八月十二日
八月十二日、私がほたると勉強をしていると、海原家の家族が死んだと彼女に伝えられた。父の正治からの伝言らしい。
「竹林で作業をしていた所、湖に転落死したそうです」
たったこれだけの情報しか与えられず、私は悲しむ隙もなく勉強に戻らされた。
ただ、気になることがある。菊のことだ。これで朱文金と菊のうち、菊が死ぬことで同じ顔は一人になった。まるで偽物が消されたみたいに……。
私にも同じことが起こるんじゃないか。私が偽物で、竹林にいる本物の私が、私に成り変わるんじゃないか。そして誰も気が付かない……。湖の中で家族と一緒に朽ち果てる……。
ついそんな妄想をしてしまった。
上の空だったからか、勉強内容はほとんど覚えていない。気がついたらほたるはいなくなっていた。
朱色の毒々しい光で、格子窓が溶けているように見える。血を浴びせられているような感覚だ。
襖に描かれた金色の魚は、朱い光を浴びて生き生きとしている。もうそろそろ気の早い客が来ている頃だろう。私はよろよろと本館へ向かった。
本館では、想像通り気の早い客が通されて、少し賑わっていた。それでも客についた遊女は数人らしく、ほとんどの遊女が化粧部屋にいるようだ。
何か手伝えることがないかとうろついていると、竹地さんと目が合った。いつもならこのまま仕事を貰えるのだが、今日は気まずそうに目を逸らされた。もしかして、私の家族が亡くなったことを気にかけてくれている?
私は暇なので、赤前垂れのチズルに声をかけた。何か手伝えることがないかと思ったのだ。
「坊ちゃん……その……ご愁傷様です」
その後何を言ったのか覚えていない。でもなんとなく上手く話を繋げたのだろう、最後に、チズルがこう言った。
「あの、この話、知ってますか……? 今年の生贄は捧げないそうですよ」
チズルの話を要約すると、こうなる。
私の家族が三人まとめて湖に落ちたから、今年の生贄を選ぶ必要は無くなった。時期も、丁度いつも生贄を捧げる頃だった――という具合だ。今考えると、いわば遺族となる私にこんな話をするチズルは少々無神経と思えるが、当時の私は何も思わなかった。むしろ、話が繋がったような気がして怖かったのである。
「もうすぐ生贄を捧げる頃じゃないか。そろそろ――」
あの聞こえなかった部分はこうやって埋まって、
そろそろの次には私の家族を湖に落とす旨の言葉が入っていたんじゃないか。そんな妄想が広がってしまう。朱文金の「出目金――――大丈夫でしょうか――あなたは――――」というのは、果たしてどういう意味なんだろう。葦登の話を聞いこともあって、そこに出目金の名前が入っていることがとてつもなく不気味に感じられた。
その後チズルは、朱文金が行水で休暇だということを言った。朱文金は稼いでいるから、二日くらいなら簡単に休暇を取れるらしい。
――夜。遊女と客の声が響く中、私は父の部屋に呼び出された。
部屋の四隅に行燈が置いてあり、ぼんやりと父の姿が浮かび上がっている。
「沸嗣」
「は、はい」
名前を呼ばれるだけで、空気が痛いくらいピリピリしだす。父が口を開いた。暗闇に浮かぶ真っ暗な穴。父の口から言葉が発せられるまでが、随分と長く感じた。
「お前の母親は朱文金だ」
私は思わず目を見開く。父は続けて、
「朱文金はもう借金を返し終わった……。彼女には、明日からは私の本妻になってもらう。そして、お前の母親にもだ」
母親。
「朱文金は朱音という。今日からお前は、私を〝父さん〟朱音を〝母さん〟と呼びなさい」
頷くこともできない私に、父は「出ていっていい」と言った。私は何か適当に言って自分の部屋に戻ってきたらしい。襖をぴったり閉めると、畳に大の字になった。
行燈のぼんやりとした光。
布団も敷かないまま、眠ってしまいたかった。別に赤前垂れや遣り手婆の仕事は、手伝っても手伝わなくてもいい。
