葉を聞く機会はめっきり減ったように思う。
だが、ずっと感じていた罪悪感は簡単に消えないものなのだろう。ブリアナが今でも時折、アシェルに別れを告げたあの時のことを夢に見るように。
客人扱いだからというのもあるだろうが、王宮で提供される朝食はとにかく豪勢だった。
寝ぼけ眼で席についたシャーロットは、目の前の光景を見た瞬間、カッと目を見開いた。顔を紅潮させて「おめでとう!?」と手を上げるので、何かと思ったら、どうやら誰かの誕生日だと思ったらしい。
三人で食事を終え、馬車に乗り込む。
窓の外を眺めながらはしゃぐシャーロットに、愛しげな視線を送るアシェル。誰がどう見ても家族水入らずの穏やかな空間だったが、ブリアナの心情としては、そう悠長に構えているわけにもいかなかった。
今日はこれから、キュヴィリエ侯爵家の邸――といっても、王都の外れにあるタウンハウスだが――を訪れ、アシェルの家族に挨拶をするのである。
「もしかして、緊張している?」
表に出しているつもりはなかったが、ブリアナはいつの間にか膝の上で拳を握っていた。
「……いや、当然か。僕が君の立場でもそうなると思う」
アシェルは、ブリアナが行方不明になって以降、捜索するのに両親も援助してくれたと言っていたけれど、それとこれとは話が別だ。
「あの、ええと、そうね。……別にあなたのご両親がどうのという話じゃなくて。ほら、キュヴィリエ侯爵も夫人も、わたしのことをずっと捜していらしたんでしょう? 記憶って美化されるものだもの。いざ対面してみたら意外と……なんてこともあり得るかと思って」
ため息を吐きながら、窓の外に視線を投げる。
――あの日も。
アシェルに助けを乞いに子爵家のタウンハウスから、延々と歩き続けたのだった。あの時の心細さを思い出してしまって、ぐっと唇を引き結ぶ。
「大丈夫だよ」
ブリアナの前に座っていたアシェルが、隣へと移動してくる。中途半端に強張ったブリアナの手に、そっと自分のそれを重ねた。
「そもそも両親は、君の性格を気に入っていたわけじゃない」
「……それはそれでどうなの?」
「あ、違う! ごめん。そうじゃなくて!」
言い方を間違えた、とアシェルが慌てて訂正する。
「まあ、最終的には君自身のこともすごく気に入ったようだけどね。もともとは君の交友関係の広さや優秀さなんかが先にあって、そこから本人の気質も素晴らしいってなった人たちだから。過去の実績は流石に美化できないし、『意外と……』なんて落胆されることは絶対にないと思うよ」
根拠のない「大丈夫」かと思いきや、案外しっかりした理由があったので、ブリアナは少しだけ肩の力を抜いた。
「あ! 見て!」
徐々に馬車の速度が落ちていく。
窓に張りついていたシャーロットが、前方を見て浮かれた声を上げた。よほど外が気になるのか、窓に押しつけた左の頬がすっかり潰れてしまっている。
「おっきいねえ……!」
徐々に近付いてきたのは、数年前に訪れた邸。感嘆の声を上げるシャーロットを膝に乗せ、アシェルはもう一度「絶対に大丈夫だから」と微笑んだ。