20 ごめんはもう終わり
父親の腕の中で、いつの間にか寝息を立てている幼い娘。
――なんという尊い光景だろう。
ブリアナの心の中に、なにかが水紋のように大きく広がっていく。
「……ブリアナ?」
不自然に言葉を止めたので、不安にさせてしまったのか、アシェルが問いかけてきた。ブリアナははっとして話を続ける。
「そう、国を出たのは――侯爵家の方々と王女に見つからないため……だった」
自分の家族を貶められたも当然の発言だ。基本的には温厚な彼のことだから、怒ることはないだろう。だが、傷付けるかもしれないとは思っていた。
それでも、とブリアナは口を開く。
あのころ、なにを考えて、どんな行動をしたのか、少しでも知っていてほしいのだと。
「……妊娠していることが知られたら、僕たちがどんな行動に出るかわからなかったからだね」
すべてを見透かしたかのように、アシェルが言う。
躊躇いながらも、ブリアナは首肯した。俯いたまま口元を震わせたブリアナに、アシェルは「当然のことだ」と同意を示す。
「誓って君が危惧するようなことにはならなかっただろうと言えるけれど、もし相手が遊びだと言った場合、子と引き離されたうえで処分されるか、処分されずとも身ひとつで追い出されるか、母子共々排除されるか……とにかく、そんな感じの物騒なことになってもおかしくはないと、僕も思う」
「それに、たとえ侯爵家の皆さまが受け入れてくださったとしても、王女殿下がお許しにならないと思って」
「……だろうね。手段を選ばないあの王女なら、どんなことだってやりかねない」
呻くように、アシェルが呟く。
「滞在先にこの国を選んだのは、この国の王太子殿下から、国のことをやんわり聞いていたというのがひとつ。どうせ自由に選べるなら、隣の国だし、少しでも馴染みのある国がいいと思って。もうひとつは、周辺国との小競り合い含め、戦争がない国だったからね。子どもを育てるなら、治安がいい場所がいいと思った」
住む場所の自由。働く場所の自由。子どもを育てるための自由。
自由はたくさんあった。けれど、ないも同然だった。
――ブリアナが異邦人だったからだ。
「……国を出るときは、手伝いと引き換えに商家の馬車に乗せてもらってね。とにかく人目につきたくなかったから、最初は北にある田舎町に行った。でも、駄目だった。……わたしの色が黒だから」
そんなこと、商家の人たちは教えてくれなかったとブリアナは切なげに笑った。
数日程度の話ではない。
目的地に辿り着くまで、決して短くはない時間を共に過ごした人たちだったから、裏切られたような気分になったのだろう。商人である彼らが、商売をする相手の文化を知らないはずはないのだ。
「この国の人たちが、どちらかと言えば保守的で、外の人間を受け入れない性質だというのは、知っていた。でも、ここまであからさまなものだとは思わなかったのよね。結局、その街にはいられなくなって、仕事も見つからないうちに移動することになったわ。……お金がないから、物乞いのような真似をしたり、食べ残しはないかと、ゴミを漁ったりもした」
ブリアナは事実を淡々と述べようとして、失敗した。
一度話し出したら、当時の記憶がぶわりと溢れ返り、じわじわと心を蝕んでいく。
唇の震えを誤魔化すために、一度咳ばらいをして、再び話そうと口を開いたそのとき。
「ブリアナ」
アシェルが、娘を抱えているのとは逆の手をブリアナに伸ばす。骨ばった指が、血の気を失った頬を撫でた。
――温かい。
ブリアナはこのとき初めて、すっかり体が冷えてしまっていることに気がついた。寒いからではない。緊張しているからだ。
「……僕は君のことならなんだって知りたいと思っているよ。逆に、僕のことも今まで以上に知ってほしいって思ってる。でも、一気に全部話す必要はないんじゃないかな。できる範囲で、少しずつでも――」
「わたしが」
自身の頬に触れる指先に、そっと自分の手を重ねる。
ブリアナは、翡翠の瞳を見つめて言った。
「わたしが、あなたに今知ってほしいって思ったの」
呼吸が止まった音がした。
「え……」
アシェルは声を出したつもりだったが、実際には、空気が掠れた音となって、喉を通り抜けていっただけだった。
「……わたし、あなたを愛していたわ。こんなことになって、二度と会うつもりはないと思いながらも、嫌いになったりだとか、恨んだりだとか、そんなこともなかった。シャーロットを授けてくれたことには感謝だってしていたし」
「あ、ああ……」
壊れ物を扱うときのように、優しくブリアナに触れていたアシェルが手を引っ込める。そして、顔を俯けると、口元を覆って肩を震わせた。
