八月七日
昼のことである。私は本館の二階にいた。渡り廊下から出て、本館の廊下を進んで左奥にある座敷の前。中からは二人の女の声がする――。
一人は怯えた様子の若い女で、もう一人は老婆だった。
「何をするんですか?」
「いいかい、これは遊女になる為の大事な儀式だ。すぐ終わるから、じっとしているんだよ」
中にいたのは小夏と遣り手婆のようだ。通りがかった時になんとも言えない不安な気持ちになり、私は会話を盗み聞きしていた。
「……っそんな、なんですか、それは!」
小夏が声を張り上げる。
「そりゃあ、見れば分かるだろう。〝縁起物〟だよ。あんたは明日から遊女として働くんだからね。客が本当の初めてだと、痛がりすぎて気分を悪くさせちまうだろう。これは練習だよ。ほら……」
そこからしばらく、ドタバタと暴れるような音が鳴り響いた。しかし、急にその音は止まる。
「やめてくださいっ、竹地さん! 自分でやりますからあ! やめて!」
小夏の悲痛な叫びが響き渡る。程なくして、物凄い絶叫が聞こえた。それは廓全体に響き渡るんじゃないかと思うくらいの、恐ろしいものだった。この状況でなければ、断末魔なんじゃないかと思う程の……。
「まったく、こんなにうるさいのは初めてだよ。……あんた、客が初めてじゃなくて本当に良かったね。今日の夜はこれを詰めて寝な。あたしゃもう戻るから、あんたもさっさと来ること」
遣り手婆はそう言って、座敷から出てくるようだった。
まずい。立ち聞きしていたのが見つかってしまう!
私はとっさに、横にあった物置の扉を開けた。
そこには人が一人入れるくらいの隙間しかない。体を滑り込ませると、音を立てないように扉を閉めた。
それと座敷の襖が開くのが同時だった。なんとか間に合ったのだ。遣り手婆の足音は、廊下を進んで行く。しばらくするとそれも聞こえなくなった。
長くここにいると、それはそれで誰かに見つかってしまうかもしれない。早く出なければ……。
そう思ったのだが、左側の壁から聞こえて来る小夏の啜り泣く声が、どうしても耳に入ってしまう。
声を押し殺すように啜り泣く様子は痛々しく、私まで泣きたくなった。
きっと、私は小夏のことが気になっていたのだろう。今まで異性など母と姉の菊しか知らなかった。それが急に女だらけの世界に放り込まれて、同い年くらいの美しい少女を知ってしまったのだから、恋をするのも無理はない。もっとも、これが恋なのかすら私には分からなかった。でも小夏が傷つくことでこんなにも辛いのだから、これはきっと恋なのだろう。
小夏の泣き声は次第に小さくなり、「はあ……」と大きなため息がひとつ聞こえる。
それ以降、辛そうな泣き声は少しも聞こえなくなった。
私は廊下に誰もいないのを確認して、そっと物置から出た。廊下に出て、ふと考える。私がこの座敷に入って、もしも小夏を慰められたならどうなるだろうか。
考えても、私は何もできなかった……。
ほたるの授業が終わり、夕日が差し込む別館を歩いていた。本館の方にはもうすでに客は来ていて、くぐもった遠い笑い声が聞こえる。天井からはぎしぎしと床が軋む音がして、微かな喘ぎ声も聞こえた。二階にいるのは朱文金だ。今朝の、あの忌々しい朱文金。あんな恐ろしい女が客を取って行為をしていて、しかも一番人気だなんて……信じられない。
あのまま小夏が現れなければ、今頃私は生きていなかったんじゃないか。そんな嫌な想像までし始めて、私は気分が悪くなる。とりあえず本館に行って何か手伝おう。今は別館にはいたくない気分なのだ。
しかし万が一朱文金に気付かれたらと思うと、私は恐ろしくて階段を使えなかった。
結局、中庭を通って本館まで行くことにした。
木の引き戸を開けて、次に厚い硝子戸を開ける。生温かい空気が体にまとわりつく。裸足で駆けるつもりだったが、意外にも硝子戸を開けた下には下駄が置いてあった。こちら側に二足、本館の方にもよく見たら二足ほどある。やはり本館一階から別館一階まで行く際に、階段を使うのは手間がかかるからだろう。
私はひんやりした下駄に足を通し、中庭を歩き出した。気にしないつもりだったものの、中庭にある小屋が妙に存在感を放っていて不気味だ。あそこにも、まるで誰かが住んでいるようである。
廊下に続く引き戸に手をかけると、あっさり開く。私はそのまま下駄を脱いで、一際遊女達の声が聞こえる本館に入った。
ふと玄関の方から来る人影に目をやると、それは小夏だった。逆光で表情は見えないが、若干俯いている。
「沸嗣様?」
私に気づいたのか、はっと顔を上げた。憔悴しきった表情をしている。
「……私の名前、ご存知ですか?」
「小夏さんですよね?」
小夏が微笑む。そんな顔をされたら、思い上がってしまいそうだ。
「私、明日から鮎って名前になるんです」
細まった瞳が潤んで、涙の粒が溢れる前に、小夏は廊下を駆け抜けた。
小さな背中。残った空気からは、ほんのりと磯の匂いがした。