14 「許します」
事件の真相はここまで。
「そんなこと……」
――あるのだろうか。
言葉を失うブリアナに、アシェルが淡々と説明する。
国との兼ね合いで、側妃としてラポワに嫁いできたリルレット公国の末姫。彼女はそもそも、側妃となる己の立場に不満を持っていた。
誰からも大事に育てられてきた自分が、側妃。――つまり二番目。
それも、ラポワの国王は王妃との間に子を授かれなかった期間が長いらしく、自分とは親子ほども年齢が離れているという。
到底受け入れられなかった。
だが、ここで拒否するわけにはいかないし、たとえそうしようと思ったところで、大国ラポワとの縁談を握りつぶす術はない。
好きでもない中年男と初夜を迎えなければならない憐れな自分のために、彼女は自国で流通している媚薬を持参することにした。
市井でも広く使われているもので、侍女に頼めば入手するのは簡単だった。庶民の間では、夫婦の営みのために、医師監督のもと量を調節して処方されるものである。
家族に見送られ、泣く泣く母国を離れた末姫だったが、ラポワの国王と対面すると涙も引っ込んだ。すべての憂いが霧散するのを感じた。
(……素敵な人ね)
王女は人生で初めて恋というものをした。
どうやら媚薬を使う必要もなさそうだ。
問題なく初夜も完遂した。
幸せだった。
若く美しい自分は、愛されるに違いない。そう思えるような時間だった。
しかし、待ち受けていたのは思っていたような生活ではなかった。
甘やかされて育った公国の末姫は、輿入れした国の言葉を満足に話せなかったのだ。簡単な会話はできる。ただ、それだけだった。
とてもではないが、政務を任せられるような状態ではない。
「姫よ、早急に言語を習得し、我が国の嗜みを身に付けなさい」
そう命じた国王の表情は穏やかだったが、わかってしまった。
自分は側妃として――ラポワの人間として認められなかったのだと。
悔しかった、と側妃は言った。
本当は母国を離れたくなかった。そんな気持ちを押し殺し、国のために嫁いできたというのに、唯一味方でいなければならないはずの夫に認められなかったのだ。
側妃には言語学を扱う教育係が新たにつけられたが、どうして自分がこんな目に、と感じたという。
以降、国王が側妃のもとを訪れることはなかった。
しかし、状況が好転する前に、側妃の懐妊が発覚。初夜の一度のみで出来てしまったのだ。
「勉強なんてしたくなかったのよ。だって、私を蔑ろにする国のために、どうして私が努力しなければならないの?」
側妃はそう語ったという。
この親にしてこの子あり。
アシェルは苦笑した。
姫は姫のままだった。
子が腹の中にいるときは、不思議な心地だったと側妃は話す。違和感しかなく、得体の知れないものを体内に入れているような感覚だったと。
「しかも、産まれてきたのは女。がっかりだわ」
もしそれが男だったら、自分の立場も良くなるのではないか。
そう思ったそうだ。
だが、実際に誕生したのは王女だった。
落胆し、何もかも投げやりになりたい気分だったが、意外なことに、国王は王女の顔を見るためにたびたび後宮を訪れるようになった。
二人いる王子には一線を引いている国王も、相手が王女となると別らしい。それはもう溺れていると言ってもいいような愛し方だった。
王女が愛らしく育つ限り、国王は自分のもとに通ってくる。
そう学んだ側妃は、育児を乳母任せにせず、できるだけ自分も関わるようにした。王女が母親に懐いていると知った国王は、側妃に対して口うるさく言うこともなくなっていった。
側妃は喜んだ。
いつの間にか、自身が持ち込んだ媚薬のことなど忘れて。
「なら、王女殿下に媚薬を渡したのは側妃殿下ではないと……」
まさかそんなことになっていたとは。
どうやら自分が思っているより大事になっていたようだ、とブリアナはため息を吐いた。
「うん。側妃は紛失したと言っていた。彼女の性格を考えると、虚言を吐いている可能性もあったけど、まあ、媚薬の出所はひとまずわかったわけだからね。王女を理由にのらりくらり側妃としての教育を逃れてきた彼女は、国によって守るべき法が異なるということに思い至らなかったらしい。あれが違法薬物だと知って、陛下に泣きついていたよ」
肩を竦めながら、アシェルは「まあ、ただ違法薬物を持ち込んだというだけなら、まだやりようがあったんだろうけど」と付け足す。
