19 自分についての考察
その日、シャーロットは泣いた。
仕事を終え、迎えに来たブリアナに「帰りたくない」と泣いたのだ。アシェルの言うとおり、二コラは子どもの相手をするのが上手だったらしい。
アシェルと二人がかりで宥めようとしても、二コラにくっついたまま離れない。無理に引きはがそうとすると、「パパ嫌い!」とアシェルを絶望させた。実力行使に出ようとしていた母親でなく、父親だったのはご愛嬌である。
結局、二コラの申し出により、家までついてきてもらうことになったのだけれど――言わずもがな、困窮した生活が目に見えてわかる家に、二コラは顔を引き攣らせていた。
「寒すぎる!」とは、離れないシャーロットを抱えたまま家に入ったときの二コラの言。ブリアナも初めて知ったことだが、きっと二コラは冬が嫌いなのだろう。母子二人の厳しい生活を見かねた二コラは、アシェルと共に翌日も訪ねてきて、薪と食料を置いて行った。
ちなみに、その過程でシャーロットにも魔力があることを暴露し、アシェルが白目を剥きそうになっていた。
「……申し訳なさすぎる」
そんなことが、何日も続いたある日、ブリアナはため息を吐きながらひとりごちた。
「あいつが勝手にやっていることだから、受け取っておけばいいと思うよ」
苦笑しながら、アシェルが言う。
あろうことか、貴族であるというのに、床の上で胡坐をかいて、その上にシャーロットを乗せている。
「でも、二コラさまにはなにも関係ないのに――」
「そんなこと言わないでやってよ。あいつはあいつなりに、君のことを友人だと思っているし、異母妹とそう歳の変わらないシャーロットを可愛がりたい気持ちもあるんだろう」
仕事中、シャーロットを王宮に預けるようになってから十日ほどが経った。
その間、夜になると、毎日のようにアシェルがやって来る。アシェルはアシェルで、二コラ以上にたくさんの物を持ってくるので、ブリアナは少し困ってしまった。
「……シャーロットのためと言われたから、ありがたく頂戴しているけど」
――でも。
ブリアナの中で、不安が頭をもたげた。
自分はいい。
貴族令嬢から平民になって、それなりに苦労をして、いろいろなことに順応してきた。しかし、シャーロットはどうだ。
物がある状態に慣れてしまったら、いざそれがなくなったとき、耐えられるのか。
ここ数日は、アシェルや二コラのおかげで、常に空腹を感じるような生活は送っていない。暖かい服を着て、薪を焚き、食事をすれば満腹になる。
(だけど……)
彼らは近いうちにいなくなるのだ。
二コラに懐き、アシェルを父親と慕っているシャーロットにとって、二人との別れは酷くつらいことなのではないかと思う。
「どうかした?」
声をかけられて、はっと我に返る。
考え込んでいたブリアナの顔を、アシェルが心配げに覗き込んでいた。その腕の中から、シャーロットもまんまるの瞳でこちらを見上げてくる。
「ううん、なんでもない」
苦笑気味に首を振ると、アシェルは心細そうな表情で「ブリアナ」と名前を呼んだ。
「不安なことがあるなら、言ってほしい」
「……不安なことなんて」
「あのとき、僕たちがすれ違った最大の原因は、満足に話し合いができていなかったことだと思う。もちろん、すれ違いなんて簡単な言葉で済ませていいことではないと思っているし、お前が言うなと言われたらどうしようもないんだけど……でも、僕はもう君に苦しんでほしくな――」
「アッシュ」
長く続きそうな懺悔を遮って、ブリアナはシャーロットの前髪をふわふわと触りながら言う。
「もうやめましょう」
「……え」
ブリアナの言葉に、衝撃を受けたように深緑の瞳を見開くアシェル。そこに宿っていた光に翳りが落とされた。
わずかに躊躇ったのち、薄い唇が再度開かれるのを見て、
「嫌だ!」
とアシェルは叫んだ。
飛び上がらんばかりの勢いだったので、腕の中にいるシャーロットが、びくりと震える。ブリアナも驚いた。
「え、何が?」
「ここに来るなという話なら聞かない……聞きたくない。僕が悪いのはわかっている。日常に必要なものを贈ったところで、君の心が戻ってくることはないことも理解しているつもり……だし、かつて君が苦しんでいるときにひとり浮かれていたばかりか、国を出る原因を作ったのに気付きもせず、娘共々大きな苦労を背負わせた男の顔なんて、見たくもなくて当然だと思う。でも……」
小首を傾げたブリアナに、アシェルは怒涛の勢いで言葉を紡ぐ。――もう顔も見たくない。こんなことはやめてくれと、そう言われたのだと感じた。
話の流れから、どうやら盛大に勘違いしているらしいと気がついたブリアナは、口元を緩めて「違うわよ」と否定した。
そこでようやく、アシェルの口が閉じられる。
「もう、二度と会いたくないなんて思っていないわ。……それに、あなただけが悪いわけじゃないって言ったでしょう」
「いや、僕が――」
「だから、それをやめましょうって言ったの」
おそらく本人に自覚はないのだろう。
僕が悪い。
僕がもっとしっかりしていれば。
僕のせいで。
再会してから、こんな言葉を何度も聞いた。心からそう思っているのだろう。ブリアナと別れて以降、ずっとそうやって自分を責めてきたのに違いない。
