短編 同好の士
新学期が始まってみんなが落ち着きを見せ始めた五月の連休明け。校庭では休みで鈍った分を取り戻そうとするかのように、野球部が快音を響かせていた。これから夏が始まるよと言いたげな木々が、さわさわと緑の葉を揺らして音を伝えてくる。
読書の邪魔にならない程度の雑音は、時計を見上げるタイミングを作ってくれる良いBGMだった。
風を受けてたなびくオーロラのようなカーテンが、落ち始めた太陽の黄色に変わっていく。
半分ほど読み終えた本にしおりを挟み、鞄へ入れようとした時だった。
ドアが少し軋んだガラガラという音を立てながら開き、来訪者の存在を教えてくれる。
教室の出入り口に立っていたのは、馬込さんだった。クラスの人気者……いや、学年の人気者。いっつも誰かと楽しそうに話をしていて、クラス委員長にも率先して立候補して。きっと男子に聞いても彼女の事を好いている子は多いだろう、とは思う。私に男子へと話しかける勇気が、女子の会話に混ざれるほどの話力があれば、彼女についての話だって出来るかもしれない。
「おやおや? 宝町さん。もしかしてその本は……」
一歩ずつ、その白い上履きが近づいてくる。本を見られた、という事よりも誰かに久しぶりに名前を呼ばれた事の方が、なぜか恥ずかしかった。
「やっぱり、そうだよね。私も同じ本持ってるんだ」
鞄の中を指差しながら、彼女はそう言った。ふっと顔をあげると、眩しいくらいの笑顔がそこにあった。目を細めて嬉しそうな……ようやく仲間を見つけたという安心感がきっと含まれている、優しい笑顔。
「え、と。――好きなの? こういうの」
鞄から本を取り出して、表紙を見せるように両手で胸の前に掲げた。出来れば、この熱くなった顔を本で塞いでしまいたいけれど、それよりも彼女の反応が見たい。口から下を隠すように、ゆっくりと持ち上げながら、反応を待った。
「テレビの怖い話とか見ちゃうけど、それとは違う――ぞわぞわ、かさかさって背後に感じる、そういう所が好き」
彼女も同じなんだ、そう感じた時には顔の熱さなんて気にならなくなっていた。お互いに好きな作家や作品、どういうシーンがいいよねと語り合っているうちに、最終下校を告げるチャイムが鳴ってしまった。
「じゃあ、続きはまた明日、だね!」
「そ、そうですね。それじゃあ」
二人で椅子をしまう。ゴム足が板張りの床をなぞるキュキュキュという音が、もう終わってしまうのかと言っているように聞こえた。
翌日の放課後も、その次の日も。時には出てくる怪物の鳴き真似や動きを再現したり、こういうのが居たら怖いよねと二人で創造してみたり。中学校で一番楽しい時間を過ごしているという実感が、初めて友達が出来たんだという喜びが、頭の中を満たしていた。
翌週になると、彼女はあまり教室に残らなくなった。休み時間中に周りの話を聞いていると、演劇部の方が忙しくなってきたらしい。
7月の終わり頃にある文化祭の、演劇の練習。仕方のない事だと分かっていても少しだけ寂しく感じてしまう。
部活の休みの日にまたお話しよう、と提案した時も、「ごめん、カラオケに誘われててさ。来週にしよ?」と返されて。
一日ごとに不安になってしまう。飽きるまで喋ってしまったから、本当に飽きられちゃったんじゃないか。演劇が忙しいというのは嘘で、しつこく喋りすぎてしまったんじゃないか。そんな考えが心の中に黒く固まって、何をしていてもそのモヤモヤを思い出してしまう。
昼休みに馬込さんへ、「今日は時間ある?」と勇気を出して聞いてみた。きっといつもと同じように断られると思っていたけれど、いいよという返事を貰えた。久しぶり過ぎて何を話せばいいのか分からないくらい嬉しくて、早く放課後にならないかなとワクワクして。
他の生徒たちが教室から出ていくのを待ちながら、馬込さんと二人きりになるタイミングを待ってた。
「あのさ、前から言い出そうと思ってたんだけど……演劇部の練習が忙しくて……ゴメンね?」
「ううん、そうじゃないかなと思ってたから、全然」
全然、大丈夫じゃない。
「そういえばさ、音楽の授業の時に歌ったでしょ? 宝町さん上手かったから今度一緒にカラオケに行かない? 皆も誘ってさ」
「……そうじゃない」
「――え?」
「…………私は、馬込さんと本の話をしたいだけなの」
彼女から見えない角度まで下を向いて、本当の気持ちを伝える。
「いつも皆から好かれてて、そんな馬込さんを独り占め出来る時間が欲しかったの」
「えーとさ、ちょっと落ち着こう?」
「だから、他の人なんて要らないし、カラオケにも行かない。こうやって、前みたいに楽しく話してくれるだけで十分なの」
顔を上げると、そこにあったのは私の知らない馬込さんの顔だった。
「さっきから聞いてれば、何? 独り占めとか重てーしさ。こんなヤツなら話しかけるんじゃなかったわ。ほんと時間の無駄だった」
え? 嫌。 そんな事を言うなんて。
「――とか演劇部の先輩方が書いた台本にあってさー。どう? 上手く出来てたかな?」
びっくりしすぎて頭が回らない。今のが演技だった、の?
安心すると共に涙が溢れ出て止まらなくなる。
「おー、よしよし。ごめんねぇ、泣かせるつもりは無くってさ。ほら、ハンカチ貸してあげるから泣き止んで……ね?」
トイレまで手を引いて連れてきてくれて、目が赤くなってると教えてくれて。
涙の跡を水で洗い流して、目薬をさして。メガネをかけてから馬込さんの顔を見る。
「ほんとにごめんね、前みたいに下校まで喋るのは難しいけど、これからは少しずつ話せるように調整するから、さ」
「馬込さん……」
前に見た時みたいな、目を細めて眩しい笑顔を見せてくれた。
「そうだね、私もごめんね……仲良く前みたいな話が出来ればそれだけで十分だから、これからも……」
「じゃあ、仲直りのハグ! ほら、おいで!」
両腕を広げて、私のためのスペースを空けてくれた。
その中に飛び込んで、嬉しくなって抱きしめる。
目薬の所為なのか、鏡の中の……馬込さんの左目が薄く開いているように見える。
まるで観客の反応を確認しているような……。
百合が書けるのかという話題から、過去にボツとしたものを掘り起こし修正したもの。