09 あのときあったこと
前ページで、異母妹および家族構成に関する一部説明が抜けていたので、20~20時半頃(2月17日)に加筆しました。
基本的に「異母妹と義母がいる」「実母はすでに亡くなっている」というのがわかっていれば、今後のストーリーも差し支えなく理解いただけると思いますが、更新時間前後に読んでくださった方のうち、加筆部分が気になる方は、前ページから読んでいただければと思います。
お手数おかけします……!
「あら、わたくしのアシェルに近付いたのはお前ね?」
背後に屈強な護衛たちを引き連れて、王女はそう言った。
半ば反射的に膝を折り曲げつつ、ブリアナは呆然とした。助けを求めて侯爵邸にやって来たら、もしかしたら媚薬事件の犯人かもしれない王女とかち合ってしまったのだ。当然だろう。
それも、名前だけでなく、顔もしっかり認識されている。
アシェルと言葉を交わしていただけで怪我を負わされた伯爵令嬢のことが頭によぎり、ブリアナは思わず身構えた。
しかし、王女は特に気分を害したふうでもなく、「今回のことは残念だったわね」と言った。
(今回の……)
――媚薬事件のことだ。
顔を伏せたまま、ブリアナは体を強張らせた。視線の先にある汚れた足先に、途端に気持ちが萎んでいく。
「正直、お前に会ったら文句のひとつも言ってやろうと思っていたの」
反論しない――立場上、できるはずもないが――ブリアナに、気分を良くしたのか、王女は弾むような口調で続ける。
「でも、その前にあんなことになってしまったでしょう? これでも、女として気の毒に感じているのよ」
どろりと毒を溶かしたような声だった。
甘苦いなにかが、ブリアナの口の中に広がっていく。
「婚約者でも夫でもない男に穢されるなんて、自ら死を選んでもおかしくないことだと思うわ。少なくとも、わたくしならそうしたでしょう。やっぱり、上位貴族に媚びを売る女というのは、根が図太いのでしょうね」
まるで夢見る少女のような軽やかな声で、そんなことを言う。
当事者の気持ちを代弁するかのように展開していく物語の中に、ほんの少しの違和感を覚えながらも、ブリアナは唇を噛み締めた。
(……確かに、アッシュがいなかったら……そうなっていたかもしれない)
アシェルのことだって、もはやどう受け止めていいかわからない。恋仲になった当初は、大切にされていたように思う。今も。――今も?
ブリアナは、穏やかなアシェルが好きだった。
誰にでも優しく、平等で――でも、それは結局、誰のことも好きではないということにはならないだろうか。
アシェルとの距離を感じるようになってから、ブリアナはぼんやりとそんなことを考えた。
政略結婚が主流のラポワでも、自由恋愛が完全に否定されているわけではない。むしろ、学生のうちはと楽しむ子どもたちも多い。
恋愛というものに興味があったときに、適当な場所に適当な下位貴族の令嬢がいた。そういうことは、十分にあり得る。
(以前、婚約がどうのとか言っていたから、本気なのだと思ってしまったけれど……今となってはどうか……)
ただでさえ子爵令嬢。
単なる恋仲だとしても、優秀な侯爵令息の横に立つには、相応の覚悟がいる。だから、前にも増して勉学に打ち込むようになったし、何に対しても手を抜くようなことはしなかった。
そんなブリアナに、アシェルはいつだって優しかった。
みんなと同じように。
(……まあ、でも、見ず知らずの男に体を奪われる……よりは、相手がアッシュで良かったと言うべきなんでしょうね)
俯き加減に物思いに耽っているブリアナに気付かず、王女はつらつらと妄想のような独り言を垂れ流している。
「――殿下?」
思考の波を漂っていたブリアナを現実に引き戻したのは、アシェルだった。複数の使用人たちを引き連れ、門の向こう側からやって来る。
「アシェル!」
王女は、白い頬を薄っすらと染め、恋する乙女さながらに美しく微笑んだ。
「時間になってもおいでにならないので、なにかあったのかと……」
アシェルの足が止まる。ここにいるはずのない人物の存在に気がつき、言葉にならないほど驚いているらしい。唇がわずかに動き、しかし声を発する前にきつく閉じられた。
「なあに、アシェル」
そんなアシェルを見て、王女は上機嫌に笑う。
「仮にも元恋人だった女に、随分と冷たいのね。傷物になった体じゃあ、嫁ぎ先なんてどこにも……あら、やだ。もしかして、わたくしのアシェルに愛人にしてほしいなどと頼みに来たの? 汚らわしい」
次から次へと移り変わっていく話題に、ブリアナは目を回しそうになった。そのひとつひとつを掬い上げるのは難しかったが、いつの間にか、自分が「かつての恋人に縋りつき、愛を乞いに来た売女」のような扱いになっているらしいことに、どのように反応すればいいのか、わからなくなってしまった。