八月七日
私は早起きをして、本館を歩き回っていた。
特に用事がある訳ではない。ちょっとした冒険気分だ。とはいえ微かな罪悪感があるので、なるべく音を立てないように廊下を歩く。客と遊女が寝ているからか、微かな寝息といびきが聞こえる。
廊下の突き当たりにある採光窓からは、朝の薄暗い光が差し込んでいた。その光が届かない場所には相変わらずねっとりとした闇が蹲っており、それを行灯が照らしている。私は廊下を引き返すと、階段を降りた。
夏だというのに、早朝だからか空気が生ぬるい。階段の途中に設けられた窓からは霧がかかった風景がぼんやりと見えた。
板張りの階段がひんやりしている。体重をかけるとみしっ、と音が鳴った。踊り場まで来ると、ぺたぺたと歩き回る私の足音しか聞こえなかった。
――そう思ったが、微かに奇妙な音がする。一階の廊下の奥の方で、微かに……。
ざあああぁぁぁあっ。
ざあああぁぁぁあっ。
床に布が擦れるような音だ。何かが床を這いずり回っている……?
ざあぁっ。ざっ、ざああぁ……。
ざぁああぁぁあっ。
少し音の長さが変化した。全身に鳥肌が立っている。
廊下には何がいるんだ?
今すぐにでも走って引き返したい。でも、今大きな足音を立てて引き返せば廊下にいる〝それ〟に気づかれてしまうのではないか。廊下には何がいる?
きっと、私が過剰に怖がっているだけで、廊下にいる〝それ〟は大した物ではないはずだ。大方、厠に起きた遊女が着物を引き摺っているだけだろうーー。
そう思ったが、すぐにそれは有り得ないことに気がついた。厠の扉は、階段のすぐ目の前にある。音の主が厠に起きた遊女なら、厠に向かう時に必ず私の視界に入る筈だ。それに、音はそもそも移動していない。……なら、一体誰が?
考えるうちに、好奇心がむくむくと膨れ上がってくる。怖い。でも、見てみたい。確かめたい。
私はそろりそろりと階段を降りた。最後の一段を降りようとして、踏みとどまる。ここから廊下を覗けば、見たくない〝何か〟に見つかっても、すぐに逃げられるのではないか。そうだ……そうしよう。
私は左側の壁に身を預けるようにしてゆっくり廊下を覗いた。向こうにはただ玄関が見えるだけで、何もいない……。
なんだ、勘違いか。
そう思い頭を引っ込めようとした瞬間、床に何かが張り付くように横になっているのを見つけてしまった。
ひゅっ、と喉から変な音が鳴る。横たわったそれは遊女だった。煌びやかな着物を着て、しかしその乱れも気にせずに、屍のように横になっている。時折泳ぐように手足を動かしていた。
私の頭は混乱していた。もし手足を切り落とされて達磨のようになっている遊女がいれば、私は一目散に逃げようと思っていたのに。
ざあああぁぁぁあっ。
ざあああぁぁぁあっ。
紛れもなく、この音は遊女が出していた。まさかこの女が朱文金なんじゃないか。
遊廓は川を跨いで建っているから、ちょうどこの遊女がいる辺りは川の真ん中だろう。朱文金は湖に入れない代わりに、川の上にいる……?
よく見ようと身を乗り出した時だった。
私は体勢を崩し、床に右足をついてしまったのである。
しまった!
