13 媚薬の持ち主
しんとした空気が流れ込む。
情熱的であるはずの言葉とは裏腹に、熱を伴わないひんやりした沈黙だった。
(愛して……え……?)
ブリアナは茫然自失したように目を見開き、体を硬直させた。そんなブリアナの反応など予想の範疇だったとばかりに、アシェルは目を細める。
「……君が驚くのも無理はない」
「あ、いえ……あの、先ほど、媚薬事件の犯人は王女殿下だったと……」
――わたしだって愛していた。
そんな言葉を飲み込んで、ブリアナは訊ねた。
王女が犯人であろうことは、ブリアナにだって予想できたことだ。むしろ、あの状況において、単なる子爵令嬢でしかないブリアナが狙われるとすれば、理由はアシェル以外にないだろう。
アシェルが理由なのであれば、怪しいのは王女以外にない。
アシェルは「うん」とひとつ頷いて、話を続けた。
「まず、ブリアナが媚薬を盛られたのは舞踏会の最中だよね。でも、実際、会場に不審物を持ち込める人間なんて限られている」
「あ……」
「通常の夜会なら話はまた別だけど、王宮で開催される――王家主催の舞踏会ともなると、入場前に所持品検査があるだろう?」
そういえばそうだった、とブリアナは思い出す。
王族や王家の血を受け継ぐ公爵家が参加する舞踏会では、通常の夜会より厳重な警備体制が敷かれる。不審物の持ち込みなどあってはならないことだからだ。
「でも、それを免れる者たちがいる」
「……王族」
「そう。我が国の王族で、あの舞踏会に参加していたのは、国王陛下と王妃殿下、舞踏会の主役である王太子殿下、それから第二王子殿下と王女の五名」
王女の生母たる側妃もいるが、彼女は表舞台にはあまり現れないので、その日も欠席していた。
「まあ、そんなことを考えずとも、端から怪しいのは王女ただひとりだったんだけど、捕縛された男の証言で、それはより確信に近いものとなった」
「捕縛された男?」
ブリアナが短く訊き返す。
「……あの、ブリアナを襲った」
そのへんはさらりと流してしまいたかったのだろう。
アシェルは言い淀みながらも、やけに早口でそう答えた。
しかし、アシェルの予想に反して、ブリアナは「ああ、あの人」と淡白な反応を返すのみだ。
(王女殿下は『婚約者でも夫でもない男に穢されるなんて』とおっしゃったけど、やっぱりこの人で良かったんだわ)
もっとも、それは単に不幸中の幸いという事実でしかないのだが――。
アシェルは、しばし呆けたようにブリアナを見つめていたが、すぐに気を取り直して言葉を紡ぐ。
「あれは男爵家の次男だった。家族とうまくいかず、このままでは平民になってしまうと焦っていたところに、見知らぬ男から声をかけられたんだそうだよ。『子爵令嬢を少し脅かせば、さる高貴なお方のそばに取り立ててやってもいい』と」
「高貴なお方? ……子爵令嬢」
「王女と君のことだね」
ブリアナは呆れてしまった。
家の事情や利権などが絡んでいない以上、これは所謂色恋沙汰である。多かれ少なかれ、こういった争いは平民にもあるだろう。
ただ、ここまでするとなると、とても正気とは思えない。
「それで、結局、その時点では君に使われた媚薬の種類も出所もわからなかったんだけど、あの男にもまた違った種類の媚薬が使用されたのではないかという疑惑が持ち上がった」
「……そうなんですか?」
「うん。あの男も、あそこまで……しようと思っていたわけじゃなかったらしい」
翡翠色の瞳が泳ぐ。
そんなアシェルを、「やっぱり別人みたいだわ」とブリアナはまるで他人事のように眺めていた。
「指示を出してきた男の言う通り、少し怖がらせるだけにしようと思っていたと。ただ、君を目の前にしたら情欲が抑えられなくったと言っていて、そこから、媚薬の使用が疑われるようになった」
子爵令嬢をただ怖がらせるだけでいいというのなら、他の方法はいくらでもある。普通の貴族令嬢であれば、言葉で脅しただけでもかなりの威力を持つだろう。
(……既成事実を作るというのは、正直かなり危険なことだわ)
男爵家次男の状況を鑑みるに、最たる悪手と言ってもいい。
普段から遊んでいる令嬢ならいざ知らず、ブリアナのように基本的には真面目な令嬢の純潔を奪ってしまった場合、その令嬢を娶らなければならなくなることがほとんどだ。
そうなれば、確かに彼の望んでいた「貴族でいること」は叶うかもしれない。
ただ、アシェルは言っていた。「さる高貴なお方のそばに取り立ててやる」という甘言に惑わされたのだと。