「あなたは自分が悪かったと思っている」
「それはもちろん……」
「そして、わたしはあなただけが悪かったわけじゃないと言っているわよね」
「……うん」
「でもね、どちらに非があるかとか、そういうのはもう関係ないんじゃないかと思うのよ。どれだけ謝られても、わたしは国を出てから……大変な思いをしてきたわ。ちょっと、あまり思い出したくないぐらい」
言いながらも、過去の記憶を引っ張り出してくる。
「あのとき、あなたが王女殿下を選んだのだと思った」
当時もこれぐらい素直にあれたらよかった。侯爵家の子息と恋仲になっておきながら、身分差を一番気にしていたのは自分だったのだ。
ブリアナは過去の自分を思い出して、反省した。
「違うよ……」
途方に暮れたようなアシェルの声。親を探す迷子のような表情に、ブリアナは「そうね」と頷いた。
「この前、説明されたからそれはもうわかっているけれど。あのころは、あなたの隣に並んで自然なのは、王女殿下のほうだと思っていたの。子爵令嬢のわたしじゃなくね」
「……そう思わせたのは僕だよ。日頃から君に気持ちを伝える努力をしていたら、そんなふうに不安にさせることはなかった」
「そうかしら。あなたがそうしてくれたとしても、わたしは不安になったと思う。だって、わたしはわたしのことが嫌いだったんだもの。そんな人間が、他人からの愛情を真っ直ぐに受け取れるわけがないでしょう」
アシェルが目を見開いた。
「……父は、わたしのことに関心がない人だった。母が商人の娘だったからよ。家の事情で結婚はしたけれど、貴族の出でないことが我慢ならなかったみたい」
「でも……君のおばあさまは確か伯爵令嬢だった人じゃあ……」
「そういう人なのよ、あの人は。いつも目先のことしか考えていない」
だからずっと鳴かず飛ばずの状態なのだ。それを本人は他人のせいにしていたけれど。
「母はとても優秀で優しかったけれど、それだけだった。母のほうも父には興味がなかったというか、おそらくその浅はかさを警戒していたんでしょう。わたしが父に興味を持ってもらえないのも仕方がないと言わんばかりの態度だったわ。……わたしもそのうち、父がそういう人なのだと気がついた」
だが、ブリアナは思う。
自分が同世代の子どもに比べて大人びていたのは事実だけれど、父親を見下すようになったのは、父親の関心が得られないことへの意趣返しのようなものだったのではないかと。――だって、もし父親が愛情深い人であったなら、ブリアナはきっと、どんなに愚かな人でも愛しただろうから。
「母が亡くなるとすぐ、父は邸に愛人と異母妹を連れてきたわ。すぐに彼らが中心の生活になった。愛人だった義母に行動を制限され、時に手を上げられ、異母妹には彼女の侍女の真似事みたいなこともさせられた。唯一自由にできたのは、読書ぐらいだったわ。着飾ることが好きじゃなかった母親が遺した魔術の本を、隅から隅まで読み漁った。たまにこっそり、研究じみたことをしてみたけれど、そんなごっこ遊びが限界」
単なる不幸自慢のような話なのに、アシェルはその顔に悲痛そうな色を滲ませた。シャーロットは、父親の温もりに包まれて、安心しきったようにうつらうつらしている。
――たぶん、自分もこうして愛してほしかったのだ。
けれど、叶わなかったから、興味がない振りをした。
そう気付いたのは、自分が母親になってだいぶ時間が経ったあとだった。
「学園に入るまではそんな生活が続いた。……自分の気持ちを持て余していたのだと、今ならわかるわ。嫌いだったのよ。誰にも愛されない自分が」
「ブリアナ……」
「異母妹は親に愛されないことは恥だと考えていたようだけれど、わたしは違う。恥ずかしくなんてない。それがすべてだとも思わない。ただ、父への関心がなくなっていくのと共に、自分のことが気持ち悪くなっていった」
ブリアナは、遠くを見るように目を細めて「そんなわたしに、あなたが必死で気持ちを伝えたとして、じゃあ不安にならなかったかと言うと、そんなわけがないのよね」と答えた。そして、続ける。
「子爵令嬢で家に力がないだけじゃなく、父に愛されず、勉強ぐらいしか能のないわたしより、立場的にも釣り合っていて、父親に愛され、美しく、自信たっぷりな王女殿下のほうが、あなたの隣にいるべき女性として優れているんじゃないかって……」
「――あり得ない。たとえ僕に恋人がいなかったとしても……あの王女だけは選ばなかったと思うよ」
アシェルが心底嫌気が差しているというふうに眉根を寄せるので、ブリアナは苦笑した。
「あのころのわたしはそう思っていたって話。それで……王女殿下や――あの、あなたのご家族を貶すつもりはないのよ。当時のわたしはそう考えたという話であって、その……」
「わかってるよ。大丈夫」
不安そうなブリアナを、アシェルがやんわり包み込む。
「もっと教えて」
「大変な思いをした」とブリアナは言った。事実だろう。だが、ブリアナはただ自分がいかに不幸であったかを吹聴したがる性格ではない。この話をするのにはなにか訳があるのだ。
どんなことでもいい。彼女のことを知りたい、とアシェルは思った。