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ひかれ、ひかれて ~臆病者、カレーを食べる~

作者: 侍 崗

 厄日だ。


 俺は退屈であくびをこぼし、痺れを覚えた尻を持ち上げると、椅子に乗せ直した。目の前のスクリーンが発する強い光は、ここにいる全員の顔を照らしているけど、この空間そのものを真昼と同じにするには、てんで足りない。

 そもそも俺は、この映画を観に来たわけじゃあない。本当はこの階下でやっている、エヴァンゲリオンの完結編を観に来たのだ。違う映画にしたのは、別に席が満席だったからじゃあない。加えて不機嫌なのは、隣で手を叩いてやや下品にむせながら笑っている女のせいだ。

 いや……それとも今朝の出来事のせいか? 

 それとも──。

 なんでもいいや。兎に角、何かにこの内から湧き出る憂鬱をなすりつけたくて、せめて好きな映画でも観ようとここに来た筈だった。


 *


 今日、1997年の8月2日は土曜日で、日が昇る前から暑かった。

 涼しい風が吹き下ろすこの坂上の町でも、明け方に25度をたたき出す猛暑。俺はそんな暑さの中、生まれて初めてできた彼女の部屋のドアを開けたまま、立ち尽くしていた。

 ちょっとお洒落なアパートの3階。部屋の中から流れてくるクーラーの微風が頬を撫で、それに乗って香る甘い匂いが鼻をくすぐる。そして部屋の奥には、ベッドに仰向けになっている彼女──と、その上に覆いかぶさる男と掛布団。

 俺が入ると同時に、彼女がいつも発する話声よりトーンの高い喘ぎ声と、男の荒い呼吸は止まり、2人は一斉に俺へと視線を向けた。

 男はギョッとした表情を隠さなかったし、彼女はというと、俺がその現場を目の当たりにした事に対してだろう、顔をしかめている。

 男の名は吉田といって、入学してからよくつるんでいる友人のひとり。彼女ができた時、こいつは自分の事みたいに喜んでくれたのだが、あれは嘘だったんだなと、今この瞬間に悟った。

 正直、泣きそうだった。ていうか、怒りとショックで高揚した俺の眼には、涙が滲んだ。


「よ、よぉ……」


 友人──いや、昨日まで友人と思っていた男は、彼女から離れようとせず、気まずそうに右手を上げた。

 その下でため息を吐いた彼女は、俺に弁明する訳でもなく、枕元にあった眼鏡をかけながら言った。


「……何?」


 それはこっちのセリフだ。

 一体何がどうなって『そう』なっているのか、説明して欲しかった。けれど、喉から先に言葉が出て行かない。身体が小さく震え、暑さのせいではない汗が背中をぬるりとさすった。

 彼女が吉田を押しのけ起き上がる。

 吉田と掛け布団が退いたそこには、彼女の汗ばむ白い肌と、そこについたささやかな胸の膨らみがあらわになった。

 初めてできた彼女の裸を見るのが、まさかこんな形になるとは。あの6月最初の夕方、告白されて舞い上がっていた俺に、今この事態の予想がついただろうか。いやない。俺にそんな冷静な予測ができるなら、今、こうして立ち尽くしたりはしない。

 彼女が床に転がったセブンスターのソフトケースを拾いあげ1本咥えたところで、俺は自分でも何を言っているのか分からない声をまき散らしながら部屋を飛び出し、階段を駆け下り、アパート前の駐輪場に差し掛かったところで、ようやく我に返った。

 だが今更あの部屋に戻ったところで、見たことは変わらないし、そもそも彼女たちが丁寧に説明なんてしてくれる筈もない。いや聞きたくもない。それに話を聞いたところで、はいそうですかと俺を含めた3人の関係が修復できるとも思っていない。

 俺はフラフラとした足どりで、彼女のアパートを後にした。


 ……さようなら、洋子ちゃん。


 ちょっと出っ歯で、野暮ったい眼鏡の似合う、笑顔が可憐で、優しく清純そうなイメージの君。だけど、『そういうの』も平気でできたんだね。煙草も吸うんだね。最後に正体……と裸を見れただけでも、良かっ

