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蛇島(R-15版)  作者: 蛇迫沸嗣
蛇迫沸嗣の日記
4/23

八月三日

 嫌な目覚めだった。嫌な夢を見続けていたのは夜中だけだったが、朝起きた時にも額がぐっしょり濡れていた。覚えていないだけで、ずっと嫌な夢を見ていたのだろうか。

 重い体を起こして家の中を歩き回ってみる。誰も起きていないようだ。両親はいつもかなり早く起きるから、今は相当早い時間なのだろう。どうりで窓から差し込む光が薄暗いわけだ。

 私は一人居間に座り込むと、これからのことを考えた。

 私はこれからどうなるんだろう。遊廓での暮らしは、どんなものなのか。

 そうこうしている間に、母が起きてきて、菊が起きてきて、父が起きてきた。母が朝食を用意してくれる。

「沸嗣、服は向こうで貰えるそうだから、うちのは持っていかないぞ」

 父の言葉に、私は頷いた。結局、この小説の原文となった日記帳と、僅かな筆記用具、母お手製のお守りを風呂敷に包んで持って行くことになった。

 

 家を出る前、父に遊廓の名前を聞いた。〝金色遊楼(こんじきゆうろう)〟というらしい。今日から私が住む所。そんな所で楼主をやっている父は、一体どんな人なのだろうか。母は、一体誰なのだろうか……。

 両親曰く、花魁の一人が私を遊廓に案内してくれるらしい。それまで玄関で、妙な緊張感の中私達はじっとしていた。

 息を潜めて待っていると、こんこん、と扉を叩かれる音がする。母が返事をして扉を開けると、そこには派手な着物を着た花魁が立っていた。

 ただ信じられなかったのが、その花魁は張りのある大きな胸をしていながら、着物で補正することもせず、見せびらかすように胸を帯の上に乗せていたことだった。下品と捉えられても仕方がない格好である。帯も、わざと低く結んでいるように見えた。とにかく大きな胸を強調する格好なのである。

 花魁は目鼻立ちのくっきりとした顔で、私を見て一瞬目を見開くと、微笑んだ。

「こんにちは。私は金色遊楼の出目金と申します」

(実際は廓言葉(くるわことば)で喋っていましたが、そこから場所を特定される可能性を考え口語体に直しています)

「は、はい……」

 その慣れない言葉遣いに、私はかなり動揺した。全くの未知の世界だったので、喋り方がここまで違うとは思っていなかった。

「それでは、行きましょう」

 両親とは、ここでお別れだった。(あで)やかな花魁に連れられて、私は我が家を後にした。ふと、昨日花魁らしき人が這っていた場所が目に入る。そこから逃げるようにして、私の奈神村での生活は幕を下ろした。



「あ、あの、出目金……さん? 遊廓って、どんな場所なんですか」

 私がそう聞くと、出目金はくしゃっと愛らしく笑った。

「沸嗣様は、遊女が何をしてお金を貰っているかご存知ですか?」

 遊女が何を指すのか私は分からなかったが、話の流れから花魁だろうと推測して頷いた。

「それなら、廓に行っても驚くことなど何もございません。正治様が金色遊楼の経営をして、私のような遊女がお下働きをし、沸嗣様は勉強をなさるのです」

 私はもう既に、遊廓に行くのが恐ろしくなっていた。

「出目金さん、その喋り方って、僕にもやらなくてはならないんですか? 慣れないもので、よく分からなくて……」

 出目金はぱっと顔を上げると、今度は微笑んだ。

「そうですか。では、この喋り方でよろしいですか?」

「は、はい。あとその、沸嗣様っていうのは……?」

 本当は敬語を使われることからして、変な感じだった。これまで大人に敬語を使われたことなどなかったからである。

「正治様のご子息ですから」

「呼び捨てにはできないんですか?」

「まあ、私が沸嗣様を呼び捨てにすれば、正治様に叱られてしまいますよ」

「二人だけの時でも……」

 出目金は考え込むような素振りをすると、いい案を思いついたとでも言いたげに笑った。

「じゃあ、これからは坊ちゃんとお呼びしましょう。これなら、正治様にも怒られないでしょうし」

 少女のようにくすくすと笑う出目金は、年上のはずなのにあどけなく見えた。

「坊ちゃん、一応、事前に色々説明をしておきますね。私のような花魁はーーまあ、正確に言えば遊女、更に言えば女郎な訳ですが。源氏名というものを持っております。私達にも名前はありますが、廓ではそれぞれが源氏名で呼び合っています。私で説明するなら、この出目金という名前ですね」

