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蛇島(R-15版)  作者: 蛇迫沸嗣
蛇迫沸嗣の日記
5/23

八月三日

 私はそれを聞き、昨日の花魁ーー遊女を思い出した。手足を縛られて、くねくね、くねくね地面を這って、暗闇の中から伸びる手に連れ去られてしまう……。

 連れ去られた遊女は、あろうことか手足を切り落とされるのだ。生活の為に親に売られて、世間には恥だと蔑まれ、それでも毎日仕事をしなくてはならない。逃げれば、待っているのは残虐な仕打ち。

 なんて残酷なんだろう。私はどうしてこんな家の子に産まれて来てしまったんだろう……。せめて、最初からここで育てて欲しかった。そうすれば今頃とっくに慣れていただろうに。

「……今まで、実際に手足を切り落とされた人はいるんですか」

 一瞬の沈黙が流れる。私にはそれが、昨日の出来事を言うべきか言わないべきか迷っているように見えて、恐ろしかった。

「いますよ。私も見ました。せっかくの着物を血でべっとり濡らして……。私が見た頃には失血死していました。それでも見せしめとして、廓の中に連れてこられて……何人か嘔吐しましたよ。……確か、酷い臭いでした。他の遊女の吐瀉物と、姐さんの血の……」

 そこまで言いかけて、出目金はハッとしたように黙り込んだ。

「坊ちゃん、興味があるんですか?」

 私は意味が分からず、返事ができなかった。

「この金色遊楼は、いずれ坊ちゃんが継ぐことになるんですよ。そうなれば、一番偉いのは坊ちゃんです。坊ちゃんがこの廓の掟を変えることだってできるんですよ! それがどれだけ歴史あるしきたりであっても、正治様がいなければ誰も口を出せないんですから……。ここだけの話、正治様は経営面では素晴らしいお方ですが、人情に欠けておられます。坊ちゃん、ですから絶対に、今のままでいてくださいね。このままではあまりにも、死んだ遊女が居た堪れないんです。自分の死を使われて、残った遊女達はより強く遊廓に縛り付けられるんですから……」

 出目金の表情には翳りがあった。その表情は、あの子供らしい笑顔からは想像出来ないほど老けて見えた。しかしすぐに笑顔になり、輝かしさを取り戻す。

「遣り手婆の竹地さんを呼んで来るので、少しの間待っていてくださいね」

 私が頷くと、出目金はすぐに建物の中の闇に吸い込まれて行った。そして外に一人取り残された私は、遊廓の外を繁々と眺めていた。

 格子に硝子が嵌められた窓の向こうに、遊女達の写真が見える。微笑んでいる者、つんと澄ましているもの、俯いている者……。その中で、私は出目金の写真を見つけた。胸を強調した着物で、歯を出して笑い、明るそうな印象を持つ写真であった。

 朱文金と葦登とらんちゅうはこの中の誰なんだろうと探そうとしている時に、ぴしゃりと鋭い声が飛んできた。

「阿保!」

 一瞬私のことかと思って身構えたが、どうやら違うようだった。すぐにどたどたと足音が聞こえて、店から白髪の老婆が顔を出した。この人が、遣り手婆の竹地さんらしい。

「申し訳ありません、うちの出目金が……。さあ、上がってください」

 私はどうして謝られているのかさっぱりだったが、言われた通りにした。

 遣り手婆は皺だらけの顔をして、それでもテキパキと動いている。出目金に話しかける時は凄みの効いた声なのに、私には急に猫撫で声で話しかけるので、こっそり山姥みたいだと思った。それと同時に、いつか取って食われるのではないかと恐怖を感じる。裏のある優しさに見えたからだろうか。


 遊廓の中は、掃除が行き届いていて綺麗だった。廊下には埃がないし、窓の端ですらも汚れて黒ずんでいる部分がなかった。

 入って廊下を真っ直ぐ進むと、左右に扉がある。この部屋にも当たり前に用途があるのだろうが、扉が閉まっていた為私には分からなかった。しかし、途中の沢山の扉が並んでいる所から、僅かな悪臭がしたので、そこは厠だろうと考えた。扉の作りが違うので、従業員用と客用に分けているのだろう。

 廊下を奥に進んでいくと、左側の部屋から女の子が飛び出して来た。が、私達に気づくと大慌てで部屋に戻った。赤い前垂れを着けていたので、この子が出目金の言っていた赤前垂れの子なのだろう。歳は私よりいくつか下に見えた。

 彼女の戻って行った部屋とすれ違いざま、遣り手婆が部屋の中に向かって注意をしたが、何と言っていたか思い出せない。

 長く続いた廊下が急に終わり、右手には上の階へと続く階段があった。遣り手婆を先頭に、二番目に出目金、三番目に私という順で階段を登る。二階に付くと、香のような匂いがかなり強くする。香を焚いているのか、それとも匂いのきつい香水を付けた遊女がいたのかもしれない。

 二階はほとんどが遊女の部屋と客を揚らせる部屋のようだった。ひっそりと静まりかえっていて、なんだか気味が悪い。そしてどうやら、私達は別館に向かっているようだったーー。

