八月六日
この日は父が家庭教師を呼んだ。やって来た家庭教師は女で、ごく普通の見た目をしていた。ただ似合わない洋服と冷たい表情で、あまり良い印象とは言えない。
「川原ほたると申します。よろしくお願いします」
そう冷たく名乗った。彼女は私のことは皆と同じく「坊ちゃん」と呼ぶーー私は廓の人々に、いつの間にやら「坊ちゃん」と呼ばれるようになっていた。
「坊ちゃんは読み書きが出来るのですね」
やって来て早々確認をすると、この文字は書けるかと問題を出し、少しずつ難しくしていった。
「しっかりと教育を受けた十五歳よりかは遥かに劣っていますが、奈神村で育てられたにしては良い方でしょう。坊ちゃんには今日から、計算問題を中心に勉強をし、余った時間で読み書きの勉強をしてもらいます。使用した紙は毎回、私から正治様に受け渡しをしましょう。あまりにも覚えが悪いと私が叱られますので、しっかりと取り組んでください」
あまりに覚えが悪いとほたるが叱られるのは家庭教師だから仕方ないが、それを私に言う必要はないはずだ。ほたるは本当にちゃんと勉強を教えてくれるのだろうか。少し先が心配になる。
しかしそれは杞憂に終わった。ほたるは愛想がない分、無駄なことは一切言わない。他の遊女達のように人の悪口も言わなければ、私が問題を上手く解けなかったところで悪態のひとつすらつかなかった。その安心感からか、私は気負いなく勉強に取り組むことができた。なにしろ、今まで一切勉強というものをしてこなかったのである。知識を頭に入れるという行為は刺激的で面白かった。私が分からない箇所を聞くと、ほたるは表情ひとつ変えず解き方を教えてくれる。ほたるに安心感を覚えたのは、どことなく雰囲気が菊に似ていたからだろう。
「あの、川原さん」
ほたるが帰る頃、私は彼女を呼び止めた。ほたるはこちらを魚のような瞳で見つめる。部屋の奥の格子窓からは朱色の毒々しい光が差し込んで、部屋全体が赤らんで見えた。
「川原さんは『ほたるこい』の歌って知ってますか?」
私がそう聞くと、ほたるはゆっくりと私の部屋の中に戻った。襖がぴしゃりと閉められる。聞いてはいけないことだったのだろうか。
どぎまぎしていると、ほたるは突然歌い出した。
「ほう ほう ほたるこい
殺した屍重いぞ
そっちの袖が赤いぞ
ほう ほう ほたるこい
そっちの湖遠いぞ
お前はほんとにほたるか?
ほう ほう ほたるこい
ほう ほう ほたるこい」
昨日と同じ歌詞。綺麗な声なのに、私の背中一面に鳥肌が立っている。
「坊ちゃんがおっしゃっているのは、この歌のことでしょうか」
声も出せずに頷く。
「有名な歌ですよ」
そう言って引き返そうとしたので、思わず彼女の腕を掴んでしまった。
「こっ、この歌、何を歌ってるんですか?」
ほたるは動揺する素振りも見せない。
「殺人です」
殺人?
最初は何を言っているのかさっぱりだった。歌詞が殺人を表しているなんて……。
小柄な男が、死体を運ぼうとするも苦戦している。
男は「そっちの袖が赤いぞ」と言われ、己が残した証拠に驚く。
湖は遠いから、湖に着く前に見つかってしまうぞーー。
蛍が来れば、お前の姿が見えるようになるぞーー。蛍来い。
つまりこういうことなのだろうか。この時私はとっさに男を思い浮かべたが、女である可能性だってある……。要は、死体を運ぶのに苦戦しているのだ……。
しかしどれだけ考えても、「お前はほんとにほたるか?」だけが分からない。来た虫は蛍ではないのだろうか。そもそも、この歌は誰の目線なのだろう。殺人犯を見つけたなら、普通の人ならば一目散に逃げて、他の人々に教えるのではないか。なぜ殺人犯を嘲笑うようなことを言う?
考え込んでいるうちに、ほたるが私の顔を覗き込んでいることに気がついた。驚いて二、三歩後ろに下がる。
「殺人を犯せば必ず見つかるという歌ですよ。子供にも教育として親が教えるんです」
そう言い残すと、ほたるは部屋を出て行った。
廊下の冷たい空気が私の顔にかかる。化粧部屋の空気と違い、ふわりと柔らかい。しばらくすると、父とほたるの話し声が聞こえて来た。
私はその場に座り込んだ。