 あだ名のようなものなのかな、と当時の私は考えた。

「花魁と遊女と女郎は何が違うんですか?」

「花魁は、吉原遊廓にいる位の高い遊女のことですね。私達とは格が違います。遊女は、私達のように廓で男衆の相手をする人のことですね。女郎は別名のようなものです。

 先程言った通り、私達は花魁とは呼ばれているものの所詮は紛い物です。吉原遊廓は、大富豪が金と時間をたっぷり使って遊ぶ場所ですから、そもそもの遊女の教養もかなり違うのです。私達からしたら花魁は憧れなんですよ。騙されて売られ、遊女として過酷なお下働きをさせられて……。だからせめて、自分達を花魁だと偽って暮らしたいのですよ」

 出目金は無表情にそう呟くと、にっこり笑って私の方を見た。

「坊ちゃん、うちの遊女にも位がありましてね。ほらあそこ、遊廓が川を跨いで建っていますよね。そこから左側に、二階建ての細長い建築物があるのが見えますか? そこが遊廓の別館です。本館とは渡り廊下で繋がっていまして、あそこの二階は特別室と言われて稼ぎ頭の遊女だけが入れるんです。今でいうと朱文金(しゅぶんきん)姐さんですね。

 そして次が、座敷持ちです。座敷持ちは、客を取る自分の部屋を持っています。人気のある遊女しか部屋を持てないんですよ。それ以外の遊女は、共同の部屋で寝泊まりをします。金色遊楼は狭い上に遊女の人数が少ないので、そこまで窮屈な感じではありません。

 新造は姐さんの身の回りの世話をしたりするんですが、他の遊廓よりつきっきりではないようです。私はここから出たことがないなら分からないんですけどね、本土から来たお客様がそうおっしゃっていました」

 説明されても、全く想像がつかない。

「あっ、遊女の説明ばっかりしていましたね。他の人達の話もしましょう。まず、うちの店をやっているのは正治(しょうじ)様です。正治様が遊女の源氏名を考え、経営をしたり……お金のやり取りをしています。つまりこの廓では、一番偉い人ですね。

 二番目は、遣り手婆の竹地さん。竹地さんがやってきた客に合った遊女をあてがいます。竹地さんは客をおだてて高い部屋に揚がらせたり、高い家具や花、酒を注文させます。自分の稼ぎは早く自分の借金を返すことに繋がるので、一応遊女達も各々客にねだったりしますが、やっぱり一番巧いのは竹地さんですね。竹地さんも昔は遊女だったそうです。

 遊女の中で一番偉いのは、言わずもがな稼ぎ頭の朱文金姐さんです。遊廓は稼ぎが全てですから。

 まあ他にも、雑用や飯炊きをする赤前垂れの子達や、客引き、仲どんまで色々人がいる訳ですが……」

「あっ、あの、それで僕は一体どこで暮らすんでしょう?」

 話が永遠に続きそうだったので、私は勇気を出して割って入った。出目金はちょっと考え込む素振りをした。思い当たる場所がないのか、それとも多くて絞れないのかーー。

「おそらく別館の一階でしょう。別館の一階は、正治様の部屋ともうひとつ空き部屋がありますので」

 実の父親の近く……。本来なら当たり前のことだが、私は緊張した。もし嫌な人だったら、距離が近い分辛いだろう。

「ふふっ、ところで坊ちゃん。私の源氏名、どうして出目金だか分かります?」

 私は首を横に振った。

「胸ですよ、胸。出目金って、目が出っ張っているじゃないですか。それを私の胸で例えた、ちょっとした洒落です。下品だと思う人もいますが、それが私の売りですからね。

 売りがあると言えば……。朱文金姐さんは、ちょっと特殊なんです。姐さんは生まれつき目が見えないうえ、凄まじい美貌を持っていたので、最初から遊廓に売る為に育てられました。でも、目が見えないにも関わらず、水の音を聞いて川に飛び込むんです。家に閉じ込めておいても、隙を見てふらふらと川に飛び込んでしまうだとか……。そして、泳いで湖の方まで行き、ぷかぷかと顔を上にして浮いているらしいんです。坊ちゃんは知らないかもしれませんが、一時は湖に幽霊が出るだなんて噂があったんですよ。

