10 すれ違いの結末
「王女殿下」
それを止めたのは、アシェルである。
声が掠れている。
王女は、うっとりと翡翠の瞳を見上げて「少し口が悪かったかしらね、ごめんなさい」と肩を竦めてみせた。
「……とりあえず、お入りください。両親もお待ちしております」
アシェルが、王女の背中に手を回す。
「まあ! それは急がないといけないわね」
王女の声が興奮に上擦った。
贅沢の限りを尽くしたような美しいドレスが翻る。
――美しい。
ブリアナは、なんの感慨もなくそう思った。
正式に王子の友人として認められているだけでなく、本人も優秀で、人望があり、将来の地位も約束されているアシェル。国王の愛情を一心に注がれているお姫様。
呆然とブリアナが立ち尽くしていると、思い出したように王女が振り返った。必然的に、アシェルも足を止めることになる。
「今は気分が良いから、特別に最後のお別れをすることぐらいは許してあげるわ。どうせお前、修道院にでも入るのでしょう?」
「……修道院?」
そう声を上げたのは、アシェルだった。
王女はおかしそうに肩を揺らす。
「そりゃあね」
小鳥が囀るような可憐さで、王女は口ずさんだ。
「傷物になった女の末路など、そのようなところでしょう。社交界に出ても針の筵でしょうし、むしろそちらのほうが幸せなのではないかしら?」
ブリアナは思わず笑ってしまった。
言葉は刃だ。
ずたずたに引き裂かれて、どこを「痛い」と言えばいいのかわからなかった。
「殿下……では、彼女に別れを告げたいので、中でお待ちいただけますか? 二人きりにならないよう、我が家の使用人をひとり付けますので」
「良くてよ」と高飛車に言い放った王女は、つんと顎を上げ、護衛たちを引き連れて、侯爵邸の中に吸い込まれていった。
甘ったるい匂いが残されて、ブリアナは途端に気分が悪くなった。
「……わ、わたしも……帰ります」
――別れを告げると言った。言ったのだ!
この瞬間、ブリアナの中には確かに「嫌だ」という感情が芽生えた。
別れたくない。違う。そうではない。
まだ存在しているかどうかも実感のない、けれどどうやら本当にいるらしい、もうひとつの命を失いたくないと思ってしまったのだ。
再三に考えたことが、再び頭の中に浮かぶ。
――王女に子どものことを知られてしまったら?
もともと、気分の浮き沈みが激しい性格なのだろう。そんな王女に目を付けられてしまったら、もはや貴族令嬢ですらなくなるブリアナに、立ち向かう術はない。
「いや、待って。別れるというのは方便というか、王女の手前、ひとまずああ言うしかなくて……ああ、違うな。本当に申し訳ないことをしたと思っている。ろくに連絡もしないで、ふあ――」
「だ、大丈夫です!」
冷静に考えれば、婚約してもいない未婚の令嬢を孕ませたというのは、侯爵家にとっても大きな醜聞になり得る事態だ。
ブリアナも、アシェルの両親とは面識があるが、彼らは良くも悪くも貴族的な人たちだった。ブリアナの父親ほど偏っておらず、けれど、貴族は貴族としての義務を果たすべしと考えているような。
そんな人たちが、ブリアナの妊娠を快く受け入れてくれるかというと――。
「……ブリアナ?」
重苦しい空気の中、アシェルが心底困ったというふうに、眉を垂らす。
ブリアナは、思わず笑みを取り繕った。
「突然来てしまって、ごめんなさい。困らせるつもりなんてなかったわ。王女殿下がいらしていることも知らなくて……でも、本当に大丈夫です。最近、あなたってば学園に来ていなかったでしょう。今頃どうしているのかしらと思ったら、居ても立ってもいられなくなってしまっただけなの」
ブリアナの口から、ポロポロと言葉が零れ落ちていく。それと同時に、大事な何かが失われていくような喪失感に襲われた。
だが、ブリアナは止まれなかった。
ボロ布を纏い、本物のお姫様を前にして、かつての恋人にすら虚勢を張らなければいけない自分が酷く滑稽に思えたからだ。