 たよ。


 ……さようなら。


 大学も夏季休校中だから、当分会わないのが救いだよ。


 ……さようなら。


 そして友人だった吉田……死ね。


 *


「よぉ!」


 背中を強く叩かれたのに驚いて咄嗟に振り向いた後、俺は眉間にしわを寄せた。

 叩いたのは見知った女だった。

 やや褐色の肌に、日本人離れしている鼻筋の通った顔立ち。長身で細身なのに、出るところは出ている漫画みたいな体型。エスニックな色合いの長いスカートに、派手なシャツ。流行り物の事は分からないが、頭からつま先までその辺を歩いている女性よりも着こなせている。

 今並べた特徴だけ見ると、道行く誰もが振り向く美女、といったところだ。

 彼女は『高橋カヨコ』といって、同じ大学の3回生。サークルやバイト、研究室が同じとか、住んでるアパートが同じといった共通点はない。けれど俺が入学した日、何故か道端で声をかけられて、そこから結構な頻度で絡んでくるという、なんというか……ヤバい人だ。


「あ、カヨコ……先輩」


 俺は、小さく頭を下げる。


「タクオー。こげなところで背ば丸めて、なんしよっと?」


 ガハハと笑いながら、彼女はバンバンと俺の背中に追撃を食らわせる。

 そう、このカヨコ先輩、決して作っているわけではなく、本当におっさんみたいな笑い方と所作なのだ。その上、誰にでもこういう感じの接し方をしてくる。けれど何故か老若男女にモテる。

 正直ちょっと……いや、かなり苦手。

 先輩からは『タクオ』なんて呼ばれている。が、俺の本名に一文字もかすっていない。

 アダ名がついたのは、入学直後の懇親会。俺は隣に座った奴と、漫画の話題で盛り上がっていた。

 それをたまたま同じ店で、別の飲み会に参加していた彼女が聞いており、そこから『タクオ』と名付けられた。

 このアダ名も、なんだか馬鹿にされていて嫌だ。


「昼で明りいんに暗い奴おるけん、タクオってすぐにわかったばい!」


 声がでかい。

 俺と彼女の距離は50センチもないから、こんな大声で言わなくても聞こえる。態とではなく、これが彼女にとって普通の音量だ。この声だけで、周囲の気温がぐっと上がったような気がする……ていうか、暑苦しい。

 映画館が数軒建ち並ぶ大通り、午前中の早い時間とはいえ、土曜だから人の往来は頻繁である。その人々がチラチラ見ながら通り過ぎていく。恥ずかしさが、ものすごいスピートでこみ上げる。

 すぐにでも立ち去りたいところだが、ここで逃げても後々『なんで逃げた!』とすごまれるは目に見えている。毎回そんな感じだから、俺は最近になって、このカヨコ先輩に関しては『一旦対峙する』という事を覚えた。


 ……自分で言ってて、悲しい。


「あの、日曜だし……映画に」


 嘘ではない。

 今朝の出来事の後。俺は結局家に戻らず、別府から大分駅まで電車に乗り、気晴らしの材料を求め、当て所なく歩いていた。その道すがら映画でも見ようと、そう考えていたところだったのだ。


「映画。映画ねぇ……。よし、ウチもつきあうったい!」


 いきなり何を言い出すのだろう、この人は。

 思うが早いか、俺の左腕は彼女にガッシリとホールドされ、この通りで一番大きな映画館の前まで引っ張られた。


「迷うわぁ……で、タクオ。お前、何観ようとしよったと?」


 入口の窓口前でカヨコ先輩は、掲示されている映画の時間割りを眺めながら言った。

 朝9時だというのに、4つある窓口は、どれも長い列を成している。


 この暑いのに出歩いて列作って、他にすることないのだろうか。そう心で悪態をついたものの、自分もその1つだと気がつき、口をつぐんだ。

 それよりも、何を観るかだ。隙を見て逃げ出しても良かったが、本来映画を観るという目的はあったわけだし、入ってしまえば真っ暗で、他人など気にする必要がない。よし、観てやろうじゃないか。そう俺は意気込んだ。


