心に灯る
「ねぇ、あの噂聞いた?」
「あの噂って?」
王宮内のランドリールーム。
各部署から出された官服や布物の洗濯を任されているランドリーメイド達が手を動かしながら口も動かしていた。
「ジラルド=アズマ様とレディ・クレメイソンが別れたとかいう噂よ」
「えぇ?ホント?」
「だって前まであんなにべったりだったのに、近頃は距離を置いて歩いているらしいわよ」
「じゃあ別れたんでしょうね」
「あんな美女でもフラれるのね~」
「わからないわよ?アズマ様がフラれたのかも」
「でもアズマ様の奥さんも結構美人よね」
「あぁ、文書室の文官さんなのよね?」
「同じ平民出としては奥さんに頑張って貰いたいわ~」
「あ、それ言えてるかも」
などと噂をされてるとは露知らず、メルシェは大通りを自宅に向けて歩いていた。
時刻は午後を少し過ぎた頃。
どうやら風邪をひいたらしく、
発熱はしていないが頭痛が酷くて辛い。
王宮の医務室で診て貰い、薬を処方されて早退した。
先日もジラルドに拉致られて無断早退したばかりだというのに……
ジラルドが帰ってからというもの、どうも生活のリズムが狂って困る。
今朝もいつの間にか同じベッドで寝ていたが、
どんだけ言っても無駄なのでもはや諦めた。
でもエッチ禁止令は律儀に守っているので数歩譲歩してやろうと思う。
それにこの頃は王宮内でジラルドを見かけてもレディ・クレメイソンを腕に絡ませていない。
一度レディ・クレメイソンの方からしがみ付くのを見たが、ジラルドはその手を直ぐに離していた。
「メルの嫌がる事はしないと決めたんだ」
とドヤ顔で言っていたけどホントだろうか……
「なんか変な噂が流れてたとギュメットのおっさんにも聞いたけど、デマだからな?
俺はずーっとメル一筋だからな?メルはムギ一筋だろうけどっ」
と、最後にイジケも入っていたが、
そんな風にも言われた。
ホントに?
ホントに彼女とはなんでもないのだろうか。
でもとにかく腰に纏わりついて寝るのはやめてほしい……
寝言でわたしの名を呼ぶのもやめてほしい……
などと頭痛の所為か脈絡もない考えが次々と浮かんでは消えてゆく。
――早く帰って薬を飲んで寝よう……
とフラフラとした足取りで帰り道を急ぐ。
その時、ドンっと背中に衝撃を感じた。
その弾みで体勢を崩し、馬車道へと体が傾いてゆく。
視界の端に走って来る馬車が見えた。
このまま馬車道へと倒れたら確実に轢かれる……!
だけどもはやメルシェにはどうしようもなかった。
こんな時、やっぱり脳裏に浮かぶのはあの男の顔。
わたしが死んだら、アイツ、泣くのかしら……
と思いながらメルシェは我が身に起こる全ての衝撃を覚悟した。
「メルシェっ!!!」
瞬間、大きな声が聞こえ、大きな体に包み込まれた。
そして何処かに引っ張られる感覚を感じる。
次に全身に感じたのは何か弾むような感触のする所へ着地した感覚だった。
でも自分の体はそのまま誰かに包み込まれている。
メルシェは恐る恐る目を開けた。
そこはなんと自宅のベッドの上だった。
そして自分を包み込んでいるのは、
ジラルドだった。
「ジ……ラルド……?」
「メル……メルシェ……」
「あなたが助けてくれたの……?ここはわたしの家?……転移魔法で飛んだの……どうして……」
どうしてわたしが危ないとわかったの?