それでもなぜか、私は本館に向かった。頭を空にしていたかったのかもしれない。
後は、ずっと手伝いをしていたと思う。……しかし、私が一階の廊下にいた時のことだった。
入ってきた客が私を見るなり顔を真っ青にし、指を差したのである。客の言葉に、私も仰天した。
「お前、今外にいなかったか……」
さーっと血の気が引いた。私はずっと、ここで手伝いをしていたと言うのに……。
客の様子を見て、泥酔していると思った遣り手婆が来た。何やら話し込んでいるが、客は酒など飲んでいないと主張する。
「中庭の方だ……。そこに、全く同じ顔の人がいたんですよ! 酔ってる訳じゃなく、本当に……」
結局客は遣り手婆に言いくるめられ、この日は帰って行った。遣り手婆としても、精神が安定していない客が金を払わない危険があるから通したくなかったのだろう。
そしてこの晩、夢を見た――。
――楼主になった私が、逃げる遊女を追いかけている。遊女は竹林へと入った。私も追って竹林に入る。どんどん、どんどん背中が近くなって行く。
――その時、遊女が転んだ。私はここぞとばかりに包丁を振り下ろす。ざくっ。包丁を着物ごと突き刺して肉に突き立てた気色の悪い感覚が、しっかりと体に伝わってきた。遊女の着物が見る見るうちに赤く染まる。遊女は獣のような悲鳴を上げると、腕だけで這うようにして逃げ始めた。私は怒り狂って腕に包丁を振り下ろす。
ざくっ……どすっ。
包丁は腕を貫通して地面に突き刺さった。振り下ろす度に肉の感触が伝わってきて、脳の奥が痺れるような感覚がする。私が育てた肉。手塩にかけて、客に気に入ってもらえるよう美しく育てたのに――!
遊女は脚も手も使わず、悲鳴を上げながら蛇のように体を這わせた。
それを捕まえると、遊女を自分の方に引き寄せて上に跨り、鋸を扱うように包丁で四肢を切断し始めた。ギコギコという音は鳴らない。骨を断ち切ることはできないから、関節を外す。何度もやっているかのように、慣れた手つきで終わらせた。全て切り終わると、切れた着物と一緒に、手脚を湖に投げ入れる。これまで何人もの遊女や生贄を食ってきた、深い湖に――。ぽちゃんと軽い音を立ててそれらが沈むと、私は遊女の髪の毛を掴んで遊廓に戻ろうとした。見せしめのためだ。こうすれば、他の遊女たちが足抜けしようと思わなくなる……。
その時。ふいに遊女の顔を見ると、目が合った。
――白い肌。どこを見ているのか分からない目。小さくて、無感情にきゅっと引き締められた唇。
――遊女の顔は、朱文金になっていた。
「うわあぁあぁぁあっ」
悲鳴を上げて朱文金を放り投げる。ところが、走っても走っても竹林から抜けられない。それに後ろからは何かが付いて来ている!
足を止めることもできずに、私はひたすら走り続けた。前方に人影が見える。まさか朱文金? 先回りされた――⁉︎
そう思って方向転換しようとしたが――――それは朱文金では無かった。――私である。
それは物凄い速さで迫ってくると、私を刺した。痛みは感じない。死んだのだろうか。
それが私を引きずって、湖に投げ入れようとしている。ようやく気がついたのか、私は暴れ出した。なのに体が満足に動かない。それは私と同じ顔で私を見下ろしている。必死に首を捻って見たのは、湖の底から伸びてくる無数の手だった。……それらが、私の手足を掴んでいる……。
後頭部が水に付く。ひんやりとした感覚。次に背中が、尻が、足が水に浸る。凍えてしまいそうなくらい冷たい。ついに顔が水に浸ってしまい、隙間を埋めたがるように冷たいものが口に侵入して来た。視界が青くなる。水面の下から見ても、それはまだ私のことを見下ろしていた。
肺が水で満たされる。
苦しい。苦しい!
体温が奪われて……意識が遠のいて……それでも苦しい……。助けは来ない……誰か……!
ここではっと目が覚めた。酷く荒い呼吸をしている。
夢だったのだ。