15 二人の会話
「あなただけが悪いわけじゃない。私にも悪いところが――」
「ない! 君に悪いところなんてひとつも……」
この世のすべての責任を負っているかのような気迫で、アシェルが否定する。ブリアナはゆるゆると首を振った。
「いいえ。あなたの言動や取り巻く環境に不安になっていたことは確かだけれど、身分差があるから仕方ない、自分よりあなたに相応しい人は他にいる、所詮こんなものだ……そう思って、最後にわたしは逃げたのよ。あのとき王女殿下に立ち向かえていたら、こうはならなかったかもしれない」
「……違う。君は、貴族令嬢としてごく自然な反応を示しただけだよ」
「不安だったから、あなたと向き合うこともしなかった。だって、直接『遊びだ』と言われたら立ち直れないもの」
それなのに、国を出てからは「きっと遊びだったのだ」と自分に言い聞かせた。
矛盾している自分に気付かない振りをして。
よくあることだと思っていないと、耐えられそうになかったからだ。
「ごめんなさい」
そう口にすると、肩の力が抜けたようだった。
許すとか許さないとかではない。
ブリアナが過ごしてきた過酷な日々は消えないし、忘れることもないだろう。あのころの悪夢に、一生悩まされ続けるのかもしれない。
だが、捨てられたわけではなかった。
アシェルはアシェルなりに、ブリアナを守ろうとしただけだ。必死になるあまり周囲が見えなくなるなんていうことは、間々あることである。原因を求め始めたら終わりはないが、最たる加害者は王女ただひとり。国王は――愛情に目が曇っていただけだ。
現に、目が覚めたあとは実に彼らしい判断を下している。
ブリアナが苦しんだことは変えようのない事実だが、アシェルもまた苦しんだ。簡単に割り切ることができなくとも、今はそれでいいではないか。
ブリアナは小さく笑った。
「アッシュ、顔を上げて」
「……いや……」
「君が謝る必要はない」と頑ななアシェルに対して、ブリアナは再び小首を傾げることとなった。――こんなに頑固な人だったかしら?
いつまで経っても頭を上げようとしないので、仕方なく話題を変える。
「そういえば、どうしてわたしがここにいるってわかったの?」
そう言われてやっと、アシェルはのろのろと体を起こした。
目が充血している。
「君を見かけたから……」
「わたしを?」
「うん。……実は、外交で異国を訪れるのは初めてで。こちらの国の王太子殿下が、王都の様子を見てきてはどうかと提案してくださったんだ」
「ああ……」
言いそうだとブリアナは苦笑した。
数年前までは第三王子という自由な立場にあったはずの、現王太子。結局、二人の兄が病弱だということで次期国王に指名されたが、第三王子という身分を活かして、ブリアナたちが通っていた学園に留学していたことがあるのだ。
さして親しくはないものの、アシェルとの付き合いがあったので、ブリアナにとっても顔見知りである。
「それで、王太子殿下がつけてくださった護衛たちと、魔導具で姿を変えて街を散策していた」
「魔導具で姿を変えた? そんなことができるの?」
驚いて、アシェルを見る。
魔導具とは、国に仕える一流の魔術師たちが研究開発して生み出す発明品であるが、少なくとも、ブリアナが祖国で暮らしているときには、そのような魔導具の存在など聞いたことがなかった。
瞳に光を灯したブリアナに、アシェルが表情を緩める。
「二コラ主導で、二年ほど前に開発されたんだ」
「……流石、稀代の魔術師と言われるだけあるわ」
「うん。まあ、使い方によっては悪用もできてしまうから、今の段階では、魔術師の指導がなければ使用許可が下りないようになっているんだけど。それに、他国で使用する場合には、その場の責任者の許可もいる」
この場合、この国の王族および使節団の代表の許可を得て、二コラ指導のもと使用したということだろう。
ブリアナはほうと息を吐き出した。――稀代の魔術師二コラ・エンドマン。母親の胎内から出てきたとき、魔力で出来た氷の薔薇を手にしていたという逸話があるだけのことはある。本人は「そんなことあるわけないだろう」と鼻で嗤っていたが。