 そして……売り物にならなくなったら困ると両親が心配をし、噂が広まらないうちに姐さんは売られました。姐さんの両親は安くなるだろうと落ち込んでいましたが、それを正治様が高値で買い取ったんです。そして正治様は、姐さんの泳ぎが得意なこと、誰もが惚れるような美貌から〝朱文金〟という名前を付けたんです。正治様の見立ては大当たり。姐さんは瞬く間に人気が出ましたよ。その見えない目でぼんやりと宇宙を眺めて、お客様に体を委ねて、いつまでも優しく寄り添ってくれる姐さんを気にいる方が増えました。皆さん〝生活を忘れられる〟とおっしゃいましてね。まあ、夢のような空間だったという訳です。あっ、でもやっぱり合う方と合わない方がいますよ。朱文金姐さんは主に積極的なお客様との相性がいいですね。控えめな性格だと、稀に姐さんを怖がって床に入れない方もいますし……」

 出目金の話はすこぶる長かった。放っておいたら永遠に続くのではないかと思った程だ。

「出目金さんはどうしてそんなに朱文金さんのことを知っているんですか?」

 出目金が、待ってましたと言わんばかりに頷く。

「そうなんですよ! (くるわ)では、全員過去の話をしない、探らないと言うのは暗黙の了解なんです。誰だって話したくはないですからね。それなのに、姐さんは私に、さっき言ったような話をぺらぺらと……。それが他の遊女達にも言っているようなんです。聞けばお客様にも、聞かれたら嘘を付かず話しているらしくて。でもどうやら、それが彼女の特性らしいですよ。嘘を付かず、それどころか何を考えているのかも分からない……。そういう、非現実的な様子が受けるらしくって」

 出目金はそう言うと、今度は自分の売上が伸び悩んでいる、という話をし始めた。どうやら彼女は明るくて話好きらしい。

「他に人気の方っているんですか」

「ええ、いますとも! まず葦登(よしのぼり)。彼女は座敷持ちです。葦登は、ここにいるどの遊女よりも気が強いんです。まず、床に入る時以外、客に一切体を触らせません。そして酒も花も家具も、一切客にはねだらないんです。普通なら、客が愛想を尽かしてしまいそうなものですが、ここで引き留めるのがそりゃあもう巧いんです。葦登はお客様が話した情報をよく覚えています。たった一度自分にあてがわれて、結局は他の遊女の馴染みになったお客様のことでも……。会話を覚えていると、まるで長い付き合いのように話を振れるじゃないですか。媚びは売っていないのにも関わらず、客に自分は特別だと思わせることができるんです。そうなると、ほとんどの客が『普段は冷たいけれど、自分のことだけは好いてくれている』と勝手に勘違いしてくれるわけです」

「へぇ……そんな人もいるんですね」

 私がそう言うと、出目金は嬉しそうに大きく頷いた。

「そして、葦登と対極的なのがらんちゅう姐さん。太ってはいないものの、肉付きが良く女性的なふっくらとした体つきをしていて、とんでもなく泣き虫なんです。まず馴染みの客が来てくれると泣きます。そして酒を注文してくれると泣きます。床に入る前と、お下働きの最中なんて号泣していますよ。ちなみに前の二つが嬉し泣きで、後者は悲しくて泣いているだけ。まあ、客はそれを勝手に嬉し泣きだと勘違いしてらんちゅう姐さんを指名しますけど……。

 もちろん、名前の由来は、よく泣いて目を腫らすから。さすがに本物のらんちゅうまでにはなりませんけどね。姐さんも座敷持ちです」

 出目金はそう言い終えると、急に方向転換して橋の方へ歩き出した。

「橋、渡るんですか?」

「はい。今は客が来ないので、正面から入ります」

 私は出目金の後をついて行った。見上げると、漆塗の重厚な建物と、キラキラと光を反射する硝子窓。上へ上へと聳え立つこの大きな建物を、私は今まで一度も近くで見たことがなかった。

 出目金と遊女の話をしながらしばらく歩くと、ついに店の目の前まで来た。

 川を跨いで建っている遊廓。それと渡り廊下で繋がっている別館。そしてその二つを、低い柵が覆っていた。

「普通なら、高い壁と溝で囲まれているらしいですよ。遊女が逃亡しないように……。ここは、遊廓から逃げたところで、逃げ場がないからただの柵なんです。この狭い島で足抜けに成功した遊女なんて一人もいませんからね」

 そこで私は、あることが気になって出目金に聞いてみた。

「もし逃げようとして捕まったら……どうなるんですか?」

 ――その時私は、まさかそんな答えが返ってくるなど少しも思っていなかったのである。

「手足を切り落とされます」

 そう言われ、全身に鳥肌が立った。

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