遊女の体がぴくっと反応する。気づかれた。
そのまま首が、こちらを見ようとして、ぐぐぐぐぐ……っと曲がり始めた。逃げなくちゃ……。
そう思っても、体は金縛りのように動けない。いつの間にか私は、その遊女の顔を確認したい衝動に駆られていた。
私は魅せられたように、白い肌がこちらを向くのを凝視していた。すっと通った鼻筋に、不気味なほど微動だにしない小さな紅い唇。そして瞳は、見た目こそ普通の人と同じだが、どこか透き通っていて暗い。一瞬顔に二つの黒い空洞が出来ているのかと思った。その瞳を見つめる感覚は、井戸を覗き込む感覚に似ている。このままだと吸い込まれて、落ちてしまいそうなーー。
「はあっ」
私はようやく呼吸を思い出し、後ろに倒れ込んだ。どうやら一階の廊下まで降りて来て、この遊女と睨み合いをしていたらしい……。遊女は体を投げ出したまま、顔だけ上げた不気味な体勢から動いていない。
しかし遊女は少しづつ立ち上がっている。彼女……いや、なぜか人とは思えない……〝それ〟と睨み合いながら、私はどんどん後退りをした。ついに〝それ〟が完全に立ち上がった時、私の背中には壁がぴったりとくっついていた。これ以上後ろには行けない。
ゆっくり、ゆうっくり……遊女は私に近づいてくる。
……逃げられない。
遊女が両手を広げて、廊下を全身で塞ぎながら迫ってくる。私は罠にかかった魚のように追い詰められる。
遊女の顔を見た。瞳はこちらを向いていたが、私を見ている訳ではなかった。もっと遠くの、いや、廊下そのものを見ているようであった……。まるで、廊下がどんな形をしているかは知っているのに、そこにいる私だけは見えず、音と触覚だけを頼りに私を探しているようなーー。
やはりこの女は目が見えていないのだろうか。だとしたら、この女こそが朱文金になる。こんなのが客に一番人気だなんて、信じられない。
ぺた、ぺたと足音が近づいて来て、朱文金の部屋の前で嗅いだ香りが漂って来た。間違いない。この女こそが朱文金なのだ。
朱文金は玄関から入る光に背中を向けて、体に真っ黒に影が落ちて見える。顔だけは、私の頭のすぐ上にある窓から入る光で、ぼんやりと白く浮かび上がって見えた。廊下に白い顔が浮かんでいる。
そう考えているうちにも、朱文金は私に向かってゆっくりと近づいて来る。逃げなくては……。
でも、どこから?
あるのは朱文金の着物の袖と床との隙間だけだ。私のそこそこ大きい体では、その隙間を気付かれることなく通り抜けることは出来ないだろう。でも、やらなければどうなるか分からない……。朱文金も人間だ。まさか私を取って食おうなどしないだろうが、そうとも言い切れないのが恐ろしかった。
じわりじわりと距離が縮まる。私は床にしゃがみ、体を前屈みにした。朱文金が一歩踏み出す。その瞬間、私は思い切り床を蹴って僅かな隙間に飛び込んだ。着物の袖を突破すると、すぐ横に階段がある。でもこのまま別館まで走って逃げると、朱文金も走って追いかけて来そうな気がした。
バンッ!
私はわざと階段の奥の方に手を伸ばし、板を手で叩くと、そのまま階段には登らずに化粧部屋の方まで静かに後退りした。上手くいけば朱文金は、私が音の鳴った方にいると思うはずだ。もし他人がこの光景を見れば滑稽だと嘲笑ったことだろう。しかし私にはこれしか手がなかった。
……頼むから、私がそのまま階段を登ったと思ってくれ……!
息を殺して、必死にその後ろ姿を見る。念を込めるように……。
ぐ、ぐぐぐっ、と不自然な動きをして、顔がこちらを向いた。そして体がそれに追いつき、私と朱文金は向かい合う。その瞬間、私は驚きのあまり声を上げそうになった。なぜ今まで気づかなかったのか。
――朱文金の顔は、かつて姉であった菊の顔に瓜二つだったのだ――。
まるで菊の顔を取ってつけたように、ほぼ同じだ。朱文金の方が目だけが虚で、穴が空いたように見えるが、それ以外は本当に生き写しなんじゃないかと思うほどそっくりである。
――私がそんなことを思っている間に、朱文金はゆっくり近づいて来ていた。
私は口と鼻を袖で覆い隠した。呼吸の音すら聞かれている気がしたのだ。
朱文金はゆっくりゆっくり歩くと、またゆっくりと方向転換をし始めた。
……階段に上ろうとしている?
助かった。安堵して、私は肩の力が抜けた。みし……、みし……、と、朱文金が階段を踏みしめる音が聞こえて来る。その体が全て見えなくなり、私はようやく息が吐けた。とはいえまだ怖いので、玄関に向かって後退りする。
しばらくして音も聞こえなくなり、私は静かに廊下に横になった。突然眠気が襲ってくる。いつもよりかなり早起きをしたからだろう。
窓の外はうっすら明るくなっている。私は起き上がって、眠気で重い瞼を擦った。
階段のあたりに、壁から白い何かがにゅっと突き出ている。ぼやける視界にそれだけを捉えて、私は嫌な予感がした。
次第に輪郭がしっかりとし始めて、それが誰かハッキリと分かるようになってしまう。
そんな、まさか。
「うわあぁっ!」
思わず絶叫して、後ろに倒れ込んだ。
私が朱文金を覗いていたのを再現するかのように、朱文金が壁から顔を突き出して私を見ていた。
なぜ⁉︎ もう別館に戻ったんじゃ……。いや、どうして目が見えないのに私と同じ格好ができる?
頭が真っ白になった。意味が分からない。朱文金はさっき階段を登ったはずじゃないか。まさか階段からは私の気配を感じずに戻って来たとでも言うのか。
朱文金と目が合う。
二つの深い穴が顔の中にあるようだった。これからどうなる? 朱文金は私が見えているのか?
