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蛇島(R-15版)  作者: 蛇迫沸嗣
蛇迫沸嗣の日記
3/23

八月二日

 その日は珍しく晴れていた。

 雲一つない青空で、私の気分も晴れ晴れしている。

 しかしそんな私の心情など全くお構い無しに、悲劇は訪れた。

 それは夕食を食べている最中に起こった――。

 父が何やら母と目配せしている。隠し事があるかのように、こそこそとしているのだ。

 思えば、私はこの時すでに心のざわめきを感じていた。

 急に父が改まって、母と一緒にこちらを向く。隣にいる菊は何も気にせず、淡々と箸を進めていた。

「沸嗣」

 父が私の名前を呼ぶ。

 心臓がどくん、どくんと煩い。

 父の唇が開き、形を作り、声を発するまで……どれほど長く思えたことか。

「お前はうちの子ではないんだ」

 しばらく沈黙が流れた。

 菊の食器の音だけが響く。

 黙りこくった私に追い討ちをかけるように、父は話し出した。

「沸嗣、お前は遊廓の楼主、蛇迫正治(じゃさこしょうじ)の息子なんだ。父さん達は、正治様に頼まれて、今までずっと沸嗣を育ててきた。沸嗣、お前は明日から遊廓で暮らすんだ」

 私はそれを聞いた時、心の中で何かが壊れて行くのを感じた。今までの全てが、嘘だっただなんて。

 呼吸が浅くなる。

 この家って、最初からこんな色だったっけ。壁や床や空は生きていないのに、全部さーっと血の気が引いたような色をしている。

「遊廓……?」

 私の口から出た言葉はそれだけだった。

「ああ。蛇迫家がこの島で一番金持ちなのは知っているな? ただ蛇迫家には、後継が死にやすいという致命的な欠点がある。それで正治様は、お前が産まれた後うちに預けたんだよ。それで無事に十五歳まで成長したんだ」

 私はここの子供ではなかった……? 遊廓の子供だったのだ。私は遊廓の存続の為に預けられたのか。

 そこがここ、海原(うなばら)家……。

 両親と私があまり似ていないのも、そういうことだったのか。父が私と母の笑い方が似ていると言っていたのも、血の繋がっていない家族だとそこしか似るところがなかったからかもしれない。

「父さん……、どうして、蛇迫家の後継はすぐ死ぬの? まさか殺人とか……」

 父はすぐに首を横に振った。

「沸嗣、考えてみろ。遊廓はな、人々の恨みが集まる所だぞ。今までだって、何人もの花魁が川に身投げしている。心中だって幾度となくあるんだ。その恨みに、産まれたばかりの赤子が耐えられると思うか?」

 私はそれには返事をしなかった。納得しかけるような説得力はある気がしたものの、その考え方はやっぱり現実的ではないと思う。人々の恨みが募っているのなら、尚更殺人の可能性が高いのではないか。第一、楼主が孕ませたのは体の悪い花魁だったのかもしれないし、花魁だとしたら妊娠した後の劣悪な環境で赤子に影響が出たのかもしれない。

 相手が花魁でなく、一般の女性だったとしても、恨みを買っている楼主の嫁として花魁達にいじめられていた可能性だってある。

 まず現実的な解釈に目を向けずに、神だ祟りだと騒ぎ立てるこの島の人々が、私は苦手だった。

 蛇神様に生贄を捧げる儀式だって、島の高齢化を防ぐ為だろう。しかしその為に人殺しはできないから、〝神様に捧げる〟と自己を正当化して行なっていたのではないか。

 私は急に沸き上げてきた怒りを心の中で抑えながら、話の続きを聞いた。

「お前には、明日遊廓に引っ越してもらう。向こうに引っ越せば、お前はもう蛇迫家の人間だ。父さん達は役目を終えたし、お前とはもう会わないだろう。今日が最後だ」

 噛み締めるように父はそう言った。母は、私の方を潤んだ瞳で見ている。菊はこちらをちらりとも見ず、無音で汁物を啜っていた。

「沸嗣、辛いでしょうけど、これからあなたは豊かな暮らしが出来るのよ。母さん達のことなんか忘れて、立派な大人になってね。絶対に、周りの大人に毒されるんじゃないよ」

 母は涙を抑え、私にそう強く言い聞かせた。私は何も言えなかった。涙すら出てこない。

 私が呆然としたまま頷くと、両親は再び食事に手をつけた。菊はもう食器を下げるところだった。


 私は母がちょうど良い湯加減にしてくれた薪風呂に浸かりながら、ぼーっと宙を眺めていた。

 隙間から入って来るひんやりした潮風が、風呂の中の暑い空気に混じって気持ちがいい。心地良さに目を瞑り、そのまま耳を澄ますと、遠くの方でざぱん、ざぱんと波の音が聞こえる。奈神村は静かだ。この静かな夜も、明日からは聞こえなくなるのか……。私は感傷に浸りながら、いつもより長く風呂に入った。