「おい、聞いとうと?」


 カヨコ先輩が掴んだ左腕をゆする。


「あ、はい。聞いてます」


「で、何観ると?」


「えーっと、今日はエヴ──」


「あー。いうとくが、アニメはつまらんばい。アニメ以外にしよ」


 俺の言葉は見事に打ち消され、何だかんだ先輩の意見が押し通り、『ロストワールド』を見る事になった。で、今に至る。本当はエヴァンゲリオンを観たかった……。

 今のところ、割と緊迫している場面が続いているのだが、先輩のツボにはまっているらしく、彼女は笑いっぱなしだった。

 結局センパイの笑いのツボは、エンドロールが流れるまで治まらず、俺たちは館内の明かりがつくまで、前後左右の席から冷たい視線を浴びるのだった。 


 *


「あー、面白かった」


「あ、はい。そうっすね。そりゃよかった……」


 笑い過ぎて涙目になっている先輩の横で、俺は肩を落とす。自分の時間を潰された気がして、泣きそうになっていた。2時間超の映画が終わって外に出ると、気温はさらに上がっていて、熱気が映画館の冷風を押しのけて俺の身体を覆った。


「何、辛気臭い顔しとうと!」


 先輩が肩に腕を回して、俺の頭をクシャクシャに撫でる。それを俺は振り払った。


「あの! 俺、今日ちょっと……」


「ちょっと、何ね。何ば今日そげん、機嫌悪かとか」


「『いつも』そうやってやられるのも、嫌だって言ってるでしょ! 今日は本当に──」


 言いかけてとどまった。

 こんな白昼堂々、それも人が大勢いる場所で、怒りに任せて『彼女が他の男とやってました』なんて言えるわけがない。第一そんな話がこの先輩の耳に入れば、それでからかわれるに決まっている。


「そっか……」


 先輩は小さく息を吐き出すと。右手でクシャクシャにした俺の頭を撫でて髪を直し、俺を追い抜いて歩きだした。元はといえば、手を出してきた向こうが悪いんだけど、急に黙られるとこっちが悪いんじゃあないかと思ってしまう。何かもどかしい。

 そのまま映画館をでて、数メートル進んだところで、先輩は立ち止って振り向いた。


「よしっ、決めた。昼いこう」


 『よしっ』なんていうから何だと警戒していたが、振り向いた先輩の顔が笑っていたことで、俺は胸をなでおろしていた。


「え、いやでも……」


「いやとかでもとか。お前はいいいっつも、否定から入りよる。ほら、ぼやぼやしとうと、何処にも入れんくなるばい」


 そういうと、先輩は僕の手をとり、ズカズカと歩き出した。

 正確には手首を掴まれて連行されているのだが、ここで何を言っても聞いちゃあくれないだろう。

 こういうところが苦手なんだ。


 *


 府内町と中央町を分断する中央通りをフォーラスの前に向け信号を渡れば、その袂から暫くはアーケード商店街が四方へ伸びる。天井の高い屋根のついた道には、天窓から差し込む夏の強く白い太陽光が、等間隔で四角を形成している。

 人の波は午前よりも確実に増え、周囲は様々な音で溢れかえっていた。


「タクオ。何が食べたい?」


 先輩が俺に問いかける。何が食べたいかは、正直決まってない。ていうか、今朝のダメージが未だ残っているこの状態では、何も食べたくない。


「ほら、10秒で決めんね。10秒で決まらんやったら、ウチが行きたかところにするけんね」


「え、ええ……いや別に、どこでも」


「かぁー! どんだけ機嫌悪うしとうとか? はい10秒!」


「いやもうなんだか……ちょっと今、食欲ないっていうか」


「嫌な事があったっちゃ、ちゃんとご飯ば食べないかん。ほれ、あそこでよかやろ?」


 俺の手首を掴んだまま離さず、先輩はズンズンと進む。

 引きずられている内に、ふと俺は彼女の掴む手の力に違和感を感じた。けれど、それが何なのかわからず、本人にそれを聞く前に、店の前に到着してしまった。

 アーケード商店街の十字路の角に位置するそこは、屋根の高さもあり大きく感じる。クリーム色で統一された元の建物の壁には、藍色一色で車輪のマークと店の名が記されている。