小国出身とはいえ、彼女はれっきとした姫である。
流石に廃妃にするわけにはいかなかった。
「基本的に、陛下はあまり側妃に関心がない。他国の姫で、溺愛する王女の母親だからと優先していただけで、その怠慢さにはずっと辟易していたみたいだね。まあ、あのお方の場合、側妃に興味がなかったというか……もともと『自分は国と結婚したのだ』と公言しておられるし」
王妃も似たような考えの持ち主なので、王妃とはうまくいっていた。それだけのことだろう。
(それに関しては、側妃殿下のお気持ちもわからなくはないわ……やっぱり、価値観のすり合わせって大事ね)
国王はそのへんも無能ではない。
他国から嫁いできた側妃がそのような人間だと知っていれば、もっとうまいこと転がしただろう。
だが、初夜を迎えた時点で、側妃の無教養さに気がつき、自らのことに集中させるつもりで放置してしまった。側妃は不満を漏らすことなく己の内に抱え続け、国王から愛されない自身をただひたすら憐れみ続けたのだ。
娘を育てながらも、娘自身には興味がなかった。
どのように育ったかなど気にしていなかったので、王女が権力を振りかざし、あちこちで問題を起こしていることも知らなかったのだ。
教えてくれる者もまた、いなかった。
「今、側妃殿下はどうしていらっしゃるんでしょう?」
純粋な疑問だったが、アシェルはやや不満そうに眉根を寄せた。
「あれでも元は他国の姫だからね。簡単に廃妃にするわけにもいかないし、生涯にわたって離宮に隔離ということになったよ」
ブリアナは驚きに目を瞠った。
「そんなに?」
「そんなにって……いや、まあ、そうだね。現実的に考えれば、ただ違法薬物を所持していただけだ。あの人の立場を考えると、本来、厳重注意がいいところだっただろう。……何もなければ」
「……何もなければ」
異国にいるという喋る鳥のように、ブリアナが繰り返す。
「妃という身分を持ちながら、己のことばかりで国に関心がないのが一番の罪だと陛下はおっしゃった。そこを重く見たんだろう。時間はたくさんあったのに、自分に都合の良い言い訳を考えるばかりで何もしなかったと」
それは、とブリアナは側妃を思う。
基本的に、ラポワの善良な貴族は、特権には必ず責任が付随するという考えなので、側妃のような態度は端から受け入れられなかっただろう、と。
「それで」とアシェルは話を続ける。
「証言を取りながら調査を進めていくと、側妃につけられた侍女のひとりが媚薬を持ち出し、それを王女とはまったく関係のない下働きの人間に手渡したことがわかった。その後、複数の人間を経由し、最終的には王女の護衛騎士、そして乳母へと渡った。この経路を考えたのは、あの男爵家の次男を惑わせた怪しい男だったようだね。この男を追及してやっと、君に盛られたのも同じ薬だと判明した。会場に持ち込んだのは王女本人で、それが護衛騎士を経由して給仕人に渡り、君とあの男爵家の男の口に届いたと」
その怪しい男は、以前、王女の婚約者候補として名前が挙がったことのある伯爵家の嫡男だった。王女が「伯爵家になど嫁ぎたくない」と拒否したことにより、この話は立ち消えることになったという。
だが、この男は王女に対して崇拝にも近いような感情を抱いていた。それを利用して、ブリアナを排除することにしたというのが、事の顛末だった。
「――それで、あの日」
「え……?」
「ブリアナがうちの邸を訪ねてきてくれた日……」
「……あ、ああ」
すっかり壮大なひとつの物語を聞いているような感覚になっていたブリアナは、突然水を向けられて戸惑った。
ただじっと座っているだけだというのに、疲労感がすごい。
(……知らなかったけれど、たぶん、この人って説明が下手なのよね。昨日も思ったけれど、過度に緊張すると話があちこちに飛ぶみたい。お仕事中は大丈夫かしら……)
余計な心配をしつつ、ブリアナは「あれはなんだったんでしょう?」と続きを促す。
「結局、多数の証言が集まっただけで、王女が犯人だという確たる物証は挙げられなかった。もちろん、状況を鑑みれば証言だって立派な証拠ではあるんだけど、陛下に納得していただくには、王女本人から証言を引き出すしかないということになって」
「それがあの日だった?」
「そう。実はあのとき、邸の中には王太子殿下と宰相閣下もいらしたんだ」
「……え?」
