18 稀代の魔術師
「なんだその格好は」
――久々に毒を浴びた気分だった。
はっと目が覚めるような美貌を前に、ブリアナは感動にも似た感情を抱く。ニコラ・エンドマンは、再会を喜ぶ様子もなく、まるでつい先日会ったような気安さで声をかけてきた。
本物の美人には、なかなかの迫力がある。
驚いたのか、シャーロットは素早く母親の背後に隠れた。
「ニコラ……」
ニコラから一歩下がった場所に佇んでいたアシェルが、肩を竦める。ブリアナは、己の装いを確認するように視線を落とし、そして苦笑した。
(まあ、生粋の貴族である彼からしたら、みすぼらしい格好に見えるでしょうね)
落とした視線の先で、ワンピースの裾が揺れる。いかにも年季の入っていそうなそれは、教会に寄付されていたものだ。
何も言わなかったが、アシェルだって、再会した当初は驚いただろう。
「……これは」
悪いことをしているわけではないのに、頬が熱を持つ。それを自覚しつつも、咄嗟に言い訳を口にしようとしたブリアナに、大きなため息が降り注いだ。
「見ていて寒々しすぎる。もう少しまともな格好をすべきだろう」
随分と立派なコートに身を包んだニコラは、眉根を寄せて、空中に手を突っ込む。肘から先が消失した――ように見えた。
(魔術だわ……!)
流石、稀代の魔術師と言われるだけのことはある。普通、空間を操る魔術など、こうも簡単にできはしないのだ。
魔力量の多さと技術、それに器用さがなければ、ここまで正確に魔術が発動することはない。
「街中で着ていても、これなら目立たないだろう」
言いながら、ニコラが空中から取り出したのは、一着のコートだった。その言葉どおり、貴族が身に着けるような豪奢なものではなく、街中の店で手に入りそうなシンプルなデザインになっている。新品という感じもしない。
「これは……?」
ブリアナは困惑した。
貴族令嬢から脱落して以降、ジュリア以外の誰かに物をもらったことなどなかったからだ。
「俺が以前着ていたものだ。処分し忘れていた」
「ニコラさまが?」
――まさか、こんな庶民的なものを? あなたが?
そんな驚きが伝わったのだろう。ニコラは億劫そうに、しかし丁寧な手つきでブリアナにコートを握らせ、「街に行くときに着ていた」と軽く説明した。
天才肌の魔術師らしく、ニコラはあまり細々と話すタイプではないが、ブリアナにとってはそれで十分だった。
母国にいたとき、聞いたことがある。魔術師たちは、自分が研究に使う道具を決して他人には選ばせないのだと。魔術師は基本的に貴族なので――稀に貴族の血が入った平民もいるが――特殊な器具などを購入する場合は、魔導具を専門に扱う商会を自宅に呼ぶのが一般的だ。
しかし、時折、流行りものや一般に流通している商品が必要になることもあるので、そういうときは、魔術師自ら買い出しに行くのである。ニコラの「街に行くときに」というのは、そういうことだろう。
「あ、ありがとう……ございます」
体の中に、羞恥心がじわじわと広がっていく。
――情けない。
そう思うのに、受け取らない選択肢はなかった。正直、今年の冬の寒さは昨年よりもずっと厳しい。
自分が体調を崩したら、誰がシャーロットの面倒を見るというのだ。
「……なんだ、その顔は」
ブリアナが胸元でコートを握り締めていると、ニコラが鬱陶しそうに振り返った。その視線の先にいるアシェルは、複雑そうな顔をしている。
ニコラはため息を吐いた。
「だいたい、これはお前の伴侶だろう。これが誰のものを身に着けるかを気にする前に、もっとやるべきことがあるんじゃないのか」
ニコラらしい冷静な指摘だったが、ブリアナはぎょっとした。
「あの、わたし、別に伴侶――」
――ではない。
「うん、わかってる」
咄嗟に否定しようとしたブリアナの言葉に被せるようにして、アシェルが頷いた。諦めず、再び口を開こうとすると、今度は「ごめん」と先手を打たれる。
「アッシュ……」
「本当は僕が用意してあげたかった。けど、僕はニコラみたいに魔術を使って、自分のものを取り出すことはできないし。かといって、新品をプレゼントしたりしたら嫌な気持ちにさせるかもしれないと思って……」
