21 涙
案外、その機会は早く訪れた。
徹底して必要な物のみを持ってくる二コラとは異なり、アシェルからの贈り物には、次第に高価な物も含まれるようになってきていた。
娘が可愛くて仕方ないのだろうが、シャーロットに余所行きのドレスをプレゼントされたときには、受け取りながらもブリアナは困惑した。
貴族令嬢が着るようなものではない。ただ、最下層でひっそり暮らす子どもが着るものでもない。アシェルが配慮を働かせた痕跡はあったものの、つい「困るわ」と言ってしまったのだ。
言うつもりはなかった――いや、言ってしまったものは仕方ない。
なぜ、と困惑するアシェルに説明する。
アシェルがいなくなれば、元の生活に戻らざるを得ない。帰国後も援助しようと申し出てくれるつもりだったかもしれないが、伯爵という立場的にいつか結婚しなければならないのだから、いずれ迎えるであろう妻のために、それはやめたほうがいい。であれば、日用品ならまだしも、使い道のない嗜好品でシャーロットをぬか喜びさせ、そのあとで、実はこれきりだと落胆させるのはあまりにも酷なことである、と。
目を見開き、紙のように顔を白くさせたアシェルは、何も言わず帰って行った。
しかし、その翌日。
食料と花束を手に現れたアシェルは、ブリアナの前に跪いた。
「僕と一緒に帰国して、結婚してほしい」
戸惑うブリアナに、アシェルはこう付け足した。
「君とシャーロットは、僕が必ず幸せにする……とは言えない。今の僕は、自分に自信があまりないから。だけど、そのための努力は惜しまないと約束する」
頼りなくはあったが、ブリアナにはとても誠実な伝え方であるように感じられた。
とはいえ、母国には良い思い出がない。すぐには答えられなかった。だが、それからまた十日ほどが経ったとき、使節団の帰国日が決定した。
アシェルは言った。
「今すぐ決める必要はないよ。僕は貴族家の当主だから、仕事でもない限りそう簡単には国を出られないけれど、できる限り君を説得しにやって来る。シャーロットの成長も見守らせてほしいしね」
気を使わせないよう、あえて明るく言ったのがわかった。
その瞬間――ブリアナの心は決まった。
理由はわからない。けれど、一緒に行かなければいけないと直感したのだ。
そこからは早かった。
まだ幼い娘がどう思うか不安だったが、シャーロットは二コラといられるならと手を上げて喜んだ。自分ではないのかとアシェルが酷く落ち込んでいたのは面白かった。おそらく、シャーロットにとって父親と二コラは違う存在なのだろう。
貧しい平民でしかなかったシャーロットが、いきなり伯爵令嬢だ。
それがシャーロットにとってどのような変化をもたらすかわからない。一時でも平民だったことで、将来的に当てこすられる可能性もある。
それでもブリアナは、シャーロットが幸せになるためにできる限りのことをしようと誓ったのだった。
「なによ、底辺女のくせに!」
――ばしゃり。
目が覚めたような心地だった。額から滴り落ちてくるそれを舐めると、微かに酒精の味がする。エールをかけられたのだとすぐに理解した。
「アルマさん!」
ジュリアが悲鳴じみた声を上げる。
「どうしてあんたなんかが伯爵さまに見初められるのよ……」
耳目を集めているのを自覚して、ブリアナは眉を垂らした。――勤務中にこの暴挙。店主夫妻に溺愛されているので、騒ぎを起こしたとて問題にはならないのだろう。
つくづく溺愛とは相性が悪いなと、ブリアナは肩を落とす。
(……アッシュには、変な甘やかし方をしないように注意しておかなくちゃ)
貴族令嬢であったとき、このような言いがかりをつけられることは間々あったことだ。動揺はしていない。そんなブリアナの冷静さに刺激されたのか、アルマは手を振り上げた。
ぴしゃりと乾いた音が鳴る。
まさか暴力を振るわれるとは思っていなかったので、ブリアナは防御することも叶わず、無防備なまま叩かれることになってしまった。熱を持った頬を押さえて、深く息を吐き出す。
「わたしがアルマさんに何かしましたか」
それでもなお落ち着いた様子のブリアナに、アルマが甲高い声で叫んだ。
「同じ平民なのに、どうして私じゃないの!? 私のほうが綺麗だし、お金もあるし、読み書きだってできるから、楽しい話だってしてあげられるし! なのにどうして、あんたみたいな――」
「まさか」
割って入ってきた声に、ブリアナは振り返る。
アシェルだった。二コラもいる。その後ろにジュリアが控えていることから、外で待機していた二人を呼びに行ってくれただろうことが想像できた。
