八月十八日
丑三つ時。私は包丁を持って、自室の窓から遊廓を抜け出た。本館に向いた面にちょうど厠が出っ張っていて、中庭からは私が見えない。向かう場所は決まっている。
変にこそこそしても怪しまれると思い、意識していつものように歩いた。ところが意識すればするほど、ぎこちなくなっていく気がする。振り返ると窓越しにぼんやりと行燈の灯りが浮かんでいて、微かな嬌声と楽器と歌声とがとても懐かしく思えた。再び前を向くと、黄緑色の人魂のような蛍が暗闇を飛んでいる。見知った道……。見知った場所。
それでも、周囲を警戒しながら進んだ。宗治が私を殺す日が今日である可能性はある。途中で鉢合わせて乱闘騒ぎなんて絶対に御免だ。父が私を殺す計画があった場合も相当まずい。でも家を出てしまった以上、やり遂げるしかないのだ。
そしてとうとう、真っ暗な海原家についてしまった。玄関扉に耳をつける。寝息は聞こえない。
このまま扉を開けて玄関から入ってしまうと、ガラガラと音が鳴って気づかれるので、居間の窓から入ることにした。
音が鳴らない窓は知っている。私はそっと手をかけ、横に開いた。
開けた窓から侵入する。いつあの顔が暗闇に浮かんで追いかけられるか気が気じゃないが、これでも覚悟はしてきた。宗治に襲われたら絶対に殺す。相討ちになろうとも、私だけが死ぬことには絶対にさせない。
その時、すうすうと寝息が聞こえてきた。菊の部屋だ。今は菊じゃないとはいえ、いつもの習慣であそこにいるのだろうか……?
包丁の柄が熱くなる。私は湿気を帯びた障子を開けた。そこにあの顔はない。布団が敷かれていて、薄い掛け布団は中に人がいる分盛り上がっている。
呼吸の音がする度、その盛り上がりが静かに上下する。私は今からこれを絶とうとしているのか。
呼吸が浅くなる。水を吸い込んでいるように、ただただ肺が埋まって行くような気がした。これは本当に宗治なのだろうか。宗治だったとして、私達と過ごした時間は本物だったはずである。彼に、本当に、少しの良心も残っていないのだろうか。
私の心臓の音。
私は包丁の柄を強く握りしめて、布団の方へ歩み寄る。死んだように布団から投げ出された四肢は真っ白だ。そして、長い髪を下ろして寝ているその顔は、宗治であり、朱文金であり、菊のものだった。
……殺してけじめをつけなければいけない。
宗治は菊を殺した。朱文金も宗治の手によって殺された。今度は、宗治が死ぬ番だ――。
包丁を振り上げる。そっと頭上から見下ろし、胸にかかっている掛け布団を、起きないようにやさしくずらした。左手に布を持って、右手で……心臓に……狙いを定めて……。
ずしゅ……っ。
宗治の目がカッと見開く。私は持っていた布を力一杯口に押し込み、枕で顔を押しつぶし、首を包丁で掻き切った。
うぅうぅぅうううぅうううううぅ。
しばらくは獣のような低い低い唸り声が続いて、腕の中で真っ白な四肢が跳ねるように抵抗したが、一分も経たないうちに動かなくなった。
腕はまだぬくもりを感じる。
……私が殺したのである。正直なところ、顔は見たくなかった。出目金が菊と宗治の入れ替わりに気づかなかったのも納得がいく。私はおそるおそる血のついた包丁を見た。赤黒い血でてらてらと光るそれには私が映っていた。それを布団に置いて、死体と包丁を布団ごと巻いて麻縄で縛る。
それを座らせるように背負子に乗せ、更に縄で縛った。死後硬直が始まっていないのと、ぺらぺらの煎餅布団なのとで簡単に座らせる事ができた。
後は、これを背負って川に捨てればいい……。
私は入ってきた窓を閉めて、玄関から出た。暗い死んだような民家。その間をそろそろと通りながら川にたどり着いた。……でも捨てる気になれない。今まで川に人が落ちても、誰一人として港の方に流れていかなかったのは知っている。でも……万が一……これが最初になってしまったら……。
そう思うと、もう駄目だった。私は重い身体を引き摺りながら竹林を目指していた……。
飛び交う蛍。こんなに微かな光でさえ、私の犯罪を暴いてしまうのではないかと思わせる。
「ほう ほう ほたるこい
殺した屍重いぞ
そっちの袖が赤いぞ」
こんな時に思い出したくない。でも、延々と、延々と頭に鳴り響く。重い……重い、重い!
袖についた血など、暗くて分からない。暴かれてしまう。これが見られたら……。
「ほう ほう ほたるこい
そっちの湖遠いぞ」
これは今の私の状況そのままなのではないか。これは私の歌だ。誰かが、苦しそうに死体を運ぶ私を嘲笑っている。遠い……。でも、湖まで行かないと心配だ。
「お前はほんとにほたるか?
ほう ほう ほたるこい
ほう ほう ほたるこい」
蠅の羽音がする。どうして? どうして死体を持っている事が分かるのだろう。何かが腐ったような臭いがする。死体? 死体の臭いなのだろうか?
これが私に染み込んでしまったらまずい……。とにかく、早く捨てないと……。
でも体が重くて、中々前に進まない。暗くてどこに竹があるのかもよく分からない。もう私ごと、湖に落ちてしまうんじゃないか。
終わらない……。
もう嫌になりかけた時、大きく窪んだ地面と水面を見つけた。それはまさしく蛇の頭のような形をしている。
湖だ!
私は嬉々として背負子を下ろした。憑き物が取れたかのように肩が軽い。それを手で押し、一思いに突き落とす。
ざぶん!
湖は触手を伸ばすように宗治を捕食した。宗治と凶器を飲み込むと、舌なめずりして穏やかに波打つ。
私はしばらく水面を見ていた。今の湖は食事を終えて、眠っているかのように静かである。蛇神様はきっと、一度食べた生贄を吐き戻したりしないだろう。
そうなぜか安心できて、私は帰ろうと振り返る――。
そこには私がいた。背格好が同じで、顔が同じで、表情も、全てが……。まだ水面を見ている気になった。私が、私に手を伸ばす。我に返って逃げようとした。しかし何か黒い塊に躓いて転んでしまった。
私の手が伸びる。――死にたくない。苦しいのは嫌だ! こんな所に沈みたくない!
抵抗した。抵抗したつもりだったが、疲れた私の手足には力が入らない。私は――私に――黒い大きな塊ごと、突き落とされてしまった。
ふわりと宙に浮く。死んだのだろうか?
――ざぶん!
宗治を沈めた時と同じ音が鳴って、身体が冷たい水に浸る。水が、頬を覆い、滑り、口に入る。口から喉、胃、肺に――。苦しい! 冷たい!
水面の向こうには私がいる。私のもがく手足でその姿は歪み、ぐにゃぐにゃと溶けて、笑い、視界が閉ざされた。
ごぽごぽ。
蛇神様の胃の中のような音がただ聞こえる。