「ブリアナ」
困惑気味に呟いたアシェルの手が伸びてくる。
「アッシュ」
それを自身の手で受け止めて、ブリアナは精いっぱい微笑んだ。
消えてしまいそうな、儚げな笑みだった。
「――わかってる。早く王女殿下のもとに戻ってあげて。あなたにはきっと、なすべきことがあるのでしょう」
アシェルははっとして、ブリアナの顔を見つめる。それから、低く呻くようにして「そうだね」と呟いた。
その反応に、ブリアナの心は深く傷付けられる。
「話はまた今度しよう。君の馬車は……見当たらないけれど、もしかして歩いてきたの?」
ええ、とブリアナが頷く。続けて「ちょっと遊びに行く程度なら、わたしがよく歩いて出かけていたのを知っているでしょう」と言うと、アシェルは「そうだった」と目を細めた。「君はどれだけでも歩く人だった」とも。
次いで、後ろを振り返り、背後に控えていた使用人に何事かの指示を出す。
「うちの馬車で送ろう」
「え……あ」
咄嗟に断りを入れようとしたブリアナに苦笑したアシェルは、「いいから」と反論を封じ込めた。
「まだ太陽が出ている時間帯とはいえ、もうすぐ暗くなるだろう。それに、町娘のような格好をしているからといって、必ずしも安全なわけでもない。本当は僕が付き添えたら一番なんだけど、王女殿下を待たせるわけにはいかないから……」
そう言って、アシェルはブリアナを侯爵家の馬車で、ル・ヴォー子爵の邸まで送り届けることにした。
このときの二人は、確実にすれ違っていたと言っていい。
言葉も、態度も、行動も。
また、人選も。
ブリアナを送り届けた御者は、縁故採用にて、キュヴィリエ侯爵邸で雇われたばかりの、社会に出て間もない青年だった。
邸では、アシェルの指示により、「ル・ヴォー子爵令嬢は、いずれ坊ちゃまに嫁がれるお方である。ル・ヴォー子爵令嬢の発言は、坊ちゃまのものと思え」という心得を徹底していたため、ブリアナが「門の手前で停めてほしい」と懇願した際、多少の不安は覚えつつも、その通りにしてしまったのだ。
ブリアナはその足で、国をあとにした。
例外を除き、国教で堕胎は禁止されている。さりとて、その選択肢が用意されていたとしてもきっと選ばなかっただろうと、ブリアナは自信を持って言えた。
だが、産むとなれば、安全の保障がされない以上、侯爵家に察知されるわけにはいかない。貴族のつながりは恐ろしいものだ。どこでどう気取られるかわからない。
侯爵家や王家の権力が自由に揮えない場所に行くのが一番だった。
(……守ってあげる、わたしの赤ちゃん)
まだ薄い腹に、そっと手を当てる。
この中に子がいるのかと思うと、心底不思議な心地になった。
だが、いるのだ。間違いなく。
「……まずは、どこに行くのか決めなきゃね」
一歩、また一歩と歩き出す。
(もう家には帰れない。頼れる人もいない。……もう、逃げる場所はないんだわ)
歯車が噛み合わなくなって以降、多少なりとも及び腰になっている自覚はあった。
恋人に甘えていたのとは違う。
すれ違うことが多くなり、純粋な気持ちで相手を信じられなくなった時点で、そういうこともあるかもな、程度にはアシェルのいない未来を想像していたのだ。
――では、恋人のことを愛していなかったのか?
それも違う。
愛していたし、そうでなければ、ブリアナはこれほどの絶望感を抱かなかっただろう。
つまり、自分の気持ちがもうわからなくなっていたのだ。
そんな自分の気持ちに整理を付ける前に、こんなことになってしまった。アシェルだけが悪いとも思っていないし、自分だけが悪いとも思っていないけれど。
ブリアナは、深く息を吐き出して、精いっぱい胸を張った。からりとした空気に、闇が浸食してくる。
「ああ……」
重たい足を引きずりながら見た、宝石を散りばめたような星空を、ブリアナは一生忘れないだろう。