今日は、急きょ旅立つことになったブリアナが、ジュリアに挨拶をするために酒場を訪れていたのだ。本来は家まで行くのが礼儀かもしれないが、ここのところ遅番――日付が変わる前までの早番と、明け方までの遅番がある――が続いていたため、店主夫妻に許可を取ったうえで、店の二階を貸してもらうことにしたのだ。
アシェルは店頭で軽く挨拶したのち、積もる話もあるだろうから外で待っていると言って、退出していた。「シャーロットを迎えに来た」と、いつの間にか兄のような顔をするようになった二コラと共に。
「私と結婚するということは、貴族になるということでもある。君のようなすぐに手が出る暴力的な女性に伯爵夫人が務まるわけがないだろう」
言って、ブリアナの顔を見たアシェルが「頬が赤くなっている」と眉根を寄せた。
「そんなことないです……! だって、私のほうが美しくて――」
「美しい? 君が?」
「お金もあるし!」
「生憎、金なら私も持っているし、君が考えることではないな」
「読み書きもできます! 本が読めるから、教養のある会話もできるし……」
「ああ、確かに貴族になるからには、読み書きできることは重要だろう」
「なら……!」
「しかし、貴族なら読み書きなどできて当然だ。中には、事情があってそうでない例もあるかもしれないけれど、少なくとも私は、『読み書きができる』ことを自慢げに言う貴族夫人は見たことがない。まあ、何が言いたいかというと、つまり、彼女だって当たり前のように読み書きができるということなんだけど」
「え……」アルマが絶句する。
この国における庶民の識字率はそう高くない。貧しい家の子たちが、読み書きが必要な仕事に就くことは滅多にないので。
そのため、最下層にいる女に同じことができるだなんて思ってもみなかったのである。
「お前はいったい何をやっているんだ」
呆れたようにそう言ったのは、二コラだった。
二コラは、不快そうにアシェルとアルマのやり取りを眺めている。しかし、どうやらその言葉はブリアナに向けられたものらしい。
「昔から気は弱かったが……違うことは違うと言う女だっただろう。情けない」
「……二コラさま」
「もう関わることもないからどうでもいいと思っているのか? なるほど、なら理解できるな。このように品のない人間にいちいち対応していたら、疲れるどころか自分の品位も疑われそうだ」
「二コラさま」
ブリアナは苦笑した。
誰に対しても同じ態度。この口の悪さに、安堵する日が来ようとは。
「言ってやればいいじゃないか」
二コラは二コラなりに、ブリアナを友人だと思っていると言ったアシェルの言葉が蘇る。
「――そもそもお前は平民などではないと」
店内の空気が大きく揺れた。
当然だろう。
平民が貴族に無礼を働くのは、許されることではない。
「あ、でも……」
自分は子爵家を除籍された身だ。そう言おうとしたブリアナに、二コラは悪そうな笑みを浮かべた。
「お前は今も、しっかり子爵令嬢だが」
耳打ちし合っていた客が、今度は一斉に静まり返る。
「子爵、令嬢……?」
呆然とアルマが呟いた。
だが、驚いたのはブリアナも同じである。
「いえ、あの、わたしは――」
「実際の手続きは、まだ行われていない。こいつが上に直接掛け合って、子爵家当主からの書類を受理させないようにしていたからな」
こいつ、と言われたアシェルが深く頷いた。
「勝手なことをと思われるかもしれないけど、いつか君が見つかったときに、戻ってこられる場所を作っておきたかった。……といっても、別にあの家に戻れってことじゃなくて、君を養子に迎え入れてくれると言っていた件の伯爵家に籍を移すなら、そちらのほうが絶対にいいから」
貴族の家が平民の子を養子に迎えれる事例はほとんどないので、それを実行する際には、かなり複雑な手順を踏むことになる。貴族家から他の貴族家に籍を移すほうが、圧倒的に楽なのだ。
「つまり君は、子爵令嬢に暴力を振るったということになるね」
人々は震え上がった。
終わりだ――。
誰もがそう感じたことだろう。
「大変申し訳ございません……!」
床を這うようにして、店主夫妻が進み出てくる。
両脇から娘の体を押さえつけ、頭を下げさせる二人の顔からは、すっかり血の気が失せていた。
「どんな罰でも受けますので、命だけはどうか!」
これではまるで、自分のほうが悪者みたいだ。
ブリアナは肩を竦めた。