その時――。
「きゃあっ!」
そう後ろから短く聞こえたと思うと、背中に衝撃が走った。次いで、額に鋭い痛みを感じる。瞑っていた目を開くと、すぐ近くに床があった。
何があった……? そう思い起きあがろうとしたが、背中が重い。それになんだか妙な物が当たっている気がする。
「あっ、すっ、すみません! に、沸嗣様ですか……?」
背中の重みが無くなったかと思ったら、背後からそう聞こえて来た。
「はあ、そうですけど……」
振り向くと、私に倒れかかって来ていたのは、なんとあの﨓中小夏だった。透き通るような白い肌に赤い頬。大きな瞳はこげ茶色だった。
そんな美少女が長襦袢を着て、私の尻に馬乗りになっている。それは女性経験のない十五歳の私を興奮させるには、充分すぎる出来事であった。
となると、背中に当たっていたのは……。
「御無礼をお許しください!」
私の想像が広がる前に、小夏は私からさっと降りて土下座をした。
「私が下を見ていなかったが為に沸嗣様にご迷惑をかけてしまいました……。申し訳ありません」
「そんな! 邪魔な場所にいたのは僕の方ですから、気にしないでください」
そう言ってから、急に朱文金のことを思い出して階段の方を見た。……いない。
「どうなさったんですか?」
小夏は不思議そうな顔で私を覗いている。
「なんでもないんです。……それでは」
私が立ち上がると、小夏は酷く不安そうな顔をした。
「あっ、別に誰にも言いませんよ」
小夏は少し安心したような顔をして、ぺこりと頭を下げた。
まだ日記には書いていなかったが、実を言うと、夜な夜な中庭にある小屋から遊女の呻き声や悲鳴が聞こえるのである。それは決して幽霊などではなく、粗相をした遊女が遣り手婆に折檻されているのだ。金色遊楼は部屋数が少ないので、中庭に物置兼折檻用の小屋が建てられたらしい。きっと小夏は、私が父の正治や遣り手婆に告げ口をして、自分が折檻を受けるのを恐れているのだろう。
実際、私も遣り手婆からその内容を聞いた時は戦慄した。顔などの客の目につく場所は決して傷つけずに、見えない部分を叩いたり殴ったりすると言うのだ。
また厠の掃除をさせたり、閉じ込めて飯抜きにさせたりもするらしい。そんなのはまだいい方で、遊女を素っ裸にしてしまい、麻縄で縛り上げて冷水をかける折檻もあるという。水を浴びた縄は縮こまり、遊女は耐え難い苦痛を味わうのだ。
以上のことは遣り手婆がやるが、遊女の脱走に関しては違うらしい。あの手足を切り落とす残酷な罰は、遣り手婆ではなく楼主がやるのだ。
私が見たあの遊女も、父が手足を切り落としたのだろう。
そうして、何食わぬ顔で私を迎えた……。
それだけじゃない。私が楼主を継げば、今度はその役割を私がやらなければならないのだ。
それなら、私が制度を変えればいいのではないか。
そう思ったが、手足を切り落とす罰は、単なる罰でもないようだった。遣り手婆曰く数年に一人は必ず足抜けする遊女が出るらしい。かつては足抜けした遊女は全員殺していたが、まだ借金が残っていると遊郭側の損になる。かと言って殺しもせずに折檻だけで済ませれば、足抜けしようとする遊女が何人も出てくる。そこで手足を切り落とすという残酷な罰にしたのだ。
しかしこれにも遊廓の策略があった。楼主が惚れていた遊女や、借金の多い遊女、稼ぎ頭の遊女なんかは、一度に四肢を切り落とさずに一本一本切ることで死ぬ可能性を低くしていた。もちろんそれで死ぬこともあったし、遊女としては痛みに耐える時間が長い分辛かったであろう。
しかし生き残ればまだその遊女で稼げるのだ。しかも四肢のない遊女を好き勝手したいと来る輩もいるらしい。
逆に、借金を全て返済した年季明けの遊女は、容赦なく殺されるという。手足だけでなく首まで切り落とされることもあるそうだ。こうやって口で言うだけでなく実行することで、ある程度の緊張感を与える。そうしなければ足抜けを企てる遊女は山ほど出てくるし、結果的に一人の犠牲で遊廓側の損は少ない。
結局、遊女は商売道具でしかないのだ。
そしてその遊女達に残酷な仕打ちを与えて来た一族の血が、私には確実に流れている……。
貧乏であっても、海原沸嗣のままでいた方が、幸せだったと思う。