 その直下には、鮮やかなオレンジと赤のオーニングテントが張りだし、更にその下からは、赤いレンガタイルと蛍光看板が光る。他にも店は並んでいるが、ここだけ妙に昭和──それも色合わせていない昭和が佇んでいた。

 『サンドイッチ・弁当』と書かれたテイクアウト窓口と、サンプルが神経質に並んだショーケースに挟まれたガラス製の出入り口からは、店の中が透けて見える。

 甘い匂い。それと香ばしいカレー匂いが、奥から手招く。

 そういや前を通り過ぎることはあっても、入るのは初めてだ。そこまで裕福ではない学生の財布事情に加え、なんだか俺みたいな学生が入っていいのかと及び腰になっていた。


「今日はウチのおごりばい」


 先輩が得意気にいう。普段の行いはともかく、いつも何だかんだで飯と酒の面倒だけは見てくれる人だ。

 今回もそうだろうとは思っていたが、俺は別に何か奢ってもらうような事をしたつもりはないし、俺にそうしたところで、何のメリットもない筈なんだが……。

 考えている内に俺は、先輩に手首を引かれながら、店内へと足を踏み入れた。

 店内もそこだけ時代が止まったような、何となく懐かしい色調でまとまっている。入口入ってすぐに目に留まるのはL字のカウンター。右手には外から見えたテイクアウト窓口。

 細い通路を通り過ぎれば、小さなテーブル席がいくつか。外壁の大きさに圧倒されてしまうが、中はなんというか、可愛らしい。

 たまたまテーブル席が空いたので、俺たちはそこへ通された。


「初めて入った……」


 そう口からこぼれた。


「なんね。そうやったと。まぁここは何でんうまかけん。好きなん頼みんしゃい」


 先輩は振り向いて指さす。その先にメニューが写真付きで掲げられていた。

 入口の車輪マークにあった『トンカツ・サンドイッチ』の文字の通り、揚げ物とサンドイッチがメインで、壁掛けのメニューには定食とカレー。どれもよさそうだが、決めるとなるとどうしても迷ってしまう。