「そういえば」
思い出したように、ブリアナが言った。
「二コラさまといえば、あなたから魔力の香りがしたと言っていたわね。二コラさまだからとつい納得してしまったけど、あれはどういうこと?」
――そんな能力、聞いたこともない。
専門家には遠く及ばないが、専門書含め、あらゆる書籍を読み漁ってきたブリアナですら、魔力の香りなどというものには遭遇したことがなかった。
「ああ、僕もこの件で初めて知った。殿下は知っておられたようだけど、本人は『聞かれなかったから言わなかった』と平然としていたな」
アシェルが苦笑して言う。
そして、「なににしても」と続けた。
「超一流の魔術師の中には、香りで魔力の有無を嗅ぎ分けられる人間がいるらしい。ラポワでそれに該当するのは、二コラ以外にはあと数名程度だと言っていた」
「香りって移るものなの?」
「魔力が多いとそういうこともあると聞いたよ。もちろん、それが本人のものか否かはわかるって」
ブリアナに自身の魔力量はわからない。ただ、いつか調べてみたいとは思っていた。今は、同じ魔力保持者のシャーロットがいるのでなおさらだ。
「……じゃあ、わたしに魔力があるということも、昔から知っていたのかしら」
ブリアナは小首を傾げた。
「君と僕のことには無関係だと思って確認していないけど、たぶん、知っていたんじゃないかな」
ようやく緊張が抜けてきたのか、わずかに体勢を崩しながらアシェルが言う。
「ああ見えて、意外と人のことを見ている人だからね。君になにか込み入った事情があることに気がついていたとしても、不思議じゃない」
確かに、とブリアナは心の内で同意した。
自他共に認める天才二コラは、一見するとあまり他人に興味がなさそうに思える。でも、実際には、意外と他人の顔色をしっかり窺っている人なのだ。
(……口が悪いときもあるけど)
氷の彫像のようなアシェルの友人を思い出しながら、ブリアナは「それよりも」と話を戻した。
「よくわたしだって気がついたわね。髪の毛と瞳の色を変えているのに」
感心したように言うと、アシェルは驚いたようだった。
――どうしてそんなことを?
まるで質問の意図がわからないというように目を瞬かせて、しかしすぐ口元に笑みを湛える。
「……気付くよ」
それは、春に吹く風のように温かみのある声だった。
「どんな色でも」
淡く透き通った深緑の瞳が、柔らかく細められる。
「だって――」
ブリアナの心臓が、大きくひとつ鐘打った。
恋仲になった当初によく感じていた雰囲気だ。王女に煩わされるようになって、いつしか二人の間には緊迫した空気が流れるようになっていたけれど、アシェルのこの穏やかな佇まいが好きだった。
そのとき、不意にノックの音が響く。
互いに息を呑み、しばし見つめ合った。
「ブリアナ」
ジュリアの声だ。
「はい」ブリアナが返事をすると、遠慮がちに扉が開かれる。
「お邪魔しちゃった?」
「いいえ、そろそろ切り上げようと思っていたところです」
「そう、良かった。あの、オーナーが……」
ジュリアが申し訳なさそうに視線を落とした。
――オーナーが……。
そのあとに続く言葉は「早く帰ってくれ」というところだろう。わかっている。ジュリアが同情する必要はない。
「空き部屋を貸してくださってありがとうと伝えてもらえますか?」
苦笑しつつ立ち上がると、ジュリアはやはり物言いたげな顔をして頷いた。「ええ、わかったわ」
ブリアナに合わせて、アシェルも腰を持ち上げた。
(改めて隣に並ぶと、昔よりちょっとがっしりしたみたい)
そんなことを思いながら、シャーロットのもとに向かう。
「ロッ……」
扉を開けて、思わず口を噤んだ。
シャーロットはいた。
ただ、いつもならすぐさま飛び付いてくるはずの娘は、床に座り、困惑した表情で目の前の人物を眺めていた。
「……アルマさん?」
酒場店主のひとり娘、アルマを。