だとすれば、一介の子爵令嬢と婚姻を結ぶより、はるかにそちらのほうが良いように思える。甘い言葉に簡単に引っかかるような男だ。高貴な誰かと子爵令嬢を天秤にかけて、子爵令嬢を選ぶとは思えない。
「あの男も緊張していたんだろうね。その日、会場では一杯のワインしか口にしなかったらしい。しかも、そのほとんどをあるひとりの令嬢に引っ掛けてしまったと言っていた」
「……ご令嬢に……」
「注意散漫になっていたんじゃないかな。たまたま通りかかったご令嬢とぶつかり、派手にワインを浴びせてしまった」
ブリアナは、見たこともないその令嬢に心底同情した。
被害者であるとはいえ、王族も参加する――それも、王太子の生誕祭である舞踏会で悪目立ちすることになろうとは、思いもしなかっただろう。
「心の傷になったでしょうね」
思わず本音を零したブリアナに、アシェルはうんと頷く。
「ただ、偶然、その近くにフィリドール公爵夫人がおられたようで、急きょ、侍女を手配して新しいドレスを与えたと」
「……ミレーヌさまが?」
「あの人は、厳しいところもあるけれど、情に厚い女性だから。悲惨な目に遭って泣く令嬢を放っておけなかったんだと思うよ」
――ミレーヌさまらしいわ。
凛とした立ち姿と柔和な笑みを思い出して、ブリアナは小さく微笑んだ。
「脱いだワインまみれのドレスは、ひとまず王宮で保管されていた。公爵夫人が気を使って、こちらで処分すると申し出たんだそうだ。そこを、あの男から話を聞いた僕と第二王子殿下が、物証……になるかもしれないものとして、押収した」
「やはり媚薬が?」
「結構な濃度だったよ。まあ、ラポワでは流通していない類の媚薬だから、成分が判明するのにかなり時間がかかってしまったけれど」
早く。早く解決しなければ――。
そんな気持ちばかりが募って、肝心のブリアナを置き去りにしてしまった。アシェルは深く息を吐き出した。
「すぐに経緯は説明するけど、結果をまず言うと、君に使用された媚薬と同じものだった」
「え?」
ブリアナが素っ頓狂な声を上げる。
「同じ媚薬? でも……」
当時のことを思い出して、小首を傾げた。
ブリアナは息も絶え絶えの状態だったというのに、あの男はとてもそうは見えなかった。情欲を抑えられなかったと言っていたらしいが、自分の意思で体を動かせる程度には自由だったはずだ。
あのとき、押さえつけられた感覚が蘇ってきて、ブリアナは無意識に右手首をさすった。
「その疑問はわかるよ。たぶん、摂取した量が違うから反応に差が出たんだろう。同時進行で、どのような経路で媚薬が混入されたのかというのも調べていたんだけど、間に複数の人間を挟んでいるせいで、なかなか王女まで辿り着けなくてね。結局、成分のほうから攻めていくことになった」
「……ええ」
「検出されたのは、ある国が独占権を有している植物のエキスだった」
「ある国?」
「……リルレット」
ブリアナははっとする。
「それって……」
リルレット公国。
ラポワの東に位置する小国で、その面積は、ラポワの王都と同等だと言われている。そんな規模であるのにもかかわらず、他のどの国よりも商業が盛んな国だった。
だが、その国の名前に聞き覚えがある理由は、もっと別のところにある。
「まさか、妃殿下が関わっていらっしゃると」
妃殿下といっても、側妃のほうだ。
つまり、王女の母親のことである。
リルレット公国は、彼女が生まれ育った国だった。
基本的にあまり顔を見せないので、ブリアナにはそれがいったいどんな人物であるのか、あまり想像はつかなかった。
記憶にある限りでは、小柄で、国王の隣でただ微笑んでいる女性という印象だ。国王以外の誰かと会話をしているのは見たことがないし、正直に言えば、政務に励んでいるということも聞いたことはなかった。
「厳密に言うと、側妃か、国からついてきた侍女たちか、だね」
次第に大きくなっていく問題に、ブリアナは顔色を悪くする。
ここまで来ればもう、結婚云々だけでは済まされない。国家間の事件になってもおかしくないだろう。
「それで、流石に僕たちだけではどうしようもないということになって、王太子殿下が陛下からの許可をもぎ取り、側妃に直接尋問を行うことになった。結果、確かに側妃は件の媚薬を所持していたそうだ。輿入れする際に国から持ってきて、いつか使う機会があるかもしれないからと侍女たちに管理を任せていたそうだよ」
「でも、ここまで効果が発揮される媚薬は、確かラポワでは違法薬物に指定されているはずです、よね……」
ブリアナが、自信なさげに言う。
アシェルは再び頷いた。
「うん。ところが、側妃は知らなかったんだそうだ。彼女の母国では禁止されていないから」