メルシェアラートを感じたからだとしてもあの瞬間は僅か数秒間の出来事だ。
こんなタイミングよく……
おかげで助かったけども……
とにかくきちんとお礼を言おうと身を捩ると、ジラルドに更にきつく抱きしめられた。
「どうしっ……
どうしたの?とは聞けなかった。
ジラルドの体が震えていたから。
震える手でメルシェの体を抱きしめ、
メルシェの鼓動を確かめているかのようだった。
「こ、怖かった……」
ジラルドが声を押し出すようにして呟いた。
――怖い思いをしたのはわたしだけど……
「メルが、メルがあのまま轢かれていたらと思うと…
もし俺が間に合わなかったらと思うと……」
そう言いながらジラルドの震えは収まらない。
「ジラルド……」
メルシェは自身の手をジラルドの背に回し、
抱きしめ返した。
「でもジラルドは間に合ってくれたわ、おかげで轢かれなかった。大丈夫、大丈夫よ……」
そして背中をトントンとする。
「メル……」
「ありがとう、ジラルド」
落ち着いた頃に、ジラルドは先ほどの事を話し始めた。
「あのおトキさんって人が知らせてくれたんだ、メルが体調を崩して早退したと。それで心配になって直ぐにメルの側に転移んだんだ。そしたら目の前でメルが馬車に轢かれそうになってて……っ」
その瞬間が頭に蘇ったのだろう、ジラルドは髪の毛を掻き乱す。
あの事を告げるべきだろうか……
余計な心配をかけるのでは……
いや、あれがなんだったのかハッキリさせなければいけないのかもしれない。
「……ジラルド、じつはあの時、誰かに背中を押されたような気がしたの。たまたま何かが背中に当たっただけなのかもしれないけど……」
「背中を?故意に?」
「故意なのかどうかはわからないわ。でも確かに衝撃は感じたの」
「………」
メルシェのその話を聞き、ジラルドは何やら思考を巡らせている様子だった。
いつもの彼らしくない少し怖い顔。
なんだか別人みたいで、メルシェは不思議な焦燥感に囚われた。
「ジラルド」
メルシェはジラルドの頬に手を寄せ自分の方へと向かせた。
「わたしも確信がないの。だからあまり気にしないで。
一応話しておこうと思っただけだから」
「……わかった」
ジラルドが自分の手を頬に当てたメルシェの手に寄せた。
彼の頬と手の平の温かさに何故か安堵する自分がいる。
その気持ちに名を付けるのを、
メルシェはまだ戸惑っていた。
でも、
それはそうとして……
気になる事が一つある。
「ジラルド、あなた何故わたしの居場所がわかったの?不調を聞いてわたしの元へと転移したと言っていたわよね?まるでどこにいてもわたしの居場所がわかるみたいに」
「?だってすぐにわかるようにしてるから」
「すぐに……わかるように、とは?」
聞いたのは自分だが、
なんだか聞くのが怖い気がする。
そしてジラルドはなんでもない事かのように答えた。
「メルには俺の魔力を注入して、マーキングしてあるからな。何処にいようともすぐに居場所は感知できる♪」
――メルシェアラートの次はマーキングかいっ!
「い、いつそんなマーキングなんてしたのよっ」
「これももちろん結婚式の夜にさ。
キスをしながら……「もういい」
メルシェはジラルドの口にビシィッと手を当ててそれ以上は言わせないようにした。
もうこの男のする事にいちいち目くじらを立てないことにした。
疲れるだけだ。
そういえば頭痛で早退したんだった……。
思い出したらまた頭痛がぶり返してきた。
メルシェはもそもそと布団の中に潜り込んだ。
「……とにかく寝るわ。ジラルドももう仕事に戻って……」
とだけ告げて、メルシェは即寝落ちしてしまった。
体調は思ったよりも限界だったらしい。
◇◇◇◇◇
どのくらい眠ったのだろう。
窓を見るとすっかり暗くなっている。
寝て起きてみると嘘みたいに体が楽になっていた。
水が飲みたくなり、起き上がると夜着に着替えている事に気付く。
枕元に薬と水も置いてあった。
これらは全てジラルドが?
そこでようやくメルシェはすぐ側で椅子に座り、ベッドに突っ伏して眠るジラルドに気付いた。
ずっとここにいたのだろうか。
ずっと側で見守っていてくれたのだろうか。
――こんな事されたの初めて。
メイドに育てられていた頃から今に至るまで、
体調が悪い時に側で付き添われた経験がない。
メイドはきちんと看病はしてくれるが、ずっと側に居てくれるような事はなかった。
着替えや水の用意を見ると、きっとジラルドなりに一生懸命やってくれたのだろう。
悔しいけど……嬉しかった。
こんなにも安心して眠れたのも一人ぼっちじゃなかったからかもしれない。
眠っている無意識下の中でも誰かの存在を感じ、
安堵していたのかもしれない。
メルシェは心がじんわりと温かくなるのを感じた。
これが家族というものなのか。
眠るジラルドの髪を撫でるように梳いてやる。
ジラルドが小さく身動いだ。
「うーん……小芋ちゃん、剥いていい……?」
その寝言に一体どんな夢を見てるんだと問い詰めたくなるが、思わず吹き出してしまう。
「ぷっ……」
心の奥に小さな明かりが灯るのをメルシェは感じていた。