どうしたらいいか迷っていた、とアシェルは言った。
そうやって不安に感じるのも仕方ない。
再会当初――といっても、数日前のことであるが――のブリアナの態度は、相手のすべてを拒絶するものだった。そんなときに、なにか贈り物をされようものなら、迷わず突き返していただろう。
それをアシェルは察していたのだ。
「……そうね。あのときにそんなことを言われていたら、間違いなく、もう二度と来るなと追い払っていたと思うわ」
冗談には聞こえないその言葉に、アシェルは口元を引き攣らせた。しかし、数秒と経たず、気を取り直したように笑みを浮かべて、母親の後ろに隠れている娘に視線を向ける。
自分によく似たアーモンド型の瞳が、アシェルとニコラを交互に見つめていた。
「シャーロットはちゃんと着込んでいるね。寒くない?」
脅かさないよう、腰をかがめて慎重に訊ねる。
少し躊躇う素振りを見せたシャーロットだったが、大人たちが自分の返事を待っていることに気がついたのだろう。
恥ずかしそうにはにかんで、こくりと首を上下させた。
「て、天使……」
そんなシャーロットを前にして、空を仰ぎ、両手で顔を覆うアシェル。娘を愛してやまない自分ですらなかなかしないような反応に、ブリアナは苦笑した。父親とはこういうものなのかしらね、と。
そして、はっとする。
アシェルのことを、自然と「父親」だと思ってしまった自分に驚いた。
「へえ、これがお前の子か」
ニコラが膝を折り曲げて、シャーロットと目を合わせた。
突然目の前に、冷気を纏った彫刻さながらの無表情男が現れたのだ。シャーロットは一度ブリアナを見上げ、次にアシェルに顔を向け、最後におっかなびっくりの顔でわずかに後ずさった。
「似ているな、お前に」
観察するような眼差しでシャーロットを見つめていたニコラが、立ち上がる。
「……うん」
普段、嘘を吐かない人間だからだろう。飾らないありのままの感想に、アシェルは喉を詰まらせながら頷いた。
黒のブリアナと違い、シャーロットは色を変えていない。この国での黒の価値を知ったときばかりは、娘が父親似でよかったと心底安堵したものだ。
「では、ニコラさま。よろしくお願いしますね」
ブリアナは、視線を泳がせている娘の背中を押し出した。シャーロットの望みで結い上げた髪の毛が、ひょこひょこ揺れる。
「よし、見て! シャーロット」
アシェルがシャーロットを抱き上げた。
急激に視線が高くなったからか、「わふっ」と空気の入り混じった声を上げるシャーロット。あたりを見回し、母親の姿を探そうとしたのがわかったが、しかしすぐに、アシェルに「見て」と言われた目の前の建物に目を奪われる。
「大きいねえ……!」
庶民として普通に生きていれば、王宮になど近付く機会は早々ないだろう。しかも、今、シャーロットたちはその敷地内にいるのだ。遠巻きに眺めるのとは訳が違う。
「じゃあ、この……ニコラおじちゃんと、探検してみようか?」
「え……」
父親の腕の中で、興奮気味にはふはふ息をしていたシャーロットが、真顔になる。わかりやすすぎて、ブリアナは笑いそうになってしまった。
「俺はまだ若い」ニコラはニコラで不服そうである。
(えっと、ニコラさまに預けて、本当に大丈夫かしら……?)
一抹の不安がよぎるも、もうどうしようもない。仕事の時間も迫っているし、後ろ髪を引かれる思いを押し殺しながらも、ブリアナはさっさと立ち去ることにした。
実際に二人の相性が良いかどうかは別にして、ニコラが子どもを傷付けるような人間でないことだけは知っている。
「ロッテ、ニコラおじちゃんと――」
「おい」
「お留守番していてね。たくさん遊んでもらうといいわ」
愛らしい額にそっとキスを落として、しばしの別れを告げる。シャーロットは不安げに瞳を揺らしたが、小さく頷くと、アシェルの腕にしがみついた。
もらったばかりのコートに腕を通して、ブリアナは「じゃあ」と背を向ける。
しかし、すぐに一度振り返って、
「第二王子殿下にも、よろしくお伝えくださいませ」
貴族令嬢であったときのように、軽い礼を残していった。