 実際あまり食べたくないのは確かだ。けれど店に入った手前、このまま何も食べないというのも気がひける。


「あ、はい」


「こういうんは、直感がものをいいよんや」


「直感て、そんな」


「座れたことやし、ゆっくり考えんしゃい」


 先輩はニコニコと俺を眺めている。俺、今そんなに変な顔しているのか。

 俺は先輩からメニューへ視線を変えた。

 直感と言われても、そうそう働くもんじゃあない。どれもよさそうで、けれど何だか失敗はしたくない。たかだか昼飯を選ぶのにこの様だ。だから、彼女にも──。

 そう思っていたところに、俺の鼻を入口で感じたものより強いカレーの匂いがくすぐる。そこで我に返った。

 そうだ、今は──割と苦手な──先輩とテーブルで肘をつき合わせているんだった。早く決めないと、何を言われるかわかったものじゃあない。

 俺は再度、端からメニューを見直す。この匂いで目が覚めたなら、カレーで行くしかない。あとはどうするか。シンブルなビーフカレーも良いし、マークに書いてあっ

 たトンカツでもいい。しかし──。


「なあ、ええかげん決めた?」


 先輩の声で驚いた俺は、咄嗟に答えた。


「あの、え……エビカレー」


 先輩は一瞬驚いたような視線を僕に向けたが、すぐに元の表情に戻り、口元を緩ませた。


「ふーん。じゃあ、頼もっか。すみませーん!」


 先輩はカウンター内に立つ店員に、めちゃくちゃ近い

 距離にもかかわらず大声で注文文する。店員が厨房へ伝言ゲームさながらに、その注文を伝えるのを確認したところで、先輩が俺に顔を近づけた。


「なぁ、何ば悩んどうか、当てようか?」


 俺は身を強張らせた。


「別に、いつも通りですよ」


「あれぇ? さっきは『ちょっと』とか神妙な顔して言いよったとに」


 先輩は、玩具を見つけた猫のように目を輝かせ、顔をニヤけさせる。本当に何でも見透かしていそうなその眼が、俺は苦手だ。


「こん前はカノジョできたっち自慢げに言いよったとに。大方、喧嘩でもしよったんやろ?」


「別に」


「それ、『別に』っていう顔やなか。タクオ……ウチはウチなりに、お前を心配しとうっちゃけんね」


 ふと声色が優しくなった。なんだかそれにほだされるのは悔しいが、胸の中につっかえているものが取れるかもしれないと、希望を抱いたのも確かだった。

 俺は口からこぼれる様に、今朝の出来事を話し始めた。言葉をき止めようとしているのに口が止まらなかった。


「はぁ? 何それ最悪なんだけど。今からそいつら殺しに行くか?」


 一頻り話したところで、先輩は眉をひそめた。


「いやあの、そういう物騒なことは──」


「お前もお前よ。やけん、あん女はやめとけって言うたっちゃんね? あげな地味で静かあにしよる女が、一番タチ悪かっちゃん!」


 いかん。先輩の『怒涛スイッチ』をうっかり入れてしまった。

 毎回どこに引っかかるのかは分からないが、このスイッチが入ると、先輩は自分の気が済むか、状況が変わるまで持論をまくしたてる。こうなっては俺では、押さえられない。ただやり過ごすのみである。やはり話さないのが正解だったか……。


「ウチも散々、忠告しとったやろ? それをお前、『彼女は大丈夫です』とか言いよってから。やけウチはいっつも──」


 その時だ。俺と先輩の前に、皿が置かれた。


「はい、こちらキング定食。こっちがエビカレー」


 店員が何食わぬ顔で置いた料理で、先輩の『怒涛スイッチ』は一瞬で『静』に切り替わり、俺は胸をなでおろした。

 ありがとう、名も知らぬ店員。


「……まぁよか。そん話は置いといて、食べよう」


 先輩はいつものテンションに戻り、俺に促した。俺は小さく頷いて、自分の前に置かれた皿に目を落とした。

 白い円形の皿。その中央に山盛られた白いライスの手前半分に、鮮やかな唐茶色をしたカレーが白い丘陵を染めている。所々に黒コショウの粒が顔を覗かせるそのルーからは、店内に存在しているものよりも強い、だが決して嫌味ではないスパイスの香りが鼻孔へと立ち上る。

 そのカレーの奥。千切りキャベツに、いかにもな紅色をした、麺だけのケチャップ・スパゲッティの色が眩しい。

 皿の傍らには、付け合わせのポタージュスープが、その黄色を小さなかカップに委ねている。

 ライスの頂にあるのは、カレーに紛れてその全貌を見せていないエビフライ……なのだが、どうも様子がおかしい。俺の知っているエビフライというのは、丸々とし

 た海老の身をそのまま揚げたものだと思っている。

 しかしどうだ。ここに鎮座しているのは、平たい。潰しているのか、ペチャンコ。それを7等分に切り分けている。そういえば、外のショーケースのサンプルや、メニューの写真は、こんな形になっていただろうか。

 俺は壁に掲げられたメニューを見返す。成程、さっきは咄嗟に決めてしまったせいか、今こうして見ると、確かにこの形だ。

 俺は既に食べ始めている先輩の皿に視線を移した。そこにもエビフライが乗っていたのだが、そこでようやく正体がつかめた。薄く細かい衣で揚げられた海老は、『開き』になっていた。海老の開きフライなんて、初めて見た。

 ともかく、海老フライには変わりない。さてさて、どこから食べたものか……。

 一先ず俺は、カレーとライスを同時にスプーンで掬って口にした。

 辛さはある。悲鳴を上げるようなものではなく、けれど、舌先にピリピリと刺激を残す辛さ。あの点々としてた黒コショウの辛味とはちょっと違う、そしてよく食べる

 大学通りにある喫茶店のカレーとも違う、なんとも不思議な辛味だ。

 ここで水を手に取ろうとしたが、俺は皿の傍らで静かにしているポタージュのカップを手にとり、口をつける。熱くまろやかな舌触りが、カレーの味を上書きして喉の奥へと通り抜ける。ふとコーンの甘みが先ほどの辛味と対を成し、とてもやさしい。ほんのひと口でカップを置き、ふたたびカレーに戻る。