――愛している。
愛していた。
その差は理解している。
でも、十分だ。
国にいたとき、アシェルは就寝前になると必ずブリアナのことを思い出していた。意図してそうしたわけではない。仕事柄、夜遅くまで起きていることが多く、深夜になるとどうしても気分が落ちてしまうのだ。
そんなときは、必ずブリアナの顔が思い浮かんだ。
彼女が生きていたとして、自分のことをどんなに恨んでいるだろうと。
生きていてほしい。
でも、もしそうであるならば、今、空腹に喘いでいないだろうか。住むところはあるだろうか。危険な目には遭っていないだろうか。身近に助けてくれる人のひとりぐらい、いてくれるだろうか。
そんなことばかりをずっと考えていた。
「とにかく」そんなアシェルに、今度はブリアナから触れる。
貴族らしい見事な金髪に、指先を通した。
「黒は駄目なんだと割と早い段階で気がついて、魔術で色を変えたわ。それでも、魔術で顔のつくりまでは弄れない。たぶん、話し方や発音からも異邦人だというこがわかるんでしょうね。同じ場所に長くいることができなくて、いろんな場所を転々とした」
「……うん」
「シャーロットを産んだ日のことは、まだ覚えてる」
シルクのように美しい金色を指に絡めて弄んでいると、ぴくりとアシェルの肩が動いた。
「そのとき住んでいた家は、小屋みたいな感じのとても小さい家でね、隙間風が通り抜けるものだから、妊娠中だし、これはどうしたものかと考えていたの。そしたら、急にお腹が張ったような感じがしてきて……取り上げてくれる人なんていなかったから、わたし、ひとりで産んだのよ! すごいでしょう?」
ブリアナが笑う。
皮肉でもなんでもなく、試験で満点を取ったことを親に自慢するときのように、誇らしげな笑みだった。
「窓からは、驚くぐらいに明るい星空が見えたわ」
元気に響く赤ん坊の声を聞きながら、ブリアナは酷く満ち足りた気分になった。
たとえそこに、この子には自分しかいないという優越感じみた感情が含まれていたのだとしても、自分がもっと大人になって、苦しいながらも幸せな暮らしをさせてあげなければならないと思ったのだ。
「シャーロットも生まれたことだし、もっと頑張らなきゃって思うでしょう? でも、子連れ――しかも乳飲み子を連れた異邦人なんて、どこに行っても長くは雇ってもらえないのね。そのころにはもう、田舎のほうが差別感情が強いみたいと気がついていたから、最終的に王都に向かうことにして……それからは、ずっとここにいる」
ブリアナの手を掴み、アシェルはそっと顔を上げる。
「今は……どこで仕事を?」
珍しく踏み込んだ質問だったが、ブリアナはなんてことのない顔で微笑んだ。
「工場よ」
「……工場」
「ふふ、貴族令嬢だったころから考えたら、あり得ない仕事よね。ああ、いえ、工場で働く人たちを嘲っているんじゃなくて、貴族令嬢は指先まで磨かれるべし、みたいなところあるでしょう? ……まあ、わたしはもともとあまり貴族令嬢らしくはなかったけれど」
悪戯っぽく肩を竦め、次いで「わたしね」と続けた。
「さっきも言ったとおり、大変な思いをたくさんしてきた」
「……そうだね。ごめ――」
「聞いて」
再び謝罪の言葉を口走ろうとしたアシェルに、ブリアナはぴしゃりと言って聞かせる。
「わたしにとっては、工場で働くのは楽なことじゃなかったし、シャーロットにつらい思いをさせていることもあると思う。そこは、母親としてもっと頑張らなきゃと思うところのひとつだけど」
でもね、とブリアナが言う。
「――わたし、今の自分がとても好き」
自分のことを好きになれたのよ、と。
「……う、ん。そっか……」
アシェルは言葉に詰まってしまって、どうしようもなかった。うれしそうに微笑むブリアナが、酷く愛しかった。腕の中にいる娘もまとめて、全部が愛しかった。
「そうか……」
なにか言わなければと思うのに、言葉にならない。
こんなときこそ「ごめん」といつものように――いや、違う。
それはしっくりこない。
アシェルは唇の端を震わせながら、胸に押し寄せる苦しいほどの感情をそっと噛み締めた。
「苦しいこともつらいことも山ほどあって。もう駄目かもしれないって思ったこともある」
ぐちゃぐちゃになったアシェルの感情に気がついたのか、ブリアナはこう締め括った。
「でも、あなたもたくさん苦しんだんだろうと思う。それなのに、謝り続けられると、わたしたちは先へ進めない。あなたがこうして毎日のように顔を出してくれるのはありがたいけれど、『ごめん』はもう終わり。やめましょう」
今抱えている不安も、もう少し時間が経ったら打ち明けられるようになるかしら、と思いながら。