「まあ、王女はついに求婚されるのだと、意気揚々とうちの邸に来たんだけど」
「そんな話は一度もしていないのに、不思議だよね」とアシェルは吐き捨てるように言った。よほど腹に据えかねているらしい。当然のことだが。
「ちょっとおだててやったら、流れるように自分がやったことを話し出したよ。面白いぐらいに簡単だった。最初からこの方法を取っておけばよかったと思えるぐらいにね」
ブリアナの顔が引き攣る。
(それは……)
――どう見ても、悪人のやり方である。
「そもそも王女は、あの事件のことを悪いことだとすら思っていなかった。僕に付き纏う女を穏便に遠ざけてやったとすら考えていたらしい」
王女の中で、アシェルは自分を愛していることになっていた。ブリアナのことは一時の遊びで、ある程度満足したら王女に求婚するはずだったのに、性質の悪い女に執着されてしまったせいで別れることができずに困っている。
頭の中でそんな妄想が繰り広げられていた。
「こっそり話を聞いていた王太子殿下と宰相閣下が現れて、その罪を突き付けられたとき初めて何かがおかしいと気付いた様子だったけれど」
「……王女殿下にとって、あれは正しいことだったんですね」
高貴な自分以外の人間は、利用できる父親以外、どうでもよかったのだろう。腹が立つやら悲しいやらで、ブリアナはどこに自分の気持ちを持っていけばいいのかわからなくなった。
唯一はっきりしているのは、すべてが明らかになったからといって、過去や現在が変わるわけではないということだ。
「今まで王女を庇い続けてきた陛下も、これには流石に閉口せざるを得なかったみたいでね。以降も人のせいにしたりするばかりで、まったく反省の色が見られなかったことから、最終的にはあの砂漠の国のハレムに送り込まれることになったんだ」
事実上の追放である。
一国の王女が愛人という身分になり、そのうえ奇跡的に子が出来たとしても王位継承権は与えられず、しかも彼の国の国王はかなりの老齢だという。
最後にブリアナが彼の国の話題を耳にしたときにはすでに、支えがないと歩行するのも難しい状態であるということだった。先は長くないだろう。
「その、王女殿下は……彼の国の国王のことを……」
――知っているのか。
そう訊ねようとしたが、やめた。
ブリアナが気にするべきことではない。
「改めて言う。本当に申し訳なかった」
妙に力の入った声でそう言いながら、アシェルは深く頭を垂れた。
「あ、いえ……」
「いや」
平民の価値観がすっかり染みついてしまっているブリアナが、半ば反射的に受け入れようとする。しかし、アシェルは首を振った。
「君に許してほしいとか、そのような気持ちで伝えたわけじゃない。自己満足だと思ってくれていい。あのあと、最後に見た君の顔がどうしても気になって、王女のことを王太子殿下に丸投げして、子爵家を訪ねた。子爵は心を病んだ君が勝手に出奔したのだと言っていたけれど、君の異母妹は素直だった。君を探しに行こうとしていた僕を追いかけてきてまで、父親の仕打ちを話してくれたよ。……子どものことは知らなかったけど」
このときばかりは、異母妹の考えが手に取るようにわかった。
許せなかったのだろう。
両親に愛される自分はなかなか縁談が決まらないのに、子爵家の醜聞となったはずの異母姉には恋人がいる。しかもそれは上位貴族の男だ。このままでは、異母姉が幸せになってしまうかもしれない。
(あの子、親に愛されないことを恥ずべきことだと考えていたものね。おおかた、親にも愛されないような人間なんだと告げ口すれば、この人が愛想を尽かすとでも思ったんでしょう)
相変わらずだこと、とブリアナは息を吐き出すように苦笑した。
「……君のことは、一日だって忘れたことはなかった。必死で捜したけど、見つからなくて――」
「伯爵さま……」
「こんなことを僕が言うのは間違っているとわかっている。……でも、生きていてくれてうれしい。うれしい――ごめん。ごめん……っ」
――ぽたり。
床の上できつく握り締められた拳の上に、水滴が落ちる。
(え……)
アシェルが泣いていた。
肩を震わせて泣いていた。
「アッシュ……」
ブリアナが思わず呟いたそれは、思いのほか部屋に響いた。
嗚咽が大きくなる。
「……もう、いいわ」
今度こそ本心から零れ落ちた言葉だった。
明日から三日間は朝夕の二度更新予定です。