八月五日
ついつい、三日の文章量が多くなってしまった。もちろん四日目もあると言いたいところなのだが、その日は多忙のあまり日記を書けていない。当時の私の日記にもそう書かれていた。
実際の日記も同じことをしていることだし、五日の分の日記は、四日のことも出来るだけ記述するようにしようーー。
まず自分の部屋は、結局赤前垂れのチズルが掃除してくれた。一人で大変そうだったにも関わらず、手伝おうとしても頑として拒否した。私を雑用で働かせる訳にはいかないらしい。しかし、チズルは掃除が遅かった。丁寧なのだが、その分時間がかかっている。このままでは遣り手婆にチズルが怒られる気がして、私はあくまでも命令として掃除を手伝った。
その日は特にすることもないので部屋を少し片付けたり、家具の中を見てみたりした。箪笥などといった家具や、文机が置いてあるのにも関わらず、この部屋は十分過ぎる程の広さがあった。そうして、本館の方に一人で行くのはなんとなく憚られたので、別館の周りを一周してみることにした。自分の部屋から出て奥に進んだ所でただの壁しかない。なので私はさっき降りて来た階段の方まで向かった。廊下の行き止まりになっているはずの壁が、木でできた引き戸であることに気がついた。
私は冒険心に心躍らせながら引き戸を開けてみる。これくらいでは怒られないだろう。すると、そこには左右に広がった廊下と、更にそれを覆う硝子の引き戸があった。大きめの格子模様の隙間に硝子が張られ、その向こうには中庭、更に向こうには本館と思われる建物の足元が見えた。外には何足か下駄が揃えておいてある。中庭を歩いて本館に行けるようになっているのだろう。廊下は、右は建物の角で終わっており、左は角を曲がった所まで続いているようだ。
私は引き戸と、硝子戸に挟まれた廊下に出てみる。
ほんの少しだけ鼻につく悪臭がした。まさか、厠があるんじゃないだろうか。
そう思い、廊下の続いている左側に行ってみる。やはりそこには厠があった。別館の内側に組み込んでしまうと、臭いがして駄目なのだろう……。そう思い、私は催した訳でもないのに厠の扉を開けていた。
中はそこまで綺麗ではないが、汚くもない。私達が使っていた厠に比べたら臭いも汚れも全く気にならない程度である。
私は四日になると、遣り手婆に案内されて遊廓の本館を見学した。
まず分かったのが、三階は人気遊女の部屋となることだ。出目金が朱文金に次いで人気の遊女だったということを、私はここで初めて知った。
そして次に、同じく三階に部屋を持つ錦鯉、二階に部屋を持つ葦登、らんちゅう、同じく二階に部屋を持ち、出目金の話には登場しなかった二人の遊女がいることが分かった。その二人の遊女はメバルと海月というが、大して関わりを持ったことはない。
メバルと海月に比べると、葦登とらんちゅうの部屋の方が若干大きい。人気によって稼ぎが変わるので、人気がある方が大きな部屋を借りられるらしい。
そして気になったのが、三階の大部屋の多さだ。大部屋は三つあり、そのうち二つは普段は襖を付けて普通の客引きの部屋にしている。そして、大人数の客が来れば襖を取っ払って大部屋にしてしまうらしい。出目金と錦鯉は、人気があるだけでなく芸事に秀でていて、大勢の客が来る宴会で特に活躍すると遣り手婆が言っていた。この寂しい島にそんなに沢山の客が来るだなんてにわかには信じ難かったが、遣り手婆の話を聞く限り本当のようだった。
「坊ちゃん、この島には、毎年沢山の漁師の方々がお越しになるんです。女っ気のない船の上に長いこといたんですから、そりゃあ飢えに飢えている訳ですよ。飢えた男衆は、吉原遊廓のような高級な場所で、たっぷり時間とお金をかけて優雅に遊ぶことなどできません。ですから、本土からわざわざこっちまでお越しになるんですよ。それが私らには貴重な収入源という訳です。若い漁師なんて、特に金遣いが荒いですからね」
なぜか急に、私の呼び名が坊ちゃんになっていることはいいとしてーー遣り手婆はそう私に説明した。確かに、あんなに静かだった奈神村にまで、どんちゃん騒ぎの音が聞こえてきたことがある。勿論それは数える程しかなかったのだが、その時は遊廓に漁師が来ていたのかもしれない。
「漁師さん達が来る日は、他の遊女達も大活躍ですよ。それでも金遣いの荒さに遠慮しない図太さと、沢山の男相手に芸を披露し酒を頼ませる技量がなきゃできませんわ」
遣り手婆はそう締め括ると、一階まで私を案内した。厠から赤前垂れの部屋、台所、食事部屋まで見させてもらって、ついに化粧部屋に足を踏み入れた。その瞬間、もわっ……と、嫌な臭いがした。
香の臭いもあるが、それ以上にねっとりとした、鉄のような臭いが……。
私はあの遊女を思い出した。体を這わせ、必死に逃げようとする遊女。暗闇からぬうっと出てきた手に捕まり、闇の中に引きずり込まれると手足を切り落とされ、他の遊女達への見せしめで化粧部屋に放り投げられる……。
それを見た遊女達が気分を悪くして何人も嘔吐している――そんな光景が目に浮かんだ。化粧部屋の中はあまりにも、様々な臭いが混ざり合って重い空気だった。まるで臭いが重みを持っているようである。