 そうして、風呂から出ようとした頃である。

 妙な音が聞こえたのだ。



 ずるずるっ。ずるずるっ。



 地面を這うような音が聞こえる。まるで人が匍匐前進をしているような……。なんだか気味が悪い。

 私はそう思って、すぐに風呂を出た。体をよれた手拭いで拭き、寝巻きに着替える。居間に戻ると妙な音のことなどさっぱり忘れていた。菊が私に湯呑茶碗を渡してきたので受け取って飲むと、冷たい水が喉を通って胃に注がれるのを感じる。熱くなった体に冷水が心地良く、私はごくごくと水を全て飲み干した。飲み干した時に周りを見渡すと、菊が風呂に入る所だった。

 菊は私達に、裸はおろか着物に隠された腕すら見せたことがない。両親曰く、十二歳辺りから急にそうなったらしい。だから私は、菊の素肌は僅かに見えるうなじと手首、たまに着物から覗く白い腕しか見たことがなかった。

 私が幼い頃……菊が笑っていたような、そんな記憶がある。いつから喋らなくなってしまったのだろう。両親は、そのことで遊廓を随分と嫌っているようだった――。


 すっかり妙な音のことを忘れ去った私は、急に外に出たくなった。奈神村には蛍が大量に生息しているのである。それを見られるのも今日が最後かと思うと、無性に寂しくなった。玄関扉を開けるとふわりと光が飛び込んで来る。蛍だ。

 これを見られるのも、今日が最後?

 なんだか胸がきゅっとする。今考えれば、奈神村に来るなんて私の意思で簡単にできたことなのだが。

 私は外に出る。ちらほらある民家のぼんやりとした灯りと、黄緑色の蛍の光が、電気のないこの島を明るく彩っている。今まで当たり前にあって、特別心打たれたことのないこの風景。美しいとは言えないし、まだここを離れたわけでもないのに、懐かしいような気分になった。

 ーーその時である。



 ずるずるっ。ずるずるっ。



 右手の、風呂のある離れの方からまた妙な音がした。音を出した者の見当がつかない為、なんとなく不安な気分になりながらその方向に体を向ける。

 ーーそこには手足を切り落とされ、まるで蛇のように地面を這っている女がいた。

 喉が閉まって声が出せない。女は猿轡を噛ませられているようで、声を出さず必死にもがいている。私は女の派手な着物と、煌びやかな(かんざし)を沢山髪に挿している様子から見て、花魁だろうと悟った。

 しかし声が出ない。体も金縛りになったように動かない。……この花魁は助けなければいけない……そんな気がする。でもどうやって……? 私まで被害に遭ったら……? どうするのが正解なのだろう。どうすればーー。

 その時、花魁がこちらを振り向こうとした。

 それを見たきり顔を背け、私は走り出していた。逃げたのである。花魁が私を認識して、助けを求めたところで私が逃げれば、私は彼女を見捨てたことになる。それを避けようと思って、私は花魁に見つからないように家の中に身を隠した。

 もっとも、見捨てたことに変わりはなかったが……。罪悪感を感じたくなかったのだろう。

 しばらく玄関に張り付いていたが、落ち着くにつれ段々とさっきの光景が幻覚かのように思えてきた。そして事実確認をするため、そっと扉を開けて外を覗いてみた。

 そこには何もなかった。いつもと同じような、静かな光景が見えるだけだった。花魁はもちろんいないし、目を凝らしても血痕は見えない。

 あれは幻覚だったのだ。そう自分に言い聞かせて、私は家の中に戻った。しかし布団に入った頃、あることに気がついてしまったのである。

 あの花魁は、最初から手足を切り落とされてなどいなかったのではないか……。

 あの時私は混乱していて、細部まで見ていなかったが、手足を切り落とされていればおびただしい量の出血があったはずである。しかしそれがなかった。手足を切り落とされていないのであれば、花魁は着物の中で腕と足を縛られ、もがいていただけではないのか。

 出血が一切ないのなら、地面に血痕がなかったことは幻覚だったことの証明にはならない。

 私が玄関で混乱している間に、犯人が花魁を光の届かない闇に連れ込むことなど、いとも簡単に行えるだろう。

 つまり私は、あの花魁が追い詰められている状況を見ておきながら、助けられなかったのだ。

 私は花魁を見捨てた。あれがどういう状況だったのかは分からない……でも、私が自分も襲われるかもしれないと想像していた間、あの花魁は比べ物にならないくらいの恐怖と戦っていたのだろう。

 その日は、あの花魁の音と動きがずっと忘れられなかった。



 くねくね地面を這って、ずるっ、ずるっ、と音を出している。永遠に、助けを求めて……。ずるっ、ずるっ。ずるっ、ずるっ。

 花魁は時折振り向き、恐ろしいものから逃げるように這う。ずるっ、ずるっ。ずるっ、ずるっ。

 そして闇の中から伸びる二本の手に足を掴まれ、引き摺り込まれてしまう……。ずずずずずっ。

 そこには、波の音と蛍の羽音だけが響く、元の静かな風景が広がっている。

 何度も何度も飛び起きた。その度に同じ夢を見た。見るたびに「お前が悪い」と言われているような感覚になる。私はそれを繰り返して、いつしか夢も見ず静かに眠りについていた。

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