 次は件の海老だ。まずはそれだけをフォークで1切れ刺して口にした。最初に衣の細やかな感触。直後に海老の風味が鼻へと抜ける。ひと噛みすると、その厚みがわかる。

 見た目も奇妙な開かれた海老は、思ったよりも肉厚だった。その1切れの面積と厚みから、俺は頭の中で『本当はこういう大きさだったのではないか』という海老の想像図を描く。これを畳んで丸めたなら、小ぶりとはいえさぞかし立派なものだったのではないだろうか。そんな下らないことに頭を使いながら、海老を腹へと招き入れる。フライにかかっていたカレーは、この細やかで薄い衣の油分と結託し、エビフライが消えた後も余韻を残した。

 そこへ間髪入れずにカレーとライス。柔らかいライスのほのかな甘み。それに打ち勝たんとするカレーがせめぎあい、俺はその様を追う事に必死になっていた。そこへ海老フライが乱入する。あわや三つ巴の大混戦と思いきや、まさかの休戦……いや、3つが共闘を始めた。

 香ばしさのあるカレーの旨味が、ライスと海老で増幅され、最初に食べた印象と違う、そう、新しい食べ物の様に思えた。

 カレーにばかり夢中になっていてはいけない。奥で様子を伺うケチャップ・スパゲッティをフォークに巻き付け、一度にに口へ運ぶ。やや酸味のある、この野暮ったい風味が、カレーの箸休めに随分とあう。それよりも嵩のある千切りキャベツときたら、スパゲッティとは違い、みずみずしさが口の中に一瞬の清涼感をもたらす。その箸休め2つを食べる事で、俺の中にあったスパイスは、一旦鳴りを潜めた。

 食事も後半に差し掛かる。海老とカレー、そしてライスの組み合わせは、海老がすべて腹へと向かってしまったので実現こそしなくなったが、寂しくはなかった。カレーとライスだけでも、充分完成されているのを実感できているからだろう。

 やや辛め。マイルド過ぎず、かといって汗かく辛さでもないこの位が、俺には──いやもしかすると、この店に来るすべての人間にとって、丁度良いのだと思う。

 残り数口を残したカレーとライス。名残惜しくて、俺はスプーンで皿の内枠で残り火のように燻る少量のカレーをライスで迎えて飲み込むように食べた。

 あっという間にカレーをたたえたライスの山は消え失せ、皿の上は夢の跡。俺はスープを流し込む。

 終わりは何だって来る。今朝からずっとズキズキと俺を蝕んでいる感情も、いつかはこの皿の上にあったカレーのようになくなってくれるのだろうか。

 ふとそんな事を考えてしまい、俺は少し鼻の奥がツンとするのを覚えた。


「タクオ、今日は静かに食べとうね。まあショックなんは、ウチにもわかるばい」


 先輩は既に食べ終えていた。あれだけ盛りに盛られていた皿は、きれいに片付いていた。


「相変わらず、食べるの速いですね……」


 僕は、話をそらした。


「時間は有限やけんね……。ああ食べた食べた。そうだタクオ。今日はこの後、何か用事ある?」


「あ、まぁ。特には」


「じゃあ、行こう。ウチが話ば聞いちゃるけんね」


 先輩は、そういうと席を立った。


 *


「やけん、うちがいいたかとはぁ──」


 顔が桜色に染まったカヨコ先輩が、泡だけが微かに残ったジョッキを叩きつけるようにテーブルへ置いた。夏の日差しを避けたセントポルタ商店街のはずれに位置する飲食店。メニューはビール、酎ハイと餃子のみ。

 まだ太陽が西へ下り始めたばかりだというのに、俺も先輩も既に酩酊していた。先輩の奢り、かつ安いとはいえ、何枚餃子を頼んだのか、最早わからなくなっていた。


「先輩、何かありました?」


 そう俺が聞いたことを皮切りに、先輩はジョッキを煽るスピードを上げ、無暗滅法に餃子をたいらげだした。どうやら昼前に感じたあの違和感は、気のせいではなかったみたいだ。