 急に、遣り手婆が振り返る。

「あんた、どこまで付いてくる気なんだい」

 真ん中にいる出目金が素っ頓狂な声を上げた。

「ええぇ、案内しろって言われたもんですから、私てっきり正治様の所までだと思ったんですけど。違ったんですか?」

「当たり前でしょうそんなこと! さあ、部屋に戻ってなさい」

 不満をぶつぶつ言いながら、出目金は自分の部屋に戻ったようだった。当然、遣り手婆は私を相手にした途端猫撫で声になるもんだから不気味だ。

 遣り手婆に連れられて、横が硝子張りになっている渡り廊下を渡った。別館に着くと、さっきとは比べ物にならないくらい心地良い香りが漂って来た。出目金の話だと、ここにいるのは売れっ子の朱文金らしい。匂いだけでも心地良いなんて。

 感心したものの、実際にそこにいたのは数秒だった。襖で仕切られたその部屋を素通りして、別館の一階へと階段を降りる。

 別館の一階は、本館の一階よりも薄暗かった。もともと蛇島の太陽が出ることが少ない気候に、この光を通しにくい建物が輪をかけて暗くしている。

 でも相変わらず掃除が行き届いているので、板張りの床が、入ってくる僅かな光をぴかぴかと反射していた。

 金色の魚の絵が描かれた襖が見える。その前に遣り手婆が座り、中に向かって「正治様」と呼びかけた。私も座るよう促されたので、そそくさと遣り手婆の陰に正座する。

 中からハッキリとした男の声が聞こえて、遣り手婆が襖を開けた。私は一緒に部屋の中に入ったが、緊張して顔を上げられず、座っている男の着物の裾しか見えなかった。

「お前が沸嗣だな?」

「はっ、はい」

 私は勢いで顔を上げた。瞬時に私の本当の父、正治の姿が目に入る。そのどことなく私に似た風貌に、やはり血が繋がっていたのだと悟った。目の前の男は、黒い髪に平凡な目鼻立ち。でっぷりと太って――はいないが、そこそこ肉がついていて、四十代後半くらいに見える。髭の剃り残しがひとつもなく、肌が妙に綺麗だった。

 正治……いや、父は、私の顔を舐め回すようにまじまじと見ている。

 取って食われるのではないかと再び恐怖を覚えたが、杞憂に終わった。

「読み書きはできるか?」

「はい。できます」

「なら十分だ。落ち着いたらお前に家庭教師を付けよう。よく覚えておけよ、今日からお前の部屋は別館の一階、今いる部屋の隣だ。どうしても足りない物があれば言うといい。日中は家庭教師に勉強を習い、暇があれば赤前垂れの手伝いをしろ。夜間は……そうだな。人手が足りなくなれば、赤前垂れの代わりに酒を運んだり飯炊きを手伝えばいい。お前はいずれこの店を継ぐことになるんだから、しばらくしたら経営のことも教えるぞ」

 父は私にしっかりとした喋り方でそう伝えると、遣り手婆に部屋へと案内させた。確かに私の部屋は父のいる部屋と廊下を挟んで隣り合っている。こちらの部屋の襖には、水草と金色の魚が戯れている絵が描かれていた。遣り手婆が襖を開くと、中から暫く動いていない、ねっとりとした空気が流れ出てくるのを感じた。私は彼女の背中越しに部屋の中を見ることができた。とても広く、家具が全て揃っており、格子が細かく入っている窓からは青白い光が差し込んでいる。しかし他の部屋と違うのは、家具や床にかなり埃が被っていることだ。そしてその様子は、何年も部屋を開かずに放置していたようにも見えた。

 長い間、使われていなかったのだろうか……。

 そう考えてから、出目金の言っていたことを思い出した。あの時、確か出目金はこの部屋のことを〝空き部屋〟と言っていた。この部屋は何にも使われていなかったことになる。だから、閉めっぱなしにして外界と遮断して、中を掃除しなかったのだろう。それなら、この部屋だけが埃まみれなのも頷ける。

「あらぁ……随分と汚れていますね。掃除させますから、少々待っていただけますか?」

「はい。雑巾と水さえあれば自分でできますけどーー」

「そんなことはさせられませんよぉ。すぐに赤前垂れを呼んできます」

 遣り手婆はそう言うと、その見た目からは考えられないほど軽快に駆けて行った。たっ、たっ、たっ、と一定の調子で階段を駆け登る音が聞こえる。私は暫く音のする方を眺めていたが、足音がしなくなり目の前に視線を戻した。

 部屋は少し細長かった。奥の方に窓がついており、そこから微かに光を取り込んでいる。格子が細かく入っており、室内が余計に薄暗くなって見えた。行き渡っていない掃除も、部屋の暗さを助長しているようだ。

 しかし私は足元を見ていて、ある〝違和感〟を感じた。最初は何にそう思ったのかすらも分からなかったが、床をよーく観察するにつれ、何に違和感を感じたのか思い出した。

 埃だ。こんなに部屋中が満遍なく埃で汚れて、微かに雪が降ったかのように白くなっているというのに、床のだいたい半分は埃をかぶっていない。それも他の場所に比べて薄いのではなく、少しも被っていないのだ。

 かつて埃を被っていたが、まるでそこに誰かが忍び込んで、自らの体で埃を拭い取って去って行ったような……。そう、私が来る直前まで。

 そう一度思ってしまえば、その部屋はもう、誰かがひっそりと身を潜めていた空間にしか見えなくなってしまった。いや、まだ潜んでいるかもしれない……。私は部屋の奥まで足を進めた。歩くたびに埃が舞い、目が痒くなる。

 埃の被った文机に近づく。そこには、埃にうっかり手をついてしまったようなーーぼんやりとした手形が浮き出ていた。

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