「……娘の居場所を提供していただいたことには、感謝しています」
アルマを自由奔放に育てた彼らもまた、外部の人間には否定的だった。ただ、その差別感情は、幼い子どもには向かなかったらしく、ジュリアがシャーロットを連れていても、何も言わなかった。
「お元気で」
ブリアナは、複雑な気持ちを押し殺しながら、軽く膝を折り曲げる。
――彼女は本当に貴族のお姫さまだった。
その瞬間、誰もが理解しただろう。
凛と背筋を伸ばしたその姿に、庶民では到底あり得ない品性を感じたのだ。彼らの心の中に、ひとつの疑問が沸き上がる。
自分たちはなぜ、外の人間を遠ざけようとしているのだろう――と。
「え、と……あの」
単なる平民どころか、困窮した生活に苦しんでいた友人が、実は貴族のお姫さまだったと知って、当惑するのはごく自然なことである。
ジュリアは、ブリアナにどう声をかけたらいいかわからず、意味のない言葉を繰り返した。
「ジュリアさん、今までどおりに」
外に出ると、刺すような冷気が彼らの体を包み込んだ。
「……本当に?」
「お願い。ジュリアさんにはそうしてほしい」
懇願するように言う。
ブリアナに乞われてやっと、ジュリアは小さく微笑んだ。
「じゃあ、そうする」
「ありがとう……それと、結果的に騙すような形になってしまって、ごめんなさい」
実際には当の本人でさえ、いまだ子爵家の人間として名を連ねていることを知らなかったのだが、ジュリアには関係のない話だ。
白い息を吐き出しながら、ブリアナが謝罪する。
「ブリアナ!」
慌ててその肩を引き起こしながら、ジュリアは首を振った。
「そもそも、あなたは自分を貴族だの平民だのと名乗ったことはないでしょう。あたしたちが勝手に同じだって勘違いしていただけ。騙されたなんて思ってないわ」
その優しさが、心に染みる。
「ジュリアさん……」
彼女はいつもそうだった。
出会ったときも、外から侵入してきたブリアナに対して、対等な人間であるかのように接してくれた。人々から向けられる強烈な差別感情に疲弊していたブリアナにとって、それがどれだけうれしかったことか。
ジュリアから与えられたのは、そう――無償の愛情だった。
「妻と娘が大変お世話になったと聞いています。私からも感謝を」
涙を堪えるように下唇を噛み締めるブリアナの隣に、アシェルが立った。
「ちょっと、妻って……」
「帰国したらすぐにでも籍を入れるのだから、もう僕の奥さんも同然だよ」
「浮かれていたら、また失敗するぞ。お前はいつも詰めが甘いからな」
「うわ、嫌なこと言わないでよ」
二コラに忠告されて、柔和な表情がきりりと引き締まる。ブリアナたち三人の掛け合いに、ジュリアはしばしぽかんとしたあと、目を細めて笑った。
「……この人たちと行けば、あなたは幸せになれるのね」
ああ、とブリアナが口の中で呟く。
「ジュリア、さ――」
一筋零れた涙を、もう我慢することはできなかった。
ジュリアがいなかったら、今のブリアナたちだっていなかっただろう。貧しいながらも、なんとか生活できていたのは、ジュリアのおかげなのだ。
(……寂しい)
国に帰ったら、もう会えなくなってしまう。
寂しさが、現実を伴って押し寄せてきた。
「まあ、泣くほどあたしのことが好きだったの?」
冗談めかしたように言いながら、ジュリアがブリアナの頬を両手で包み込む。堪らなくなって、ブリアナはジュリアに飛びついた。
それをなんなく受け止めたジュリアは、ブリアナの耳元で囁いた。
「あなたのこと、妹のように思っていたわ。本当よ」
夜も更けて、人がまばらになった小路に嗚咽が響き渡る。
ジュリアはその背中をしばらく撫で続けていたが、少しすると体を離して「もう行って」と言った。もうちょっと、と縋り付こうとしたブリアナを、アシェルが優しく引き止める。
「行こう。シャーロットが馬車で待っている」
別れを惜しむあまり、ブリアナが立ち去れないでいると、ジュリアのほうもつらいだろう。そう判断してのことだった。
泣きこそしないものの、ジュリアの目も赤く充血していた。
先ほどジュリアは、ブリアナのことを「妹のように」と言った。
堪えているのだ。
泣かないように。
ブリアナには未練を残さず、国に帰ってほしいから。
「妻と娘の恩人であるあなたへのお礼は、必ず」
ほろほろと涙を零す妻を夫が抱き上げ、三人はその場をあとにした。遠ざかっていくその背中を、ジュリアはいつまでも見送っていた。
次話から母国に帰ります。
明日からラストまで、一日二話更新予定。