「いや、お前ん話やなかけどさ。うちもさ、今朝バイト終わって彼氏ん家にそんまま行ったわけよ」


「ふむふむ」


 元々は俺の話を聞くってことでこの店に入ったのだが、気が付けば俺が聞き役になっていた。

 カヨコ先輩には同い年の彼氏がいる。

 高身長の笑顔が爽やかな青年。実家が金持ちで、交友関係も多岐にわたる。俺とは正反対に位置する、ヒエラルキーのトップを走り続けるようなパーフェクト超人だ。天は二物を……とかいうけれど、あれ絶対嘘だと思う。そんなハイスペックマンだから、先輩と並んで歩いていても存在が霞むことはない。俺も先輩とその彼との仲は遠目に応援している感じではあった。どうやら、その彼氏絡みで悩んでいるようだ。


「そしたらあいつ、何しよったて思う? ……ほんと、信じられんばい……」


「他の女の人を連れ込んでた?」


「惜しい! あ、すみません。えっとー、生おかわり」


「惜しいって、なんすか」


「いやーさ。部屋入ったらぁ……あいつ裸で、知らん男とボボばしとったんや。信じられんやろ?」


 先輩は生ビールがなみなみと注がれたジョッキを、ふらついた手で受け取りながら言った。俺はその言葉で硬直し、端で掴んだ餃子を皿の上に落とした。


「えっ、は? ……ちょっと何言ってるか、あの……すみません。理解が追い付かないんですが」


「ともかく、なんでよりにもよって男と?! ってなるやん。ウチそれであいつらに()()()()飛び出してきてしもうたんや。で、タクオば見つけたわけや」


 そう言いながら先輩は、運ばれてきたビールを受け取って一気に飲み干した。


「そりゃ……大変でしたね」


「大変どころやなかって! いやもうウチ、あいつがそげな性癖なんかいんしゃいり、男に負けたんかって方が、でかあなってしもうて。はぁ……もう信じられんばぁい!」


 先輩はでかい声をあげて泣き出した。小さい店の中に、でかい声が響く。他の客が全員こちらを見ている。が、酔っぱらっていたことに加え、あまりに話の内容が痛ましすぎて、俺はどうする事もできなかった。

 しばらくカヨコ先輩の号泣は続き、そのうち彼女はテーブルに突っ伏したと思うと、小さく寝息をたて始めたのだった。


 *


 陽も落ちきりそうな夜7時。

 学生たちが根城にしているアパート群への坂道を、俺は先輩に肩を貸しながら登っていた。いつもなら誰かに会いそうなものなのに、駅から歩き始めて、まだ知り合いとは誰にも会っていなかった。

 アスファルトが熱を残し、蒸し暑さをぐっと上げようとするところを、遠くに見える鶴見岳つるみだけからの冷風が、それを抑え込んでいた。


「先輩、大丈夫すかぁ?」


 頭の中が霞んでいる状態で、俺は先輩に話しかけた。


「いやーありがとぉ、タクオ。お前ほんなこつ……オエッ、良か奴やなあ」


 えづきながら、先輩がこぼす。


「お互い……ンなんていうか、ね。大変ですよ。もうね」


「あー、でも……男に負けるかー、ウチは」



「それもう忘れましょ。いや、無理かな……いやでも、お互い忘れましょ。ね?」


「なあタクオ……つきあってみようや。ウチら」


 その一言だけ、何故かハッキリ耳に入って来た。

 俺は驚いて、先輩の顔を見た。


「い、いやいやいや、なんていうかその……」


「……」


「あの、まぁほら、きょう……酔っぱらってますし、お互いショックだった……ねぇ。けど、なんとなくその──」


 耳が急激に熱くなる。

 普段から怖くて苦手で、今も酔っぱらって大声上げて、俺とは感性が絶対的に合わなくて。でもこの人、改めて見ると──。

 ふと先輩と目が会った。

 俺は恥ずかしくなって、視線をそらした。


「なに本気にしとうと? ……冗談ばい」


 先輩が笑った。いつもの豪快な笑い方だった。

 俺はつられて、小さく笑った。


「ほら、ウチんアパートはぁ、もうすぐだー。しゃんと運べぇ青年!」


<終>




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