気分を悪くして、私は足早に化粧部屋を離れた。後から聞くと、化粧部屋は遊女達が化粧をする以外に、店が開く時、全員の遊女が化粧部屋に集まって、誰に最初に客が来るか分かるようにしているらしい。そうすることで遊女達の競争心を煽り、しっかりと仕事をするようにさせる。最初の客がつけば、それ以降はそれぞれの部屋で待機することになる。部屋のない遊女はまた化粧部屋で待機だ。
そして遣り手婆は、あんまり一日に何度もお下働きをすると、お秘所が〝馬鹿になる〟と言っていた。私はその馬鹿になるという表現が心底気持ち悪かった。
大切な商売道具が壊れてしまうのは勿体ないから、稼ぎ頭の朱文金にですら一日に沢山の客をあてがわないらしい。
ここで、錦鯉と出目金は例外になるらしいのだ。二人の客層は、ただお下働きを求めて来ると言うよりも、騒いで日頃の鬱憤を晴らしたい客が多い。
出目金や錦鯉はお下働きをしないこともあるので、他の遊女より沢山の客のあてがってもらえて、その分稼げるという訳だ。
「ただまあ、それは二人の芸事の腕があってこそですよ」
遣り手婆曰く、いくら明るい性格で客の相手をできても、それが人気に直結するという訳ではないらしい。実際に芸事もどんちゃん騒ぎもしない朱文金が遊廓の稼ぎ頭なのだから……。
そして、顔の良さも売り上げには直結しないらしい。いくら顔が良くたって、人気のない遊女は人気がない。逆に、顔立ちが目立たないからといって不人気という訳でもないのだ。こんなことを言っては悪いが、らんちゅうはかなり人気にも関わらず、普通の顔立ちをしている。泣いて目が腫れるので、実際には美人とは言えない顔になるのだが、愛らしく誰からも好かれているらしい。実際私が会った時も、らんちゅうは他の遊女達よりもやわらかな雰囲気を纏っていた。まるで母親のような、包囲力のある女性だと思った。
彼女はすぐに泣いてしまうらしい。きっとこの様子に男心がくすぐられて馴染みになる客が多いのだろう。
葦登に関しては、出目金の言った通りだった。遣り手婆の前では私に敬語を使ったが、遣り手婆が席を外すとすぐに敬語をやめて、鋭い目つきで睨め付けてくる。そして吐き捨てるように、
「……奈神村育ちの餓鬼になんて、あたしは命を預ける気になれないわよ」
低くハッキリとした声でそう言われた。肌がひりひりするような威圧感。遣り手婆が戻ってくると、葦登は無言になりそっぽを向いた。私達が彼女の部屋から出るまで、ずっとだ。
……最後に、最も印象に残った人がいた。遊女達の共同の寝室から出てきた所に鉢合わせたのだが、彼女は私を見てぱっと顔を赤らめて、部屋に戻ってしまった。遣り手婆曰く、彼女はまだ遊女として客を取っていないらしい。赤前垂れと同じように店の手伝いをしたり、先輩遊女に色々と教わったり、芸事などを叩き込まれている最中らしいのだ。
「源氏名って、まだつけていないんですか?」
遣り手婆はさも当然かのように「そうですよ」と言った。彼女は、﨓中小夏という名前らしい。歳は私と同じくらいに見えた。きっと、もうすぐ遊女として店に出るようになるだろう。それを彼女も知っている……。
だから、自分と同じくらいの年頃の私とは顔を合わせたくなかったのかもしれない。
この日は錦鯉と朱文金とは、顔を合わせなかった。
私の遊廓での生活は、意外と不自由することがなかった。なにより白米を三食必ず食べられる。遊女達はこの食事にも、質素だと飯炊きに罵声を浴びせたりするらしいが、私にはとても質素に思えなかった。ただこの豪華な食事は、遊女達がお下働きするからこそ食べられるのだ。私は何もしていないのにこんなにも豪華な食事を食べられて、なんだか申し訳ない。
今日の夜、私は赤前垂れや新造の仕事を手伝った。酒と花を、三階の大部屋まで運べという内容である。夜の賑やかな廓の中は、行燈が廊下や部屋の至る所に置かれており、それが暗闇をぼんやりと優しく照らしている。廊下の両端には必ず樽が置いてあって、そこにはたっぷりと水が張ってある。火事の防止の為であろう。
遊女と客の喘ぎ声、吐息、笑い声、何かの楽器の音。廓の中で、それらがぐるぐると混ざり合っていた。私の足音も聞こえない。私は盆に酒を乗せ、桃の花を小脇に抱え、三階へと続く階段を登る。
次第に、客と遊女が歌っている曲が何という曲なのかが分かり始めた。「ほたるこい」だ……。どこかで聞いたことがある。しかしその歌詞は、私が知っているものとは大きく異なっていた。
女のよく通る高い声で、男達の笑い声や襖を突き破るように、私の耳に歌が届く。
「ほう ほう ほたるこい
殺した屍重いぞ
そっちの袖が赤いぞ
ほう ほう ほたるこい
そっちの湖遠いぞ
お前はほんとにほたるか?
ほう ほう ほたるこい
ほう ほう ほたるこい」
変な歌詞……。替え歌を作って、客と楽しんでいるのだろうか。
私は少しの間動けなかった。
女の美しい歌声と、男達の笑い声や喘ぎ声という雑音、廓をぼんやりと照らす行燈。それらが織り成す空間を、私は初めて心地良いと思った。体が生ぬるい空気に溶けて、一体化したような感覚を覚える。
しかしその不思議な空間が壊れるのは一瞬であった。右前の大部屋の襖がすうーっと開き、その暗闇の隙間から出目金の顔がぬっと突き出される。彼女は瞳をきょろきょろと動かすと、私を捉えてにっこりと微笑んだ。
確かその後は出目金に酒と花を渡したはずだったが、記憶が曖昧で思い出せない。とにかく今日の仕事はそれだけで、私は眠りについたのである。